第5章 工業都市エヴァンザ編 第4話(2)
時刻は昼刻2時を迎える少し前、ルチアが誘拐されてから1時間になろうとする頃。
コーバッツ公社と連なった家宅棟の自室で装備を整えていたルベールは、部屋のドアをノックする音を聞いた。「どうぞ」と一声をかけると、ガチャリと無遠慮にドアが開く。
「ルベール、もう出られる?」
ドアの向こうから準備を整えたセリナとサリューが現れ、気合と気遣いを秘めた目でルベールを見た。セリナの呼びかけに、ルベールは自然な笑顔を作って返す。
「うん、もう装備は整えた。待たせてごめん、二人とも」
いつものように整然と返したつもりのルベールの眼を、セリナはじっと見つめていた。ルベールはその視線が何を意味するのか察しながら、平然とした瞳でその眼を見返していた。
やがて、セリナは呆れたように、はぁ、と息を吐くと、ずかずかと無遠慮にルベールに歩み寄って、彼の頬をそれなりの勢いで殴りつけた。頬を殴られたルベールは動転するでもなく、薄い笑みを浮かべてセリナを見返した。
「急に何だいセリナ。痛いじゃないか」
「理由もなしに殴られたんだから、少しは怒るくらいしなさいっての」
柔な笑みを浮かべるルベールの眼をキッと見据えながら、セリナは言った。
「腑抜けた顔してんじゃないわよ。そんなんで本当にルチアちゃんを助け出せる?」
「…………」
セリナの追及に、ルベールは沈黙する。その間を持つように、サリューが口を挟んだ。
「いきなり殴るのは少しどうかと思うけど、私も同じ印象ね。さっきはいい目をしてたと思ってたけど、まだ何か迷いがあるみたい。らしくないわよ、ルベール」
「また言われますか……どうやら僕は相当調子が狂ってるみたいですね」
敵わないとばかりに弱く笑うルベールに、サリューは問い詰めるような調子で言った。
「今はあなたの感じている負い目を掘り下げている場合じゃない。ルチアちゃんを助けるために、少しでも早く行動を起こすしかない。それができるのはあなただけ。違う?」
「その通りです。そこまでわかってるのに体が動こうとしないのは、何でなんでしょうね」
自嘲するように言ったルベールは、セリナから強烈な拳骨の突き上げと言葉をくらった。
「いいかげんにしなさいよあんた。あんたがぐずついてる間に、ルチアちゃんの身に何かあったらどうすんの。今は悩んでる場合じゃない、それくらいわかってるんでしょ?」
「…………」
ルベールは何も言い返さない。まるで抵抗する理由も気力もないと言わんばかりに。
焦れるセリナに代わるように、サリューが催促するように言った。
「ルベール。気持ちはわからないでもないけど、待てる時間も無いわ。ルチアちゃんの身の安全を考えるなら、これ以上あなたがぐずついているのを待っているわけにはいかない」
そして、停滞するルベールの心を無理にでもこじ開けようとするかのように、言った。
「今、あなたの行動の障害になっている思いを、ここで全部吐き出しなさい。そして、それを吐き出したらすぐに行動に移る。それでどう?」
サリューの言葉に、その意図を共有したセリナも、その意志を突き付けるようにルベールを睨む。有無を言わせない二人の視線に、ルベールは降参したように頭を振った。
「敵わないな、本当に……あなた達には」
そして、胸の中に溜まっていた泥を吐き出すように、悔悟のような言葉を零し始めた。
「この町に帰ってくれば、何かが見えるんじゃないかと思っていました。五年も留守にした家と故郷に帰ってくれば、自分の何が変わったのか、見えるんじゃないかって」
それは、これまでに過ごしてきた時間を信じようとする、希望を求めた言葉だった。
「けれど、帰ってきてわかったのは、何一つ変えることのできなかった自分の姿でした。ルチアに心配をかけてしまう自分、父を何一つ助けることのできない自分、いざという時に力を発揮できない自分……そして何より、そうした自分の弱さに理屈をつけようとして、目の前の現実から逃げようとしてしまう、言い訳ばかりの自分の姿を」
そしてそれは同時に、現実の姿に打ち据えられた、絶望に沈もうとする心の声だった。
「全部、頭ではわかっているつもりだというんです。父やルチアを助けるために、自分が何をするべきかもわかる。それでもなお動き出そうとしない自分を容認しようとしている自分が……自分の意志に確信が持てないなんて理由で動けない自分が……僕は、情けない」
ルベールの告白は、彼自身が自覚している停滞への思いそのものだった。それは闇から伸びる螺旋のように、彼の心を、行動する意志を雁字搦めにしていた。
しかし、それは捉えようによっては、たった一つのこと、一つの言葉、あるいは行動で解決できるものだった。それを知っていたセリナとサリューは、生半可な賢さゆえにそんな場所に囚われていたルベールの苦悩を、呆れたような思いで聞いていた。
「言いたいことは、それで全部?」
無言で返すルベールに、セリナとサリューは、揃って溜め息を吐いた。
「青いわねぇ。本当に、あなたらしい嵌り方っていうか」
呆れたようなサリューの言葉を埋めるように、セリナが今更のように詰め寄った。
「あのね、ルベール。自分がやることについての確信なんて、やる前からわかるわけないでしょ。やってみなきゃわかんないし、だったらまずは何事もやってみるしかないじゃない。それくらい、わかってるんでしょ?」
「ああ、わかってるつもりなんだ。けど……」
力なく頷いたルベールに、セリナは真っすぐな目を向け、言い聞かせるように言った。
「ねえ、ルベール。今のあんたにとって一番大事なことって何?」
「今の、僕に……」
考えこもうとするルベールに、セリナは厳しい目を向け、ダメ押しのように言った。
「難しく考えるのはナシね。本当に今のあんたが何をすべきだと思うか、教えて」
これ以上拘泥するのを許さないその瞳に、ルベールは無駄に理屈をこねようとする自分を諦めた。そして、空っぽになった頭と心で見つかったものを、素直に口にした。
「今、僕がすべきことは……ルチアを助け出すことだ。それ以外には、何もない」
「ほら。やっぱりちゃんと見えるじゃない。だかららしくないって言ってたのよ」
やっと気づいたかとばかりに、セリナはつまらない懊悩を振り払うように言ってみせる。
「あんた、たまに物事をややこしくしすぎなのよ。今、自分に何が大事なのか、自分が何をすべきだと思うのか。何かをする理由なんて、それくらいでもいいじゃない。下手に理由を探そうとして足踏みしてるより、よっぽど前には進めると思うけど」
そして、一歩を踏み出せずにいるルベールに、突き付けるように重ねて言った。
「いいかげん、自分をごまかすのはやめなさいよ。変われなかったのが悔しいなら、何度だって変われるようにやれることを探すしかないじゃない。諦めないならの話だけど!」
心の中心を突いてくるセリナの強い言葉に、ルベールは試すように問いを返した。
「セリナ。君は……僕が、大事なことを諦めるような人間に見えるかい?」
その問い返しに、セリナは決然と首を振り、真っすぐな目をルベールの瞳に向けた。
「思わない。あんたが簡単に自分を捨てるような奴だなんて、あたしは思ったことがない!」
混迷の中に溺れようとしていたルベールを見つめるセリナのその瞳は、切実だった。
「あたしはあんたの、前に進もうとしてきたあんたの言葉を信じてきた。王都でセフィラスおばあちゃんが殺された時、あたしにまずは行動で道を探すしかないって言ってくれたのはあんたでしょ。あたしに言ってくれたこと、言ったあんたが信じられないはずがない!」
「!」
思わぬ事実に、ルベールの心に一筋の光明が差す。そこにセリナが真摯な声で続けた。
「何より、あんたが五年もかけて大切に守ろうとしてきたもの、変わろうとしてきたことを、あんたが易々と諦めるわけないでしょ。あたし、あんたのそういうとこは信用してる。普段はすかした顔してるけど、やらなきゃいけないことのためにはいつも真剣なこと、知ってる。いつも、何か自分にできることはないかって探し続けてきたあんたのこと、知ってる」
「セリナ……」
語りかけるその言葉に込められた圧を感じるルベールに、セリナは己の想いを告げる。
「あの時のことも、それから先のことも、それより前のあんたのことも、あたしは憶えてる。一緒に過ごしてきた時間は、そんなに長くないかもしれないけど……どんな時も進むべき道を探そうとしてきたあんたを、あたしは信じてきた。だから、こんな迷ってる場合じゃないところで足踏みするなんて……本当に、らしくないよ。ルベール」
そうルベールに語りかけるセリナの声には、強い信頼の情が現れていた。それを感じ取ったルベールの心の中から生まれた言葉が、思わず口に出ていた。
「セリナ……どうして、そこまでしてくれるんだい?」
「そこまでしなきゃいけないようにさせてるあんたがそれ言う?」
呆れたように苦笑したセリナの表情は、力強い信頼を映した笑みに変わった。
「仲間だからに決まってんでしょ。これでもあんたのこと、頼りにしてんだから」
そして、その力強い笑顔のまま、ルベールの闇を張り飛ばすように告げた。
「ちゃんと仕事しなさいよ。ルベール。あんたにできることは必ずある。あたしはずっとそう信じてきたし、これからも信じてるんだから」
セリナのその言葉に、ルベールの眼から曇りが消えていくのを見たサリューが言った。
「ふふ、今回ばかりはあなたの完敗ね、ルベール」
サリューの言葉に、ルベールは憑き物が落ちたように笑った。
「そうですね……言い訳ばかりしてきた自分が、馬鹿に思えてきました」
「そういうこと言わないの。またセリナに張り倒されるわよ?」
ルベールの晴れやかな自嘲にダメ出しをしながら、サリューは言葉を繋いだ。
「現状を変えるには、今できることをするしかない。あなたも大事にしてきた信条のはず。ご家族や家のことで頭を重くしすぎていたんだと思うけれど、私達が前に進もうとするなら、どんな状況でも、そのことは変わらない。それを忘れちゃダメよ。まあ、けど……」
そして、嬉しそうな笑みを浮かべながら、ルベールに言葉をかけた。
「どんな迷いも、答えに辿り着こうとする思いがある限り、無駄にはならないわ。あなたは今、わずかでも前に進もうと思えるだけの答えを見出せた。それでいいんじゃない?」
「はい。今、何かが見えた気がしました」
吹っ切れたように言うと、ルベールはセリナにいつものような晴れやかな声で告げた。
「ありがとう、セリナ。おかげですっきりしたよ。待たせてごめん」
「はいはい。ったく……あいつと違う意味で、あんたも意外と手がかかるのね。弱音を吐くのは仕事を片付けてからにしなさいよ」
「善処するよ。君にあまり心労をかけるのも心苦しいからね」
申し訳なさそうに言うと、ルベールは、両腰のホルスターに二丁拳銃を挿し、顔を上げた。
「お待たせしました。行きましょう、二人とも」
毅然と顔を上げ、二人の方に向きなおったルベールの眼に、迷いは無くなっていた。それを見たサリューが満足げに笑みながら、訊ねた。
「覚悟が決まったみたいで何よりね。それで、ルチアちゃんの居所の当てはあるの?」
「はい。可能性の高い場所に先導します。ついてきてください」
決意を帯びたルベールの言葉に、セリナとサリューは信頼を込めて頷いた。
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