第5章 工業都市エヴァンザ編 第1話(2)
エヴァンザは、鉱場と工場を主な産業の拠点としている、工業の町である。町の北側にそびえ立つ天嶮アムネシア山脈の裾野には、古来から続く鉱脈が今も採掘を続けられており、そこで採取できる鉱石の類は、工業から商業全てにおいてエヴァンザの資源となっている。近年では希少品であった魔導鉱に続き、未知なる鉱物であった聖王鉱の鉱脈までが発見され、それらが魔導科学の発展に必要不可欠なものとなったことから、エヴァンザにおけるそれらの需要はますます高まり、この町は継続的かつ順調な発展を続けている。
そのような土地柄、この町には大きいものから小さいものまで金属加工の工場が多い。町中の各所にある工場の煙突からはさまざまな加工過程の高熱を排気するための煙が上がり、わざわざ耳を澄まさなくとも、どこかで金を叩く金鎚の音が聞こえたりするような町柄だ。また町の規模も郊外のローエンツと大市場であるハーメスの間ほどに大きく、工場の労働者達を癒すための酒場や、産業発展の一環としての道具屋も多く軒を連ね、後進の技術者を育成するための専門学校まである。まさに発展途上の工業都市である。
「わぁ……」
セリナがエヴァンザの空港から町の様子を見て最初に驚いたのは、ローエンツともハーメスとも王都ともまた違う、エヴァンザ独特の町の賑わい方だった。ハーメスのように決して人通りが多いわけではないながら、町の至る所で稼働している工場から響いてくる鉄の音は、それ自体この町に活気があることを示している。
(ここが、ルベールの育った町なんだ……)
奇妙な感慨と共にセリナが隣に立っていたルベールに視線を向けると、当のルベールは遠くを見るような眼差しで、空港の高台から故郷であるエヴァンザの全容を眺めていた。傍からその様子を見るだけで、ここにたどり着くまでに彼がこの町を離れていた間の時の流れを感じているのが自分のことのように感じられるような、遠い目をしていた。
(やっぱり……懐かしい、のかな)
そう思い、セリナは自分がルベールに不思議な同調を覚えているのを自覚する。
家族を残して故郷を出てまで、世界を知ろうとしてきたルベールは、実に5年ぶりにその故郷に帰ってきたことになる。彼は今どんな気持ちでこの故郷の光景を眺めているのか、残してきた家族のことは心配なのか――柄にもなく、彼の辿ってきた時間や越えてきた経験が自分に重なるような、そんな思いが胸に迫るのを感じた。
もしも自分が5年もの間故郷である王都を離れ、クランツや孤児院の家族達と離れて暮らすことになったらと考えるだけでも、その間の孤独感は想像に難くないとセリナには感じられた。今、その時を経た彼が何を思っているのか――それがセリナには気になった。
と、その視線に気付いたのかふいにルベールはセリナの方に顔を向け、わずかな間セリナの見上げる視線を見返すと、いつもの涼しい顔に何やら可笑しげな笑みを浮かべた。何となく茶化されているような気になったセリナは、不審に思って訊いた。
「何よ、何だか可笑しそうな顔して?」
「いや、セリナは新しい町に来るたびに毎回新鮮な驚き方をするから面白いなと思ってね」
「子供扱いするんじゃないっての。ったく……いっつもそうやって馬鹿にするんだから」
ルベールの言葉に、セリナは再度むっとする。そこに脇にいたサリューが重ねた。
「ルベール、そこは『可愛いな』って言ってあげないと。セリナが拗ねちゃうわよ?」
「拗ねてませんッ! それのどこにあたしが拗ねる要素が――」
思わず過敏に反応してしまったセリナの背筋に――突如、ぞくり、と怖気が走った。
異様な雰囲気を漂わせた何かが、近くにいる――そう、全身に走る直感が告げていた。
(何、この気配……? まさか、《十二使徒》がもう……⁉)
咄嗟に警戒心が働き、セリナは周囲に目を配る。
「どうしたの、セリナ?」
しかし、ルベールとサリューは怪訝な顔でセリナを眺めるだけだった。
それに、セリナは奇妙な違和感を覚える。
自分よりも遥かに優れた「状況への勘」を持つ二人が、これに気付いていない。
翻って、それに自分しか気づいていないということ――これは、何を意味するのか。
それらの疑問と、自分が感じている感覚が合わさった時、セリナは何かに気付いた。
自分を総毛立たせている、この、襲いかかってくるような凄烈な気配。
それは、敵意でありながら敵意でなく、殺意でありながら殺意でない――何というか、うまく形容できないのだが。
そう、あえて例えるとしたら。
意中の相手に言い寄る女に向ける、乙女の燃え盛る妄執のような――――。
そこに辿り着いた時――その気配が、ありえない速度と熱量を持って動いた。
それが一気に向かった先は――ルベール。
「ルベール、危ない!」
「!」
セリナの言葉に反応する間もなく、それは懐を縫うような素早さでルベールに迫る。
だが、同時にセリナはその気配の性質を感じ取った時、これまた奇妙な納得を覚えていた。
それが放っていた敵意も殺意も、セリナ達を傷つけること、それ自体が目的ではない。
全ては、意中の目標に近付くための妄念が放っていた、副次的なもの――。
そこに理解が至った時――それは、真正面からルベールの懐に飛び込んでいた。
「え、っ……⁉」
どこから潜り込んだのか、視認すら叶わなかった状況に、セリナが目を剥く。
だが――襲われたはずのルベールは、驚くほど驚いていなかった。
その時には、ルベールの腰に抱きつき、胸の中に身を預けている小柄な少女の姿があった。
「――いろいろ考えましたの。どの死角から迫るのが、一番お兄様を驚かせられるかって」
ルベールの胸に華奢な体を沈めるように埋めながら、少女は独白のように言葉を紡ぐ。
「でも、そんなの些末な事でしたわ……お兄様に迫るのに、小細工など不要。ルチアの愛は真っ直ぐであることを示すのが、正解だったのですわ」
それに、と、少女は口に含めるように呟いて、顔を上げ、
「こうして顔を上げるだけで、愛しいお兄様のお顔を仰ぐ光悦に預かることもできますから」
そう言って、ルベールの顔を、貴公子の輝く貌を見るように見つめた。
「お帰りなさいませ、お兄様。あなたの愛しの妹ルチアが、お迎えに上がりました」
今にも花咲きそうな笑みを浮かべる少女・ルチアに、ルベールは参ったように息を吐くと、
「……父さんには、迎えは要らないって言っておいたはずだったけど」
「まあ、お兄様のいけず。せっかくこうしてルチアが愛の限りにお出迎えましたのに、ご褒美の一つもなしですの?」
ルチアに、ルベールは困ったように頭を掻くと、今度は呆れたようにふっと笑い、
「……ま、来ると思ってたけどね。――ただいま、ルチア。久しぶりだね」
言って、ルベールは胸の中に身を預ける妹・ルチアの頭を優しく撫でた。
「ああ、お兄様……やっとお戻りくださいましたのね。ルチアは幸せでございます……!」
それに、恍惚とした表情を浮かべ、蕩けるような声を出すルチア。
その、仲睦まじさを一方的に逸脱しているような甘い光景に、
「ふぅん……あれがルベールの秘蔵っ子ね。なかなかどうして、羨ましい愛され方じゃない」
「へっ⁉」
全く平然と感想を口にしたサリューに、セリナは仰天した。
「サ、サリューさん……何で……」
「あ、そっか。セリナは知らなかったかしら?」
言葉が出ず、口をパクパクさせているセリナに、サリューが申し訳とばかりに説明する。
「ルベールには妹ちゃんがいるのよ。あれがその子でしょうね」
「い、妹……⁉」
全く以て未知の新事実に、セリナは思わず仰天しそうになる。どうして今まで彼との付き合いの中でそれだけのことを知る機会がなかったのかということに意外な思いを覚えた。
そこに、唐突にルチアの声が冷水のように割り込んだ。
「ところでお兄様。どういうことですの?」
「何がだい?」
その含む所を察しつつ、ルベールは笑顔のまま平然と返す。
ルチアはそれを受けて、視線をセリナとサリューの方に向けた。その青く澄んだ瞳に映る静かな炎のような激烈な感情に、セリナの背筋が思わずゾクリと震える。さっきまで感じていた殺気にも似た感情はこれだ、とセリナは直感した。
そんな、明確な「敵意」を向けながら、ルチアはルベールに向かって言う。
「最愛の妹の所に帰って来るのに、他の女を二人も侍らせてくるなんて、どういうことですのと訊いているんですの。ルチアはお兄様の帰りを一日千秋の思いで貞淑に待っていたというのに、当のお兄様が外遊にかこつけて他の女を囲っていたなんて、ルチアは悲しすぎますわ。ルチアの純情をどうしてくれますのッ」
「なッ……?」
ルチアの色濃い妄念に驚愕するセリナの横で、サリューが面白そうに笑う。
「あらあら、これは大変なことになりそうね。ルベール」
「他人事みたいに言わないでくださいよ、サリューさん……」
膨れっ面のルチアに強い力で抱きつかれながら、ルベールは参ったように言った。
(確かに……これは面倒なことになりそうね……)
妄執的な愛に走るルチアと、その扱いに困るルベール、それを面白がりそうなサリュー。
その一連の様子を見ながら、セリナも心中何やら穏やかならぬものを感じていた。その隙に、サリューがルチアに挨拶をかける。
「初めまして、ルチアちゃん。ルベールの同僚のサリュエリス・シャーンセよ。ルベールは本当に仕事もよくできるし、いつもお世話になってるわ。イロイロと、ね♡」
「……サリューさん、僕を追い詰めるのがそんなに楽しいですか」
そう妖しげに言って、ルベールの耳元に顔を近づけるサリュー。ルベールが混迷の極みに立たされ、セリナが頭を抱える中、ルチアが憤慨したのは言うまでもない。
「な、ッ……イロイロとですって⁉ お兄様、いったいこの魔女に何をされましたの⁉」
「まあ、その……色々とね。作業の手伝いの他に、酔ったこの人を連れ帰ったりとか」
他に思い当たることもなかったルベールは、言ってから、しまった、と思った。
酔った女性を連れ帰る――この状況で妹がそれをどう解釈するかなど、知れたこと。
果たして、ルチアは今にも髪が逆立ちそうな勢いで、怒りに顔を赤らめていた。
「お・兄・様……まさか聡明なお兄様がそこまで堕ちてしまうとは、ルチアは悲しくてございます……この魔女がお兄様を篭絡したというのであれば、私が問答無用で八つ裂きにッ」
「ルチア、落ち着いて。酔ったこの人を連れ帰ったとしか言ってないだろ」
「その言葉から他に何を連想すればいいんですのッ! 死になさいこの魔女!」
吼えるように言って、ルチアはどこから取り出したのか、一丁の銃をサリューに向けた。
その気迫、どうやら冗談では済まないらしい――そう直感した瞬間、
「こらーッ!」「ひぶっ⁉」
セリナは咄嗟にルチアの脳天に軽い拳骨をかまし、怯んだ隙に銃をその小さな手からむしり取った。思わぬ衝撃に目に涙を滲ませながら、ルチアがセリナに食ってかかる。
「い、い、いきなり何をなさいますの、この凶暴女! その銃を返しなさい!」
「うるさいっ! 女の子がいきなり拳銃なんて突きつけるんじゃない! 危ないでしょ!」
「あなたのような野蛮な女に説教される覚えはありませんわ! この猿女!」
「さ、っ……猿って何よ! それを言うならあんたなんてルベールの飼い犬よ、犬!」
「獣程度の品性の女に獣呼ばわりさせる筋合いはありませんわ! いいからその銃を――」
「はいはい、二人ともそこまで。淑女があんまり人のことを悪く言うものじゃないよ?」
今にも取っ組み合いになりそうな二人の間に、ルベールが割って入った。睨み合っていたルチアとセリナだったが、ルベールの言葉を聞いたルチアは渋々と引き下がった。
「お兄様がそう仰るのでしたら……ですが、その銃は」
「うん、偉いね。それに、ありがとう。後でじっくり見せてもらうよ」
「……?(後で、じっくり見せてもらう……って、何を?)」
その言葉の意味が取れないセリナに向き直り、申し訳なさそうにルベールは笑った。
「セリナ、妹が暴れてごめん。サリューさんも、怪我はないですか」
「ええ、久々にヒヤッとしたわ。これは、ルチアちゃんの前ではふざけられそうにないわね」
「あたしも別に何ともないけど……何だか楽しそうな顔してますねサリューさん」
「ヒヤッとするのは僕の方ってことですか……頼みますから事を荒立てないでくださいね」
何やら楽しそうな顔のサリューに不穏なものを覚えつつ、ルベールはセリナに言った。
「セリナ、その銃を返してあげてくれないかな。大丈夫、撃たせたりしないから」
「わかったわよ……はい、ほら、これ。大事なものなら簡単に奪わせたりするなっての」
セリナが渋々ルチアに差し出した銃を前に、ルベールはルチアに優しい声をかける。
「ほら、ルチア。お詫びは?」
「……淑女として不躾な真似を致しましたわ。お兄様の手前、お詫びいたします」
「素直じゃないわね。女の子がいきなり銃を抜くものじゃないわよ」
「断りもなしにうら若い淑女の頭を殴るのも、乙女の作法ではないと思われますけれど」
再度視線をぶつけ睨み合う二人。今にも再戦が始まりそうな二人を前に、ルベールは参ったような息と共にルチアの肩にぽんと手を置き、改めてセリナとサリューに言った。
「失敬。改めて紹介するよ。僕の可愛い妹のルチアだ。どうか可愛がってあげてほしいな」
ルベールの言葉に、敬愛する兄の手前憤激を収めたルチアは、こほん、と咳払いをすると、恭しく可憐に一礼してみせた。
「ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。改めまして……コーバッツ公社の長男であらせられるルベールお兄様の愛妹、ルチア・コーバッツと申します。いつもお兄様がお世話になってらっしゃったんでしょうね。私が逢えなかった間に、貴女方との間に何があったのか、ぜひお聞かせ願いたいですわ、お姉様方」
ルチアが誇らしげに、どこか冷ややかな棘を含んだ微笑みを見せる。謂れのない敵意を向けられているのが明らかにわかった。
ちらと視線を向けると、ルベールは困ったような笑みを浮かべて首を振っていた。
(……あんたも大変なのね)
形こそ異なれど、弟や妹を持つことの嬉しい気忙しさは、孤児院にいたセリナにも覚えがある。
それを見たセリナは、普段の彼が見せない意外な姿を目の当たりにしたような気がして、何だか可笑しくなった。
同時に、ルベールに共感を覚えている自分を自覚して、少し複雑な気持ちにもなった。
(ふふ……ここでの滞在、面白いことになりそうね)
そんな三者三様の様子を見ながら、サリューは一人、興気な笑みを浮かべていた。
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