革命のクラウディア -Klaudia die Revolutionar- 分岐:ルベール編
青海イクス
プロローグ
幕間:ブライトハイト王城・宰相執務室
アスレリア聖王暦1246年、8月22日、夕刻。
濃い夕陽の闇が満ちていく薄暗い部屋で一人読書に耽っていた、グランヴァルト王国宰相ベリアル・クロイツは、ドアをノックする音に気付いて、小さな文字を追う目を止めた。
控えめかつ折り目の正しいノックの音から、誰がそこにいるのかは察しがつく。
「クレスか。入れ」
ベリアルはドアの外にいる彼に言って、再び手元の古びた厚版の愛読書に目を戻した。ややの間があって、失礼します、という一言と共にドアが開けられ、特注の制服を身に着けた一人の青年が姿を現す。生真面目そうな顔の青年は暗がりの中で一心不乱に本に眼を落としている老人の姿を見るなり、わずかに目を細めて、上司に気遣う声をかけた。
「ベリアル様……もう日が暮れます。照明をお付けになられてはいかがですか?」
「今は手間でな。どの道今日の時間はもう終わりだ。日が暮れてからわざわざ明かりを付けて文字を追うような無粋なことを私は好まん」
彼の気遣いをさらりと流そうとする困った上司の言葉に、秘書官クレス・アークヴェルトは小さく呆れた息を吐いて肩を落とすと、その言葉を厳戒なものに変えた。
「この計画に携わっている以上、あなたの身は今は厳戒態勢です。もしもここに訪れたのが私でなく、あなたの命を狙う凶手だったらどうなさっていたのですか?」
「だが実際そこにいたのは君だ。無意味な予想論も私は好かん。知っているな?」
それにも動じずひらりと返してくる上司に、クレスは挑み返すように言った。
「では、もし私が裏をかいた凶手だったら……という可能性については?」
「その時は、君の本当の姿を見抜けなかった己が眼のなまくらさを呪うしかないな」
ベリアルはしわがれた笑いを収めると、老獪な眼を闇の中に鋭く光らせ、クレスを見た。
「面白みも実益もない無益な問答を私は好まん。用件は何だ?」
クレスはその、弱者を射殺すような眼光を受け止めつつ、彼の秘書官として答えた。
「ハーメスの世界市祭での出来事について、ご報告がございます」
その言葉に、ベリアルの眼がわずかに細められた。
ハーメスといえば、つい先日まで世界市祭という、あの町にとっての一大イベントが行われていた場所だ。王国の流通の要衝を担う商業都市ハーメスの設立と発展の祝賀記念祭として開催されるその祭りは、他国の出展も含めた王国主催の一大技術博覧会としての様相も持っており、王国の公式な対外アピールの大きな機会でもあった。
ベリアルとしては、自らが秘密裏に建造していた公開用の兵器庫を擁している重要な場所でもあり、ついで言うならその場所に王都自警団の一行が訪れていたという情報を得ていたため、万が一のことがないかと気に留めてはいたのだったが。
ベリアルが見ると、クレスの表情はいつにもまして硬かった。報告が怖いのだろうか。
不穏な予感と共にベリアルは掌の中の本を閉じ、クレスを見ながら言った。
「報告は報告だ。君に実害がない以上、君を処罰するようなことはしない。報告を」
「……畏まりました。では――」
胸中を見破られていたことに慄きつつ、クレスはハーメスでの出来事をベリアルに報告した。
王都自警団一行が、正体を知らず、カール王子に接触したこと。
その王子の導きで、彼らがベリアルの秘密の地下兵器庫に潜入したこと。
彼らを狩ろうとした別働部隊の尖兵が、自警団の身内と《十二使徒》の一人に返り討ちにされたこと。
地下兵器庫の「巨兵」が制御を奪われ、ハーメスの町に危害を及ぼしかけた挙句、これも自警団の身内らしき謎の男とカール王子によって撃墜されたこと。
ハーメス市長オズワースが、自警団一行に「計画」阻止のための協力を約束した――つまり、ベリアルに離反したこと。
――報告を終え、クレスは直立しながら恐る恐るベリアルの目を見る。
ベリアルの目は、話を聞いている間から据わり続けたままだった。その表情にも視線にも、一見した限りさほどの変化はない。だがクレスはその深い土色の瞳の中に、今にも噴火しそうな怒気の熱が沸々と高まっているのを見た気がした。
報告したこの状況は、ベリアルにとってはほぼ最悪の状況でもあったはずだった。国民に秘密にしていた兵器庫の秘密を自警団に知られ、その秘密の兵器が市民にも目撃され、挙句、長年の拠点のひとつであったハーメスの市長までもが寝返った。
それらの事態を進めたのが誰ならぬカール王子であるというのが、よけい最悪だった。宰相であるベリアルは立場上、王族であるカール王子に表立って対立することができない。立証の事実がないまま事を起こそうとすれば、ベリアルは弾劾されかねない。
そしておそらく、カール王子はその状況を知っていて、利用した。
王子である自分に、宰相は矛を立てることができないことを知っていて。その立場の利を使って、自らの攻策に、密命を帯びた自警団の行動を巻き込んで。
カール王子が自警団の密命や、彼らがハーメスに訪れることまでを知っていたかどうかは知れないが、いずれにせよ同じことだ。カール王子はその場にあった状況を巻き込み、縒り合わせ、結果的に自身に有利な状況を作り出すことに成功したのだ。
(まだ若いというのに、恐ろしい策謀家だ……危険極まりない)
ベリアルは苦虫を噛み潰したような思いになって、小さく歯を軋ませた。
既に重要なカードが裏返され、容易に元に戻すことができなくなっている。このままカール王子やその息のかかった王都自警団一行の行動を野放しにすれば、事は『計画』の進行に無視できない障害を生むことになるだろう。
(少々、侮りすぎていたようだな……まあよい。まだ、打つ手がないわけではない)
事態が悪い方向に向かいつつあるのを知りながら、ベリアルは変わらず泰然としていた。
彼にとって、この状況は予定外のものではあったが、予定通りに事が運ぶようなものではないということは予測されていた。故に、状況がまだ彼の手の内にあり、軌道を見通すことが可能である以上、予定外の事態も彼を動転させるには及ばなかった。
とはいえ、事が動き出した以上、手は打たねばならない。
ベリアルは組んでいた腕を解くと、椅子に背を預け、ふいにクレスに訊ねた。
「クレス。この国の現状を、君はどう見る?」
「はっ?」
予想外の質問に緊張するクレスに、ベリアルは静かな調子で問い直す。
「そう畏まるな。君の見解が訊きたいだけだ。処罰などしたりはせん」
「は……」
ベリアルの言葉に、なおもクレスは緊張しつつも、慎重かつ正確な言葉を発した。
「各地の政情バランスに致命的な齟齬もなく、王室における王位継承の争議もなし。帝国とは緩やかな緊張状態にあるものの、共和国の仲立ちもあって対外関係も緩和されている。ベリアル様と王政機関の間にも目立った断絶はなし。概ね、平和を保っていると思われます」
「ほとんど的確な観察だ。……だが、世代のためか、肝要な論点が抜けておる」
穴を突くような指摘に身を竦ませたクレスに、ベリアルは続けて訊ねた。
「クレスよ。君は、聖人王伝説を読んだことはあるか?」
「はい。概観程度であれば」
クレスの返事に、ベリアルは手の内にある古びた本の厚版の表紙を撫でながら言った。
「では、今の王国の現状にあれが関与していると考えたことはあるかね?」
ベリアルの詰問に、クレスは再度緊張に表情を強張らせた。
聖人王伝説とは、グランヴァルト王国の建国者と言われている聖人王アスレリアの、建国に至るまでの遍歴を神話調に綴った書物である。聖人王の生誕から成長、天央の女神からの啓示を受け、六星の巫女と共に乱世を潜り抜けて王国の建国に至るまでが、神妙かつ荘厳な文体で書かれており、国史の教養書としてから神教の聖書、果ては少年向けの冒険物語としてに至るまで、王国民の愛読書となっている。
「あれは、この王国の国史というにふさわしいものだ。この王国はあの物語に端を発し、あれの系譜を継承しながら今日までその血脈を受け継いできた。この国の、人のあるべき姿は、ここに記されている」
ベリアルはそう呟くように言って、手の中にある古びた厚版の表紙に目を遣った。
クレスはそれを、形容しがたい感情の籠った目で見る。副官として長いことこの老人に仕えている以上、この宰相を務める老人が聖人王伝説の信者であり、彼の政治的信念や哲学がこの書物に思想的に結い合わされていることは、基本情報として重々承知している。なおかつ、その信心は決して夢想的なものにとどまらず、この王国の基礎的な構造を見るのに、この本を熟読することが有効であることは、クレスも彼に感化されたような所があった。
聖人王伝説のことを語り、それに並んでこの王国の将来像について語る時、この宰相たる老人は、遠望を眺めるような、遠く、炎を宿したような目をする。
それは、信念に生きる一人の人間としての、燃える野望を点した瞳だった。
それを察しつつ、クレスは重ねて訊いた。
「ベリアル様は、聖人王伝説がこの国の現状を読み解く鍵になるとお考えなのですか?」
クレスの言葉に、ベリアルは我が意を得たりというような目でクレスを見た。
「既に言った通りだ。この物語は、この王国のこれまでを支えてきた骨子であり、そして、この王国の未来を占う羅針盤なのだ。少なくとも、私が見ているこの王国の過去と未来には、この物語がこの国に流れる血脈として、悠然と横たわっておる」
「お話はわかります。しかし、どこにそのような要素が?」
「君はまだ、私の読解が足りんようだな」
クレスにさほどの糾弾をするでもなく言い、ベリアルは答えた。
「君が先程述べたこの国の現状は、私に言わせればいずれも表面的なものだ。そして、病の原因というのは、得てしてその皮下、奥の流れに潜んでいる。この国の歴史の血脈に混ざり、病を生んでいる毒素……それこそが、私が目にしているものだ」
ベリアルの言葉に静かな熱が入っているのを察しつつ、クレスはさらに訊いた。
「その『病』というのは、一体何なのですか?」
クレスの問いに、ベリアルは闇の濃くなる窓の外に目を向けながら、答えた。
「『停滞』だ」
「停滞?」
「そうだ。この王国は、永年の内に積もった毒素を浄化しきれぬまま、停滞の中に入りつつある。その毒素を排除しない限り、表面上の繁栄がいくら栄えた所で、再び毒はこの王国を蝕むだろう。私を含め、そのことを身を以て感じている世代も多くいる」
「『世代』?」
「クレス。君は、魔女狩り事件のことを知っているか?」
魔女狩り事件。
その言葉を聞いた時、クレスは何かが繋がった気がした。宰相ベリアルが、何を考えて『計画』に手を掛けているのか、その奥にある理由が、垣間見えた気がした。
「では、ベリアル様の考える『毒素』というのは、その事件に関わっているのですか?」
クレスの訝しげな言葉に、ベリアルは満足げな笑みを浮かべただけだった。だが、それだけでもクレスには薄々察しがついた。
ベリアルの言う『毒素』が、その魔女狩り事件に連なっているというのなら。
そして、その『浄化』が、彼の奉じる聖人王伝説に繋がっているというのなら。
「血流に混じる毒を取り除くには、まず皮下を暴かねばならん。これはそのための計画だ」
クレスのその様子を見取ったのか、ベリアルは暮れゆく窓の外を眺めながら言う。
「私の現在の目標は、『魔戒計画』を最終段階まで進めることだ。あれが完成し、起動し、それが私の手に収まった時、私の理念が現実になる、その鍵を私は掴む。そして、この国の偉大なる血脈に混ざった毒素を浄化し……再び、この王国の栄光を、その輝きを復活させる」
静かな熱を帯びたベリアルの言葉を聞きながら、クレスは何かが引っかかるのを感じた。
「ベリアル様」
「何だ」
「あなた様ほどの力があれば、対抗勢力を抑え込むことも可能なはずです。少なくとも、自警団一行の行動を抑え込むくらいには。けれど、あなた様はまだ、そこまでなさっていない」
「手ぬるい、と言いたいのかね?」
ベリアルの静かに刺すような言葉に、クレスは再度、身を強張らせた。
「申し訳ありません」
「構わぬよ。君の観察は至極もっともだ。もっとも、少々手を抜いていたのも事実だがね」
部屋の中に目を戻し、まだ納得がいっていない様子のクレスに、ベリアルは言った。
「それに、私とて敵のないわけでもない。カール王子を始め、私の力の及ばない相手も、まだ世界には多い。だが……この計画を完遂させた時、私の力の届かない場所はなくなる」
そう吟じ、自らのしわがれ始めた掌を見つめるベリアル。
「いつの世も、理想を実現するには、力が必要だ。かの王も、それを体現していた。私は今、――かの王になぞらおうとしている。その時が、今や近くに来ているのだ」
静かに、想いを込めるように力強く言うと、ベリアルは再度、クレスに問いをかけた。
「クレス。なぜ私が、あの女やアルベルト卿の反攻を許していると思う?」
あの女、というのはおそらく『黒の魔女』のことだろう。なぜ彼ら敵対分子の行動を、自らが不利になるのを知りながら野放しにしていたのか、それこそがクレスの疑問だった。
答えを迷うクレスに、ベリアルは不敵な声で告げた。
「戦うべき敵が存在しなければ、こちらが正義だと証明することができないからだ。障害も何も存在しない王道を完走した所で、観客には何の面白味もなかろう。屈服させ、自らが正しいと証明する、そのための敵が必要なのだよ。私も、向こうも、彼らもな」
獰猛な笑いを含んだベリアルの言葉に、クレスは全身が総毛立つのを感じた。
つまり、この対立構造そのものが、ベリアルの計画の内だったとしたら。
ここまでの彼らの行動も、その反攻も、未だに彼の掌の内だということになる。
「泳がせていた、ということですか?」
「少々思わぬ痛手を食ってしまったがな。これも想定の内だ。彼らが反攻を強めれば強めるだけ、決戦の場は大いに盛り上がるだろう。その時こそ、雌雄を決するにふさわしい。適度な競り合いを行い、加熱しながらその場まで我らは辿り着かねばならん。それまでの道程で倒れられるようでは、彼らの信念も程度が知れるというものだ」
不敵に笑うベリアルは、さて、と仕切り直すように一言、
「様子見はここまでにしておこう。計画の成否に支障が出るまで彼らを野放図にさせておくわけにもいかん。そろそろ一太刀、私の存在を彼らに知らしめておくべき頃合いだ」
そして、宰相の目に戻ると、副官クレスに計画の進捗を問う。
「クレス。彼らの次の行動について、情報は?」
「はい。自警団の一行は二手に分かれるようです。団長を含む一方はレオーネへ、もう一方はエヴァンザへ向かうとのことです」
クレスの報告に、ベリアルは確認のように口にする。
「エヴァンザか……確か、彼らの中にはコーバッツ公社の子息がいたな」
「は……」
事実確認が追いつかなかったクレスの前で、ベリアルは、ふむ、と小さく唸り、しばし目を閉じて思案顔になる。そして、ゆっくりと目を開けると、クレスに命を下す。
「クレス、報告ご苦労。引き続き彼らの動向の観察にあたれ。それと、《王魔》の各頭に連絡を。私は少々やることができた。周辺の処理は任せたぞ」
「畏まりました」
クレスは恭しく一礼し、扉の奥へ下がる。
一人、濃い紫色の闇の満ちる部屋の椅子に座りながら、
「さて……ようやく面白くなってきたな」
策士ベリアル・クロイツは、舞台の盛り上がりを見るような、獰猛な笑みを浮かべた。
燃え落ちそうな夕陽の融けた紫色の闇が、夜に沈みゆく王都に満ちていた。
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