第5章 工業都市エヴァンザ編 プロローグ

「王国の工房」の名を冠する町――工業都市エヴァンザは、グランヴァルト王国の北北東に位置している。

 元々王国の北部を垣根のように覆う天嶮・アムネシア山脈の鉱場に連なる小さな鉱業地帯であったこの町は、現国王と宰相による国力強化計画の後押しを受け、またその後、鉱場の地下深くに眠っていた魔導鉱と聖王鉱の産出、そしてそれら二つが合一した魔導金属工業の開発の波に乗り、この数十年の間に二段階に渡って急速な発展を遂げた。

 魔導金属の生産に不可欠な素材の産出が豊富なことと、元々金属加工業に精通していた土地柄もあり、エヴァンザは国の支援を受けて、周辺国との競争力となる魔導金属製品の生産に注力することになった。そしてこの流れを受けた駆け出しの業者たちにより最新の製品を生産する工場が利を争って我先にと建設され、長きに渡る土地の経験に培われた技術力は、当時まだ新興であった魔導金属加工技術の先駆となった。彼らの競争意欲がその追い風となり、エヴァンザは王国で並ぶもののない工業技術の聖地として発展していった。

 そのような歴史から、エヴァンザは王国の東端に位置する流通の要所ハーメスと似た形式で、業者組合による自治が敷かれている。市長の役割を務め町の采配を取るのは、数ある工場の経営者の中から選挙で選ばれている。市政の管轄権を巡っては毎期ごとに激しい戦いが繰り広げられてきたが、ここ数年は、一貫してとある会社にその権利が任され、市政は町の治安と公平性に重きを置くその社の慧眼に全幅の信頼が預けられている。

 エヴァンザ勃興期の古来から鉱業業者としてこの地に根を下ろし、魔導工業の導入期に先駆を切った会社のひとつにして、また去る七年前の戦役の際に大望の旗印を掲げてエヴァンザの革新期の先陣を導いた、革新と伝統の統合者――コーバッツ公社。

 アスレリア聖王暦1246年、8月23日。

 そのコーバッツ公社の社長の元に、一本の通信が入っていた。


  ✡


「久しいな、ルベール。元気でやっていたか?」

 エヴァンザ市街東区に居を構えるコーバッツ公社の社長室にて、公社長ルグルセン・コーバッツは、椅子の背面にある窓から差し込む朝の光を浴びながら、通信を受けていた。

『ええ、どうにか。父さんも、変わりはありませんか』

「息災だ。お前が帰って来るまで、この家を潰すわけにもいかんからな」

 通話口から返って来る清涼感のある若者の声に、ルグルセンは冗句交じりに答える。そのやり取りは、まるで数年ぶりに帰省した息子の声を聞くような、楽しげなものだった。

 ルグルセンの冗句に、電話口の向こうの若者も、緊張が解れたような笑みが声に浮かんだ。

『心配なさそうだね。さすがは歳をとってもコーバッツ公社の元締めだ』

「お前のような修行中の若造に心配されるほど、私も鈍ってはいないつもりだ」

 切れ者の息子と言葉の応酬を交わしたルグルセンは、口調を「長」のものに切り替えた。

「それで、どうした。お前が私の元にわざわざ連絡を寄こすということは、何かあったのか」

 まるで、話されてもいない相手の裏の事情まで読み取ったかのような言葉だった。電話口の向こうにいた若者は、自分をも上回るその恐るべき洞察力に小さく息を漏らした。

『さすがは父さんだ。一を聞く前に十を読めるのは、父さんくらいのものだね』

「五年前、不帰の意志を私に示して家を出たのがお前だ。以来通話の一本も寄こさなかったお前がわざわざ私の所に直接の連絡をつけようとするとなれば、何もないはずがないだろう。それに、それほどのことなら聞かないわけにもいくまい」

 悠然と答えるルグルセンに、通話の向こうの若者は、一瞬の間を置いてから切り出した。

『これから僕は、仲間と共に、調査の一環でエヴァンザに向かいます。その際、父さんには何かと世話になるかもしれない。今はそれを伝えておきます』

 そして、彼はルグルセンに、自らの所属している自警団チームの任務と、ハーメスでの一連の事件のあらまし、そしてそれらから導出される彼なりの雑感を報告した。

『詳しい事情は直接会ってから話しますが、事は公社やエヴァンザの運営にも関わってくる可能性があります。そうなれば、父さんも無関係ではなくなる』

「それを先に知らせておいてくれたということか。助かるな」

 息子の報告に、ルグルセンは思案を巡らせ、眦をきりりと細くする。息子が負っている特命の性質と、その敵対勢力が絡んでいるとされるハーメスでの事件、その二つの組み合わせからは、少なくとも息子が想定しているような可能性がいくつかは見抜ける。

 だが、現時点では情報が少なすぎて、何をするにも判断のしようがない。いずれにせよ、まずは彼を再びエヴァンザに迎え、詳しい事情を聞いてからになりそうだった。

 判断を終えたルグルセンは再び穏やかな口調になって、通話口の息子に声をかける。

「了解した。こちらにはいつ頃来るのだ?」

『明日にはハーメスを発ちます。明後日までには到着するかと』

「わかった。家の者総出で迎えてやろう。ルチアも喜ぶだろうな」

 歓迎の笑みを混ぜたルグルセンの言葉に、通話の向こうの彼はふと言葉に迷ったようだった。わずかな間の後、訊きづらそうな色の声が出てくる。

『父さん。その……ルチアは元気ですか』

 息子のその気がかりを拭い去るように、ルグルセンは言った。

「ああ。お前のために毎日、工場と学校で励んでいるよ。お前が帰ると知ったら狂喜するかもしれんな」

『そう、ですね……』

 そう零した彼の声は、嬉しさと申し訳なさが混ざり合ったような色をしていた。その若い不安を笑い飛ばすように、ルグルセンは小さく笑いながら言った。

「まあ、心配してもしょうがあるまい。ひとまずはエヴァンザに来て我が社を訪ねるといい。その上で改めて事情を聞こう。協力の方針はその時に考えればいい」

『父さん……まだ、僕は何も詳しい事情を話していないんだよ?』

 まだ何もわからないのに、そんな受け合い方をしてよいのか、と。

 それが息子の肝試しの言葉であることが見抜けない公社長ルグルセンではなかった。その意図を汲み取ったルグルセンは、公社を預かる者の風格を言葉に表す。

「家を棄てて修行に出た息子の縋る願いを聞かないほど、私は狭量ではないつもりだ。それに、事が我が社やエヴァンザの運営に関わりかねないというのならば、私が動かないわけにはいかないだろう。お前に諮られるほど私も小さくはない。心配するな」

『父さん……ありがとう』

 通話の向こうの声が、悪戯を見破られた子供のような、少し恥ずかしがるようなものに変わる。それを聞いたルグルセンも、穏やかな心持ちになった。

「気にするな。では、エヴァンザで待っているぞ。迎えを寄こそうか?」

『いえ、そこまでは。道もわかるし、それに……』

 そこまで言って、若者の声は言い淀んだ。ルグルセンは首を傾げて、

「どうした? 何か他に問題でもあるのか?」

『いや……もしも迎えにルチアが来たりすると、少し面倒なことになりそうなので』

 息子の言葉に、ルグルセンは薄々事情を察しつつ、ふむ、と頷くに留めて、

「わかった。では、ルチア共々、我らは公社で待とう。気をつけて来い」

『はい。エヴァンザに到着したら、また連絡を入れます。それではまた』

 若者はそう折り目正しく返し、通話は切れた。ルグルセンは受話器を戻し、椅子にわずかに深く腰掛けると、机の上に広げていたやりかけの書類を前に、小さく深い息を吐いた。

《ここにいるだけでは、だめな気がするんです。僕は、もっと世界を知りたい》

 五年前、王都学園行きを決意したのを告げた時の彼の言葉が、鼓膜に蘇る。

 コーバッツ公社の跡取りと目されていた息子である彼が決意と共に家を飛び出したのが、もう五年も前のことだ。その後も折に触れて手紙を寄こしたりなどはしていたが、こんなふうに彼のほうから直接コンタクトを取ってきたことは、ただの一度もなかった。

 よほどの決意の表れであったその姿勢を変えてまで、彼が頼りの連絡を寄こしてきたこと――それは喜ばしくもあったが、同時にただ事ではないこともルグルセンには想像がついた。一家の家系に漏れず、頭に切れのある息子のことである。彼が危急の連絡を寄こすということは、それほどの何かが差し迫っているということに違いなかった。

 王城政務官アルベルトから密命を受けて行動しているという、息子の所属する自警団のチーム。

 ハーメス世界市祭における、王国宰相ベリアルの関与とされる地下兵器庫の一件。

 親交もあるオズワース市長から語られた、ハーメスの町とベリアルの相互関係。

 これらから見通せる雑感――彼が見ているビジョンというのが、ルグルセンにもある程度まで見通すことができた。そしてもしもそのビジョンが現実のものであるとすれば、事は彼の言う通り、相当厄介なものになる可能性もあった。

(水面下のことは、この椅子では知り得ないというわけか……私もまだ甘いな)

 ルグルセンは己の浅さを顧みつつ、知らない所で動いている王国の情勢と、自分では手の届かない所で駆け回る息子の選んだ道への先見の明を思い、小さく息を吐いた。

 と、社長室のドアが軽く二回、コンコンとノックされ、おもむろにガチャリと開いて、その裏から一人の少女が姿を現した。青みを帯びた緑色の髪と利発そうな大きく切れのある青い瞳に、羽織っている藤色のカーディガンと膝まである桃色のスカートが、幼さの残る少女の面影に年相応の華やかさと大人びた理知的な雰囲気を同居させている。

「ただいま帰りました、お父様」

 少女――ルチア・コーバッツは、父親であるルグルセンに礼儀正しく帰宅の挨拶をした。それを見たルグルセンは、いつもと変わらない悠然とした態度で返す。

「お帰り、ルチア。今日の学業はどうだった?」

「魔導工学基礎論の前期講義も大詰めになって参りましたが、魔導金属の素体の生成において魔導鉱の情報記憶プロセスと聖王鉱の加工プロセスを魔法を媒介に融合させる手法を聞いた時は総毛立ちましたわ。新たな科学の道を拓いた先人の皆様の発想と尽力に後れを取らないよう、お兄様に続く技術者として、改めて身が引き締まる思いが致しました」

 興奮冷めやらぬとばかりに嬉々として語るルチアの言葉を、ルグルセンは穏やかな目で見守りながら聞き届ける。この娘、兄に似て優秀な切れ者に育ったが――。

「演習で小さな記録器を試作しましたの。あとでご検視くださいますか?」

「ああ、見せてもらおう。ところでルチア。お前にひとつ、報告がある」

 ルグルセンの言葉に、ルチアは何事かと小首を傾げた。

「あら、何ですの?」

「明後日、ルベールがエヴァンザに帰って来るらしい」

「…………え」

 ルチアの頭に耳から入った言葉が意味に変換されて理解の浸透に至るまで、十秒ほどかかった。ルチアは息を呑み、一瞬くらりとふらつくと、食いつくようにルグルセンに訊いた。

「本当ですか⁉ いつ、何日の何時に何処ですの⁉」

「明日ハーメスを発つらしい。明後日にはエヴァンザに着くそうだ」

 ルグルセンの言葉に、ルチアの表情が見る見るうちに歓喜と恍惚に明るくなっていく。

「はあぁ……やっとルチアの元へ帰って来てくれますのね、お兄様!」

 歓喜に蕩けそうな声を出すルチアに、ルグルセンは息子の困った声を思い出して苦笑した。この娘、技術者としても学生としても兄に似て非常に優秀なのだが、こと兄への入れ込みように限っては、本人含め困惑してしまうほどなのが玉に瑕でもあった。

「迎えは要らないと言っていたぞ」

「あら、では『迎えに来るな』とは仰っておりませんでしたのね?」

 息子のことを考えたルグルセンのフォローをルチアはさらりと棄却すると、静かに祈るように両手を胸の前で組み、溢れ出る愛=妄想に瞳を輝かせ始める。

「ふふふ……お兄様も甘いですわね。そんな予防線でルチアの愛は止められませんのよ。そうですわ、油断しているお兄様の不意を突いて、死角からぎゅっと抱きしめに行って差し上げましょう。どの角度からがよろしいかしら。横から? 後ろから? それとも上から? あるいは何も恐れず真正面からもありかしら? ああ、不意を突かれたお兄様はどんなお顔をなさるのでしょう。きっと、普段はあの爽やかな笑顔の裏に隠された本心が、紛うことなきルチアへの想いが、その瞬間、垣間見えるに違いありませんわ……ああ、もう、考えただけでルチアは幸せですわ……!」

 その、彼が家を出てからも何も変わっていない、いやむしろエスカレートするようになった娘の止めどない妄想の様を、微笑ましくも呆れの混ざった目で眺めながら、

(やれやれ……いずれにせよ、何事もなければよいが)

 彼らの父にして、エヴァンザの実質上のトップであるコーバッツ公社長ルグルセンは、帰って来る息子の無事と、彼が連れてくる新たな難題を思って、小さく祈りを唱えた。

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