第5章 工業都市エヴァンザ編 第2話(2)

 ルグルセンの部屋を飛び出したセリナは、長い廊下の向こうの角を曲がるルチアの姿をかろうじて目に収めて、それを追うように駆け出した。途中、建物の中を移動する工員や社員らしき人々が走るルチアと自分の後を奇異の視線で見るのを感じたが、セリナはそれを気にも留めず、奇妙な焦燥感と共にルチアを追いかけた。

 やがて、廊下を何本か移動すると、建物の中の色合いが白い鉄材造りの社屋のものから木材造りの落ち着いた風合いの邸宅のようなものに変わる。どうやらこの建物はコーバッツ公社の社屋とルチア達コーバッツ一家の邸宅が繋がっている造りになっているらしい。豪奢さこそないものの、随分な大きさの邸宅であることはセリナにも察しがついた。

 ルチアは邸宅の階段を上に駆け上がり、一室に飛び込むと勢いよくドアを閉じてしまった。遅れて二階に上がったセリナは音の聞こえてきた方向からルチアの居場所を特定する。

 ドアの前に立つと、部屋の中から微かにすすり泣くような音と、張りつめた空気が伝わってきた。セリナはどうしたものか迷ったが、覚悟を決めるように一つ息を吐くと、軽くドアをノックして、中に居るルチアに配慮の声をかけた。

「ルチアちゃん、入るわよ」

 返事は返ってこなかった。おそらく返事ができる状態ではないのだろう。その内心を推し測りながら、セリナはドアの取っ手に手をかける。幸いなことに鍵はかかっていなかった。

 ドアを開けると、そこにあったのは綺麗に整頓された、静謐さの満ちる部屋だった。菫色のカバーがかけられたふかふかそうなベッドが窓の側にあり、枕側には落ち着いた風合いの机と椅子、そして部屋の左隅に様々な物を飾ってある違い棚、ただそれだけがある。机の上の棚には並べられた愛読書らしき本と、額縁に飾られた家族の写真。まるでそれ以外には必要ないというような空間の多い部屋は、どこか部屋の主の心の隙間を感じさせた。

 今、その部屋の奥のベッドの枕に頭を埋めているルチアがいた。その肩が震えているのを見ながら、セリナは慎重に言葉を選んだ末、声をかけた。

「どうしたのよ、急に。あいつ……ルベールが何か酷いことでも言った?」

「話しかけないでくださいません? あなたに話せることなど何もありません」

 セリナの方を見ることもなく、枕に顔を埋めたままルチアはきつく言い捨てる。だが、その言葉に気を散らされたのか、肩の震えがわずかに収まっていた。それを見たセリナが言う。

「あっそ。別にあんたがあたしを嫌いになるのは構わないわよ。けど、ルベールやお父さんを恨むのは、逆恨みなんじゃない?」

「恨んでなど、ッ……!」

 セリナの言葉に、ルチアは反射的に反応して身を起こし、次いで傷心を紛らされたことを自覚して、恨めしそうな目でセリナを睨みつけた。

「……傷心の乙女をそっとしておくこともできないんですの? これだからお猿さんは」

「今は何とでも言われてあげるわ。ただ、あいつやお父さんもそれを気にしてたみたいだから。あんた達、家族でしょ。あんまりぎくしゃくしてんのも嫌だなと思ってね」

 セリナの他意のない言葉に、ルチアは泣き腫らした目でセリナを問い詰める。

「部外者にわかるわけがありませんわ。そもそもなぜ私達家族の問題にあなたが『嫌だ』などと感じるんですの? 他人事でしょう」

「他人事に感じられないからそう言ってんのよ。あんたがどう思おうが、あたしもこれでも三年はあいつと付き合って来てんの。あいつの身内の事なら、今更他人事には思えないわよ」

 あえて強気に出たセリナに、ルチアは押されながらも言い返した。

「……それでもやはり所詮あなたは他人ですわ。私達の家庭の事情を、私達家族と同じように理解し共有し合うことなどできはしない。それくらいわかるのではなくて?」

「だったら、あたしにも共有させてくれないかな。ていうか、今のあんた達も共有できてるとは思えないんだけど。……知らないことには何も言えない。あんたの言う通りだからさ」

 セリナの冷静な物言いに、ルチアはしばし口を噤んだ後、渋々とばかりに言った。

「……話す前に、あなたのことについてお聞かせくださいません? 素性もろくに知らない方に身内の事情、それも乙女の秘密を話すのはいささかためらわれますので」

「いちいち言い方が刺々しいわね。まあでもそうね。自己紹介もちゃんとしてなかったか」

 意地を張り続けるルチアに素直に返すと、セリナは改めて自分の身の上を話した。

「あたしの名前はセリナ・カルディエ。王都の生まれだけど、7年前の帝国の攻撃で、両親は亡くしてる。今は王都の外れにあるルセリア孤児院にお世話になってて、それでもって王都自警団の団員。歳は17。あんたは?」

 急に話を振られたルチアはしかし、警戒を緩めないよう冷静を努めながら答えた。

「……16ですわ。お兄様の三つ下です」

「そっかー、16か。だったらあいつと一緒ね」

「あいつ?」

 思わず問い返していたルチアに、セリナは、ああ、と軽く笑って答えた。

「弟みたいな奴がいるのよ。あたしと同じで、戦乱の時に家族を亡くして、同じ孤児院に来てくれた男の子。おっちょこちょいなようで、いざという時はしっかりしててさ。いっつも心配かけてばっかりで……本当に、世話の焼ける奴」

「そう……だったんですの」

 その言葉に、ルチアの表情から棘が落ちた。それに感付いたセリナが訊く。

「どしたの?」

「いえ……見かけによらず、結構繊細な事情をお持ちでしたのね」

「見かけによらずは余計よ。それで、あんたはどうなの?」

 セリナの問い返しに、ルチアは怪訝そうに首を傾げた。

「どう……とは?」

「こっちが身の上を話したんだから、あんたも身の上を話すのが筋ってもんでしょ。少なくともこっちはまだあんたが何をそんなに気にしてるのかよくわかってないし。教えてよ。じゃないと、あたしはあんたのこともルベールのこともわかってあげられないからさ」

「随分と軽々しいですわね……乙女の秘密に土足で上がり込むような真似をするなんて。……ですが、それもあなたの仰る通り、筋というものですわね」

 仕返しのように毒づいたルチアだが、セリナの竹を割ったような態度にその毒気を抜かれたのか、小さく息を吐くと降参したような眼でセリナを見て、語った。

「――このコーバッツ公社は、エヴァンザ建立の時以来、第一社としてこの町を牽引してきました。それゆえ、様々な分野で折衝を行う相手も多く……敵も多くなりやすかったのです」

 語り始めたルチアの目は、古傷が開いたような痛ましさを宿していた。

「あれは、もう六年も前のことです。七年前の帝国の攻撃の際に、私のお母様はまるでその影響を受けたかのように急激に体調を崩され、日に日に病床で衰弱していきました。お医者様には精神の病と診断され、治るにはお母様の精神の病原を消すしかないと言われました。私達兄妹は打つ手も見当たらないままお母様の傍にいることしかできず、当時から組合長を務めていたお父様はエヴァンザ内の事務処理や対外関係の処務に追われ、お母様の傍に付いている暇もありませんでした。そうしているうちに、お母様は……」

 言葉を失くして涙をすするルチアに、セリナは同情するしかなかった。

「そうなんだ……でも、あたしの知ってるルベールなら、そんなお母さんを放っておいたりしなさそうだけどなぁ」

「ええ、その通りですわ」

「へ?」

 思わぬ答えに呆気にとられたセリナに、ルチアは重い表情のまま話を続けた。

「お兄様は、お父様が政務に追われている分まで、お母様の傍についてくれていました。昼夜を問わず、最期の時まで、お母様の手を握ってくれていらっしゃいました。お兄様がお母様とルチアの傍にいてくれたから、私はお母様が亡くなっても、誰も恨まずに済んだのです」

「そうだったんだ……でも、だったら何で? あんたがあいつを――ルベールを恨む理由なんて、ないじゃない」

 セリナの言葉に、ルチアは俯きながら、拗ねるように言った。

「お兄様を恨んでなど、いませんわ……ただ、お母様を看取れなかったことを覚えてらっしゃるはずなのに、またこのエヴァンザが多忙に追い込まれる道を選ぶことが、我慢ならなかっただけです。もしもまた、そのせいでこの町の人が失われるようなことがあったら……私は……お兄様は……」

 苦渋に染まるルチアの表情を見て、セリナは合点がいった。

 母親を亡くした時の苦痛を、繰り返させたくないのだろう。自分にも、彼にも。

 やはり、この子はルベールを恨んでなどいない。彼を想うが故の反抗心だったのだ。

「そっか。あなた、やっぱりあいつの――ルベールのことが好きなのね」

 自然な気持ちで呟いたセリナに、ルチアは敵を見るような恨めしげな目を向けた。

「他人事のように言わないでくださいませ。自分のことは棚に上げて……」

「へ……どういうこと?」

 ぽかんとするセリナに、ルチアは恨めしげな息を吐くと、セリナをキッと睨みつけた。

「鈍感もここまでくると罪ですわね。お兄様を変えたのは――――」

 ルチアがそこまで言い終わる前に、開け放したままだった扉の外に、ルベールの姿が現れた。廊下を駆けてきたらしく、あるいは気を逸らせていたのか、微かに息が上がっている。

「ルチア……やっぱりここにいたのか。それにセリナも」

「お兄様……」

 縋るような眼をルベールに向けるルチアを見たセリナはその場の空気を察し、小さく息を吐くと静かにルチアに背を向け、ルベールと向かい合うと、屈託無げに言った。

「……ルベール。あたし外にいるね。あたし、邪魔になりそうだから」

 どこか陰のあるセリナの心中を推し量りながら、ルベールは彼女に感謝の詫びを入れる。

「セリナ……すまない。気を遣わせてしまって」

「気にしないで。それより、ルチアちゃんに優しくしてあげて」

 そう言い残すと、セリナはルベールの肩を叩いてすれ違い、廊下の外に姿を消した。後に残されたルベールは、彼女の配慮に後ろ髪を引かれながら、ルチアに向き直る。

「ルチア……ごめん。また、不安にさせてしまったね」

「……お兄様が謝ることではありませんわ。私が逸ってしまっただけです。私の方こそ、不安にさせてしまって申し訳ありません、お兄様」

 申し訳なさそうにうなだれるルチアに、ルベールは気遣うように言った。

「セリナに、何か言われたかい?」

 その言葉に、ルチアはしばし逡巡した後、あえて言いつけるように言った。

「私とお兄様の仲を勘繰られましたわ。あの方、お兄様に気があるのかもしれませんわよ」

「そうか……よかった」

 思わぬ兄の言葉に、ルチアは思わず顔を上げていた。

「よかったって……どういうことですのお兄様?」

「セリナは大方、君や僕が何を気にしているのか訊いてくれたんだろう? 彼女は私利を押し付けるような女性じゃないからね。君も、話をして少しすっきりしたんじゃないかい?」

 見てもいないやり取りを見透かしたようなルベールの言葉に、ルチアは言葉を失い、俯く。

 そうだ……結局あの女は、何も自分に強要しようとはしなかった。ただ、辛そうに見えた自分を心配して駆け付けて、話を聞いてくれただけだった。そこに一切の害意はなかった。

 一連のことを振り返り、セリナへの意識を自覚したルチアは、呟くように言った。

「お兄様。私、あの方は油断ならない女だと思います。私、認識を改めましたわ」

「そうか。君のそういう勘は鋭いからね。少し気にかけておくよ」

 そう言うと、ルベールはおもむろにルチアの小さな肩を抱き寄せた。

「お兄様……」

「ごめん、ルチア。いつも君に心配をかけてばかりで。本当に、あの頃から僕は……」

 深い後悔を滲ませるルベールの言葉に、ルチアは穏やかに笑んで、答えを返した。

「お兄様が今でもそう思ってくださっているのなら、ルチアはそれだけで幸せです。だから、泣かないでください、お兄様。ルチアは……お兄様を信じています」

 涙に濡れて囁くルチアの肩を強く抱き寄せながら、ルベールは決意を新たにしていた。

 もう二度と、自分の無力のせいで妹を泣かせるわけにはいかないのだと。

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