第6話 電車
「ついてこないでください」
「付いていくっていうか、方向が同じなんだよ。最寄り駅に行くんだから」
シャルの帰り道、樹里は少し後方から一緒に歩いてきていた。なるほど、学校から最も近い駅は当然ひとつだ。少女は自分の被害者的な感情を恥じた。
「追い越すには速いし、置いていかれるには遅い歩調なんだよ。ねえ、嫌じゃなかったら並んでもいい?」
「……」
このように選択や意思を問われるのは、まだ苦手だった。黙っていると、樹里はゆっくりと隣に来た。
「行こう。暑いね」
やんわりと促されて、シャルは歩き出した。木の植えられているところにはセミがいて、懸命に鳴いているのが聞こえる。たまに地面へ落ちているのがまだ生きており、それらはシャルが嫌だと思う習性を持っていた。
「あそこにセミ爆弾が落ちている」
「せみばくだん?」
樹里は細い道路の反対側へ行った。途端にセミが大きな声で鳴いた。ジジジッ、ジジジッと断続的に。そして鳴きながら地面を転がり回った。
「いや。その音は苦手なの」
「ごめん、ごめん。そっか嫌な人もいるもんね」
か細い声をきちんと捉え、セミで遊ぶのをやめた樹里がシャルの横に戻ってくる。
「なんか嫌とかだんまりとか多いね。告白受けるのも調子悪そうだったし。なにかあった?」
なにかは、ある。しかし人にべらべらと喋るような話ではなかったし、詮索されるのも嫌だった。
「また顔に、嫌って書いてある。私、強引かな。無理だったらはっきり言って」
「……わからない」
たっぷり時間をかけた末の答えがこれだった。
「じゃあ嫌って言われるまで、そばにいる」
樹里はまったくめげなかった。
18時の駅構内は帰宅ラッシュの始まりで、人が込み合っていた。ひとりで歩いてしまうシャルを見失わないようにするのは骨が折れた。なんとか隣に立つと、電車を待つ亜麻色の顔が緊張しているように映った。
「人ごみ苦手なの?」
うなずく少女。
「まあ、そんな感じはするよね。押しつぶされそうだし。乗りかた下手そうだし。それから体幹も弱そう」
樹里は言いたいだけ言って笑った。
「なにが」
「ん?」
「なにがそんなに面白いの。わたし、そんなに変ですか」
「変じゃないって、可愛いの。もっと自信を持つといいよ」
可愛いというのはママに言われるものしか信じない。シャルは樹里を無視した。
(いないいないおばけのおまじない)
「なにか言った?」
「言っていません」
人を満載にした電車が、速度を落としながら、ホームに入ってくる。ドアが開き、降りる人々がホームへ流れると、今度は乗る人々が中に押される。樹里は絶対にシャルから離れまいとした。ふたりは乗り込んだのとは反対側のドアに押しつけられる。樹里とシャルの間には、ごく若い男性がひとり、挟まった。まずまず上出来だ。
乗った電車は快速急行だった。次の駅に停車するまで少し時間がある。樹里が見るともなしにシャルを見ると、彼女は顔を赤くして何かに耐えていた。
(どうしたんだろう)
もよおしたわけではないだろう。そのとき、少女は声を出すのを我慢するように、恐怖と羞恥の表情で顔を上げた。彼女は泣きそうだった。まさか。首を思い切り曲げてシャルを確認すると、節くれだった男の手が、少女の胸を指先で揉んでいた。樹里はすぐに声を上げた。
「痴漢です! 友達が痴漢に遭っています! 誰だ、この野郎。痴漢、痴漢です!」
周囲はどよめいた。しかしすし詰め状態で誰も動けない。樹里は痴漢と叫んで、謝りながら若い隣の男をくぐり、シャルの隣に行った。そのときにはもう、痴漢はどの手か分からなくなっていた。
シャルの顔色がまた悪い。もうすぐ次の停車駅だ。樹里はシャルの胸の前で震える手を取り、軽く握った。拒否されなかったので、強く握りしめた。強く、力づけるように。
次の停車駅で、シャルは樹里から支えられるようにして、ホームへ降りた。人の流れに取り残されたベンチが、ぽっかりと席をあけている。樹里はシャルをそこへ座らせた。なぜすぐに助けを求めなかったのか、憤りを感じたが、できないのが彼女であり、惹かれたところでもあった。彼女は大人しく、無口だった。
「ベイリーさん、鉄道警察に話そう」
「だめ。ことを大きくしないで」
小さな声が否定する。
「どうして? やられっぱなしじゃ、いい標的にされるだけだよ」
「大丈夫、痛いことは、されないから」
「痛いこと? とんでもない。痛いことは当然、変なことも同じだよ。やっぱり警察に話そう?」
「お願い、やめて……」
シャルはとうとう、震えながら泣き出した。はらはらと、大きな瞳から涙がこぼれ落ちる。
「痛くない。気持ち悪いだけ。大丈夫。我慢すればなおります」
泣かれては手も足も出ない。亜麻色が落ち着くのを待ちながら、樹里はシャルを守ることを考えた。ホームから少し覗ける赤い空に、セミが鳴いている。今日は風がなく、ひどく蒸し暑い。シャルは何度かタオルハンカチで涙を拭っていた。
「あのさ、嫌ならちゃんと断ってね。ベイリーさんちの最寄り駅ってどこなの。差し支えなければ一緒に登下校しようよ。私、なりはこんなんだし、すぐ大声出す性格だから、ベイリーさんを助けられると思う」
きわめてボーイッシュな少女は提案した。
『助ける』という言葉にシャルは反応した。幼い頃から、何度も求めてきた、助け。普段なら無視か、丁重に断るのだが、シャルは被害に遭った動揺のさなかにいたので、首を縦に振った。
「え、いいの?」
断られるものだと思っていた樹里は、目を疑った。亜麻色がもう一度、頷く。
「今日は樹里さん、助けてくれました。だから胸だけで、済みました」
では今まで、どこに被害を受けてきたのか。樹里は義憤をなんとか抑え込み、スマートフォンを素早く取り出した。
「連絡先を交換しよう」
「わかりました」
返事はよかったが、シャルはコミュニケーションツールの扱いが、しどろもどろだった。冗談や演技ではなく、本当に友達がいないのだろう。アドレスを交換し、操作をひと通り教え、実際にやり取りをしてみる。
――こんばんはベイリーさん。
――こんばんは樹里さん。
――ねえ、私もファーストネームで呼んでいいかな。
――いいですよ。
樹里は嬉しい感情を表現するスタンプを送信した。これはシャルに教えても、なかなかうまくいかなかった。
「キャラクター、子供のやりとりみたいです。必要ですか」
「いいんじゃない、なければないで。少しずつ慣れていけば大丈夫だし。スタンプは無料のもあるけど、課金しなきゃいけないものもあるしね、いまのシャーロットさんには難しいかも」
「かきん?」
「お金を払うってことだよ」
「はい。課金わかりました」
ぐずついていたシャルの鼻は、いつの間にか静かになっていた。
「警察は、やっぱり行かないんだね」
「はい」
亜麻色は頑固だった。まだ濡れた長いまつ毛がしばたたく。間近で見た樹里はどきりとした。
(ビスクドールみたい)
樹里は自分が男の子のような分、きれいで壊れやすいものが好きだった。憧れなのか、なにかの対象として好きなのかは分からない。心も身体もゴリラといわれてきた樹里は、しかし儚いものを慈しみたかった。
この子を、守らなければ。卑劣な痴漢の魔の手から。
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