第5章 工業都市エヴァンザ編 第3話(5)

 その日も、ルチア・コーバッツにとっては何一つ変わらない一日のはずだった。

 少なくとも、長い間家を空けていた敬愛する兄が帰りを待っているという至福の思いと、それに付いて来た得体の知れない女達への警戒の念が胸を占めているという主観的な状態の変化を除けば、その日の学園生活も普段と何ら変わりのない一日のはずだった。

 ルチアがその異変に勘付いたのは、午前の講義を終え、昼休みへと差しかかった時だった。いつものようにお気に入りの場所、学舎の裏の木陰で昼食を取ろうと校舎の玄関前に出たルチアは、

「…………?」

 ふと、自分を取り囲む空気の《変調》を感じて、周囲を見回した。

 周囲の環境そのものに変化はない。昼時の玄関前は、天前の学業を終え束の間の休息を楽しむ学園内の学生達で賑わっている。見慣れたいつもの風景のはずだった。

 ただ、その《外にいる》者達の動き、そこから伝わる音が、まるで風音にかき乱されるように掠れていたこと、

「…………!」

 それでルチアは、自らが何らかの隔絶領域に囚われたことを察した。その察知をまるで見透かしていたかのように、空間内に声が響いた。

『御機嫌よう、お嬢さん。昼日中にも熱心に勉学に向かうとは、勤勉だねぇ』

 気取った調子で響く声に本能的な嫌悪感を覚えながら、ルチアは努めて冷静に訊いた。

「何者ですの。私がコーバッツ公社の令嬢と知っての狼藉ですか」

『その通り。自らの立場を弁えた上での状況判断、聡明だねぇ』

 狼藉であることを平然と肯定する相手に、ルチアは全身に緊張が走るのを感じた。

 何者かはわからないが、この相手は自分をコーバッツ公社の重要関係者だと知った上でこのような行動に出ている。ならばその利害が公社に及ばないとは考えられなかった。

 ここで自分が人質にでもされてしまえば、父や兄にどんな被害が及ぶかわからない。

 強行突破も辞さない危機感を覚えながら、ルチアは姿も見えない相手に言葉を繋いだ。

「目的は何ですの。私を人質にお兄様やお父様を脅すつもりなら、容赦しませんわよ」

『ふむ、理解できないねぇ。囚われの身で容赦しないとは、どういうことだい?』

「こういうことですわ……ッ!」

 言うなり、ルチアは腰元に提げていた小さな革製のポーチに手を突っ込み、小さな輪付きの碧玉を取り出した。内に渦巻く霊念の動きから一目で魔石の類とわかるそれを強く握りしめ、ルチアは昂る感情のままにその碧玉に己の魔力を注入していく。

 意志と共に注ぎ込まれるルチアの魔力に、碧玉が輝きを増していく。それをどこからか眺めていたらしい声の主が、呆れたように呟いた。

魔力増幅器ブースター、あるいはその手の爆弾か……随分と物騒なものを持ち歩いているんだねぇ。けど、君のいるそこが閉鎖空間だということは、失念していたのかな?』

「舐められたものですわね……当然、承知の上ですわ!」

 答えるルチアの手の中で、破裂しそうな輝きを蓄えた碧玉が、魔力の光を炸裂させた。同時、周囲を覆っていた空間の歪みが消え去ったのを察して、ルチアは校舎に向かって駆け出した。人の多い校舎内なら迂闊に手は出せない、そう判断したルチアの首筋に、

「んん、なかなかな切り札、そして的確な判断だ。けど残念、逃がさないよ」

 空を切る疾風のように、虚空から迫った手刀の一閃が叩きこまれた。

「あ、ッ……」

 断骨に等しい一撃に意識が切断され、力を失ったルチアの手から碧玉が転がり落ちる。地に倒れたルチアの傍に、一人の細身の青年がどこからか降り立ち、彼女の切り札らしきその碧玉を拾い上げ、興味を示すように呟いた。

「自滅と見せかけて撒こうとするとはね。なかなかお転婆なお嬢さんだ……さて」

 緑色の髪をした青年はゆっくりと後ろを振り向く。そこに、異変を察知して駆け付けて来ていたセリナの姿があった。

「お転婆お嬢さんがもう一人、か。今日の僕は出逢いに恵まれているねぇ」

 青年が指を鳴らすと、倒れたルチアの身が緑色の風に包まれ、宙に浮かぶ。

「ルチアちゃん!」

「止まれ」

 駆け寄ろうとしたセリナを、青年が声と手で制した。狙いの読めないその様子に思わず身構えてしまったセリナを前に、緑色の髪の青年は鷹揚な態度で話し掛ける。

「御機嫌よう、小鹿ちゃん。まずは名乗ろうか。僕は――」

「あんたの名前なんて知ったことじゃないわよ。ルチアちゃんを放しなさい!」

 青年の道化ぶりを即座に看破して付き合う姿勢を見せず、臨戦態勢を取るセリナに、青年は調子を崩されたように首を傾げてみせる。

「んん、無粋だねぇ。まあ名乗らせておくれよ。少しは君達にも益のある名前だろうからさ」

 そして、鷹揚な一礼の身振りを付けて、名乗った。

「ゼノヴィア様の十二使徒が一人、《風》のジーク=ヴィントさ。以後、お見知りおきを」

 底の読めない青年――《風》の使徒・ジークの緑色の瞳に、セリナは警戒を覚える。

「十二使徒……何で、あんたがルチアちゃんを!」

「いろいろと複雑な事情があってねぇ。まあ、大事な公社のご令嬢だ。傷物にするつもりはないから、安心して少し身を預からせてくれないかな」

「ざけんじゃないっての!」

 気合一声、相手を敵と認識したセリナが一気に飛び込んだ。爆発的な跳躍力で十二使徒の懐に飛び込み、ルチアを解放するべく、渾身の一撃を使徒の胴体目掛けて放つ。

 胴を撃ち抜く勢いで放たれた拳はしかし、見えない分厚い壁に阻まれた。

「なッ……?」

 驚愕するセリナ。それを、まるで見るまでもないとばかりに青年は悠然と一言、

「んん、なかなかやるね。けど残念、その程度じゃあ僕の風壁は崩せないよ」

 懐で動きを止めていたセリナに向けて翳した手から、爆発的な風圧が炸裂した。

「く、あッ⁉」

 暴力的な風圧の衝撃に、セリナはなす術もなく吹き飛ばされ、地を引きずる。衝撃から即座に立ち上がろうとしたセリナにさらに、上から見えない重圧が圧し掛かった。

「あ、うッ……!」

 校門前で突如勃発した戦闘に学園の生徒達がざわめきを見せる中、風の揺り籠に包まれたルチアを宙に浮かべる青年は、地に伏せられたセリナに歩み寄りながら、話し掛けた。

「不躾ですまないね。けど、今日しかチャンスがなかったからさ。許してくれないかな」

「な……何、言ってんの……?」

 ジークは倒れたセリナの元に屈み込み、彼女に囁きかけるように言った。

「君達の話をすんなり通されると困るんだよ。君達の持ち込んだ案件、今日の内に市議にかけられる手筈なんだろう? だから、このタイミングで参上させてもらったってわけ」

「っ……てことは、あんたは……!」

 ジークの思惑を察したセリナに、ジークは悪辣な笑みを浮かべてみせた。

「ご明察。まあ後はなるようになるさ。僕の予想通りに、君達は動くだろうからね」

「何、言ってんのよ……何考えてんの、あんた!」

「悪いけど、そこまで話してあげるわけにはいかないねぇ。それより」

 ジークは笑みを浮かべたまま、足元に倒れていたセリナの首を掴み、持ち上げる。息を詰まらせるセリナを目に、ジークは残酷な笑みを浮かべた。

「どうやら、君にも利用価値がありそうだねぇ。彼に対しては、特に」

「なッ……何を……!」

「安心しなよ。下等な牝をいたぶるほど、僕は腐ってないからさ。ねえ?」

 その言葉と同時、そこに突如響いた破裂音と共に、セリナを掴んでいたジークの手元で空弾が炸裂した。青年は、まるでそれを待っていたかのように悠然と振り返り、

「流石だね。自分の女に近づく危険は見逃さない。見上げた色男だ」

 視線の先に立つ、銃口を向けていたルベールに向けて、賛辞を投げた。

「ルベール……!」

 ジークの掴む手から離れたセリナが、息を整えながらルベールの姿を見る。

 対するルベールは、一寸の油断もない目を、十二使徒・ジークに向けていた。

「ルチアを解放しろ」

「んん、実にわかりやすい意思表示だね。ところで、いつもの口上はいいのかい? 君が僕を取り押さえようとするのは、自警団員として、ではなさそうだね」

 暗に揺さぶりをかけるジークに、ルベールはためらうことなく風銃を発砲した。貫通力を持つ程に圧縮された密度を持った空弾は、またしてもジークの眼前で、まるで見えない壁に阻まれるように炸裂、消失する。それを見たジークは悠然と言った。

「残念だけれど、無駄だよ。君のその程度の出力では、僕の風壁は崩せない」

「なら……これならどうだ……?」

 怒りを込めた声と共に、ルベールの瞳と髪が風を纏って光り出す。ルチアが使おうとしていた碧玉と同じ意志の昂りを表すその光に、手にする魔導銃もまた輝きを帯びていく。

 尋常ならざる力が集中しているルベールの銃口を向けられながら、ジークは一言、

「やれると思うならやってみなよ。無駄だってこと、実証してあげるからさ」

「…………!」

 ルベールが引き金を引くと同時、疾風の弾丸が矢のような勢いでジークに迫る。先程までとは比べ物にならない速度と貫通力を乗せられたその一弾は、ジークを中心に吹き荒れた旋風によってかき消された。風弾に込められていた風の魔力が旋風となって周囲を吹き荒れる中、風の鎧を纏うジークは何でもなかったかのように言ってのける。

「ほらね、言っただろう。君の出力じゃ、僕の風壁は崩せない。君の力も『風』ならなおさらだ。純血にして母様の施術を受けたこの僕に、同属で混血の君が敵うわけがない」

 旋風の中、視線と銃口を逸らさないルベールに、ジークは嘲弄するような目を向けた。

「君ほどの理解力があれば、わかっていたはずだけれどね。さて、まだやるかい?」

「…………」

 答えを返さないルベールに、ジークは哀れむような目を向けてみせた。

「んん、わかるよ。君は事象を理解する能力が発達しすぎているあまり、そこの彼女みたいに無茶とわかりきってる行動ができない。理屈と計算の上でしか動けない、無駄弾を撃つことの無意味さを知ってしまっている人間だ。悪い癖だね、同情するよ」

 そう、まるで会ったこともないルベールの人間を語るように言った。言われた通りの自らのその未熟な人間像を指摘されたことに憤りを覚えながら、ルベールは言葉を返す。

「会ったこともない君に同情される筋合いはない」

「そりゃそうか。こっちも同情してあげる筋合いはなかったね。僕は単に君を見た感じの印象を口にしただけさ。どうかあまり気にしないでおくれよ」

 平然と語ったジークは、宙に浮かんだ空気に包まれたルチアの身を抱き上げ、言った。

「さて、君やこの子に直接的な恨みはないけど、ちょっとこの子の身柄を預からせてもらうよ。返してほしければ、僕を倒すつもりでおいで。当分はこの町にいるからさ」

 そして、「ああ、そうそう」と、さも思い出したように付け加えた。

「君達、今けっこう重要な案件を抱えてるらしいじゃない。だったらこういう事、あんまり大事にはしない方がいいよねぇ。もうだいぶ目立っちゃってるみたいだけど」

 興気に呟くジークに、ルベールは銃を向ける手を固く握り締め、不可解とばかりに叫ぶ。

「何故だ……何故、十二使徒がルチアを攫う⁉ ルチアもこの町も、君達の計画には関係ないだろう!」

「んん、そうだね。君達と僕達に直接の因果関係はない。ところが僕のこの行動に意味はあるんだな。でなきゃ、こんな面倒を働いたりしないさ」

 示された言葉に激昂するルベールを指さし、翠色の青年・ジークは試すように言った。

「さて、君に問題だ。君達に関わる必要のないはずの十二使徒が、コーバッツ公社のご令嬢の身柄を預かり、その兄である君を焚き付ける……これは、何を意味しているんだろうね?」

 問いを残したジークの周囲に、その身を隠すように空気が渦を巻く。

「早いとこ答えを出して、迎えに来なよ。でないと、この子も無事かわからないよ?」

「ふっざけんじゃないわよ!」

 激咆一声、立ち上がったセリナが突撃し、激情を乗せた渾身の直拳を叩きつけた。

 空を穿つほどの剛力を乗せた拳はしかし、またもジークの纏う不可視の風壁に受け止められる。顔面すれすれまで迫った必殺の拳を目にもせず、ジークは興気に一言、

「んん、愚直だねぇ。下手な理屈に縛られない、無駄を無駄と思わない。そういう人、好きだよ。それじゃあまたね♪」

 言葉と共に、受け止めた風壁が爆発し、セリナの体は後方に大きく吹き飛ばされた。

「くあぁッ!」

「セリナ!」

 ルベールは吹き飛んだセリナの身を受け止め、衝撃を殺しきれずそのまま後ろに引きずられながら倒れた。地を引きずらされたルベールが顔を上げると、校庭内に渦巻いていた竜巻は消え失せ、眼前にいた青年もルチアと共に姿を消していた。

 逸る思いになりながら、ルベールは腕の中に抱えたセリナを気遣う言葉をかける。

「セリナ……大丈夫かい?」

「あたしはいいよ……それより、ルチアちゃんが」

「わかってる。一旦、公社に戻ろう。父さんにこのことを報告しないと」

 早急に行動に出ないという選択をするルベールに、セリナは迫るように問う。

「いいの? 早くあいつを追いかけないと、ルチアちゃんが」

「逸る気持ちはわかる。けど、奴がどこに消えたのか、ルチアをどこにやったのか、何もわからないまま探すことはできない。場合によってはギルドの力を借りる必要もある。今は一旦状況を整理した方がいい」

 校庭で起きた乱闘に校内がざわつきを見せ始める中、ルベールは焦燥に駆られていた。

 あの青年の出した「問題」の通り、公衆の面前でルチアを攫われたことが何を意味するか、彼にはある程度見当がついていた。このことが単なるルチアの身の安全だけの問題には収まらないということが、ルベールをかつてない危急の状況に陥れようとしていた。

 ルベールは胸に渦巻く焦燥を無理やりに飲み込み、腹を据えようとした。

 何よりもルチアの身の安全が気になるが、事はそれだけに収まらない。早急に関係者各位に状況を報告、情報を共有し、行動の指針を定める必要があった。

「王都の時と同じ、急ぐための時間を少しだけ取るだけだ。いいかい、セリナ?」

「わかったわ。そうと決まれば急ぎましょ。一刻も早くルチアちゃんを助け出さないと」

 早々に立ち上がったセリナに、ルベールは今更のようにこの上ない頼もしさを覚える。

 勝算がないと手を出せなかった自分の代わりに、彼女は何度もルチアを助けるために立ち向かってくれた。それが無謀な策だと知らなかったからこそだったとしても、手を出さないよりかは確実にルチアを救うためのきっかけを掴む行動にはなっていただろう。

 一つの迅速な行動は、百の机上の空論に勝る。

(本当に、君には頭が上がらないな……ありがとう、セリナ)

 内心で感謝を告げると共に、ルベールはセリナに続いて、公社への道を走り出した。

 公社に被害を出さずにルチアを救い出すために、自分は何をどうすればよいのか。

(ルチア……必ず、すぐに行く。無事でいてくれ)

 冷静を努めようとする思考はしかし、今にも焼き切れそうなほどに熱くなっていた。

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