第5章 工業都市エヴァンザ編 第2話(5)

「は、っ、ぁ、ぁぁあああああん……はぁ……う~ん、いいお湯ね。体が溶けちゃいそう♪」

 風呂桶の音が木霊する、古き良き湯場、カローネ亭の女湯。

 湯煙が立ち込める中、下手な童貞を殺すような色気たっぷりの声を漏らしながら陶然と湯に浸かるサリューを目に、セリナとルチアは密かな会話を交わしていた。

「セリナ様……サリュー様は遊興が好きと仰っていましたが、男性関係についてもそうなのでしょうか? だとしたら私はやはりあの方を――――」

「あんた、気が早すぎ。また銃ぶっ放すつもりならルベールに何か言われるわよ」

 気を逸らせようとするルチアを言葉で黙らせ、セリナは言っていた。

「サリューさんは大人だし、普段からあんな態度だけど、きっといつも心の奥では気を揉んでるのよ。だからこそお酒とかお風呂とかでその緊張をほぐしたいのかもね」

「そういうものですか……」

 ルチアの呟きに、くつろぐサリューを遠めに見ながら、セリナは言っていた。

「サリューさんだって、決して完璧な人間じゃない。抱えてるものだってきっとあるわよ。それでも、そういうのを普段は外には見せないから、あんたに意外に思われるくらいしっかりしたように見えてたんでしょうね。あたし達子供とは別格よ……本当に、敵わない」

 言っていて、どこか悔しさのようなものを感じている自分が、セリナには意外だった。

 敵わない、などと――自分のどこに、サリューと比較するような要素があるというのか。

 あるとしたら、女性としての完成度だろう、と、セリナは慣れない感覚を使って考える。

 湯に浸かる前、水を浴びているサリューのしなやかさと滑らかさを湛えた流麗な体、水に濡れて透き通るような長い髪、心の読めない不思議な笑みを浮かべる表情の艶めかしさ――それらを目にした時、セリナは女性として「敵わない」と直感していた。

 単純な見かけの――身体の成長度というだけではない。その全身から匂い立つような大人の魅力――その胸の内に悩みを抱えてなお人を魅了するほど美しくある、女性としての人間の大きさに、セリナは己のあらゆる未熟さを意識させられていた。

(あんなのに敵う女なんて、世界中探したってなかなかいないでしょ……)

 心中で愚痴るセリナは、その感情が何を意味しているのか、薄々は勘付いていた。だが、それはルチアの手前口にはしなかったし、また口にするものでもないと思っていた。

 自分が、女性を意識するようになる理由がどこかに――すぐ近くにある、などと。

 そんなことを考えているうちに、サリューが湖の妖精さながらに水色の髪を泳がせながら、湯の中を悠然と泳いでやって来ていた。

「ハァイ、お二人さん。楽しんでるかしら?」

「サリューさんが一番楽しんでるように見えますけど」

 セリナの言葉に、サリューは含みのある笑みを浮かべてセリナを見やった。

「せっかく仕事の合間に休養が取れる貴重な時間なんだもの。セリナもしっかりくつろげるときにくつろいでおきなさい。ここを出たらまたどんなことが降りかかってくるかもわからないんだから。休める時に休んでおくのも体力管理、仕事の内よ?」

「はーい……」

 サリューの全く以てな言葉に、セリナは反論の余地もなく湯に浸かり口を埋める。その様子を姉のような目で眺めながら、サリューはルチアに話の矛先を向け変えた。

「いいお湯を紹介してくれてありがとう、ルチアちゃん」

「お礼を言われるほど大したことはしていませんわ。この町に来てくださった来客にこの湯場を紹介するなど、この町の良識ある方々にとっては常識、作法にも等しいですから」

 素っ気なく返そうとするルチアに、サリューは追撃をかけた。

「ねえ、ルチアちゃん。この町には他にもこういう湯場があるの?」

「ええ、いくつかは……ですが、私は」

「ここがお気に入りだから、紹介してくれたんでしょう?」

 笑みを浮かべながらその言葉を先取りしたサリューに、ルチアの表情が固まった。それを見ながら、サリューはお見通しとばかりに笑みを浮かべて話す。

「他にも紹介できる湯場はあるのに、あなたは自分の意思でここを薦めてくれた。だとしたらやっぱりお礼を言うべきでしょう。それが労をかけてくれた人への礼儀、恩義を受けた人の作法っていうものじゃないかしら」

「こちらの論法を真似しないでくださいませ。あなた様の気品は買いますけれど、そういう小賢しい所は癪に障りますわ」

 悔しかったのか、ルチアは顔をしかめると、何を思ったか二人にこんな問いを投げた。

「それで、お二人のどちらが、お兄様のお相手なんですの?」

「なッ……⁉」

 セリナが固まる一方で、サリューは興気な笑みを浮かべてルチアを見た。

「それは、私達のどちらかが、あなたの敵であることを確認する問いってことかしら?」

「察しが良いのは認めますが、質問に答えてくださいませ。お兄様一人で事足りるような用事にわざわざ付いて来たということは、気があると捉えても差し支えないでしょう?」

「暴論よ! あたしは別に、そんなんじゃ……」

 思わず言い淀むセリナに、ルチアはつまらなそうな目を向けて見せる。

「そうですわね。まあ私も最初からあなたは眼中にありませんでしたけれど」

「んなッ……⁉」

 憤慨するセリナをよそに、ルチアは本命であるサリューに挑みかかるような目を向けた。

「あなた様はどうですの、サリュー様。お兄様を手籠めに狙ってらっしゃるような臭いがプンプンしますけれど」

「あら、そう? そんな臭いがしてたの……ちょっと手入れが行き届いてなかったかしら」

「はぐらかさないでくださいませ。お兄様を奪うおつもりなら、私が容赦致しませんわ」

 一方的に敵視の目を向けてくるルチアに、サリューはその表情に深い器を映して、問いかけるように言った。

「ねえ、ルチアちゃん。あなたはどうして、ルベールの身辺にそんなにこだわるの?」

「お兄様を愛しているからに決まっているでしょう。それ以上の理由などありませんわ」

 至極当たり前とばかりに答えたルチアに、サリューは問いを重ねた。

「ねえ、ルチアちゃん。あなたのその愛は、何を望むものなの? あなたの幸せ? それとも、ルベールや、ほかの誰かの幸せ?」

「えっ……?」

 その質問が意外だったのか虚を突かれた様子のルチアに、サリューはなおも重ねて言う。

「あなたがルベールに自分の傍にいてほしい気持ちがあるのなら、それも自由だと思うわ。けれどもし、彼の……ルベールの幸せを思うのだったら、彼の意思を大事にしてあげるべきじゃないかしら。たとえ、彼があなたの元を離れるような選択をするとしても」

「…………!」

 サリューのその仮定に、ルチアは思わず反駁していた。

「不吉なことを仰らないでくださいませ! お兄様が、私の元を離れるなど……」

「そうね、ごめんなさい。けれど、その可能性がないとも言い切れないでしょう?」

 返ってきた言葉に勢いをなくすルチアに、サリューは諭すような声音で告げる。

「もしもその現実があなたの目の前に現れた時、あなたはどうするのか……それは、あなたにしか決断できないことだから。その時あなたは、本当の自分と向き合うことになるはずよ。あなたが自分のために何を望み、何を犠牲にするのか……それを自分に問いただす時が、ね」

 その言葉が、ルチアだけでなく自分にも向けられているのを、セリナは感じ取った。

「あなた達はまだ若いからそれを知らないと思うけれど、いつか、自分の本当の気持ちに向き合って行動をしなければいけない時が来る。だから、いつか来るその時に備えて、心の準備くらいはしておきなさい。あなた達の幸せのために、本当の望みを実現するために、ね」

 サリューの訓言めいた言葉に、ルチアは哀願するような目でサリューを見た。

「サリュー様は……なぜ、そのようなことを思われるのですか?」

「私自身そういう経験があるからかな。年上のお姉さんからの助言ってことで♪」

 その明るい言葉の裏に秘められた過去の深さを感じ取ったルチアとセリナは、何も言えなかった。そんな二人の年若い娘を見守るような目を向け、サリューはおもむろに言った。

「まあでも、そんなに難しい話じゃないわ。何や誰を好きというのか、それくらいの話よ。だから、ルチアちゃんもセリナも、その時が来たら本気になりなさい。出遅れたら、こういうどこかのお姉さんが愛しのルベールをかっさらって行っちゃうかもしれないわよ?」

「冗談にならないからやめてくださいませッ! ルベールお兄様は誰にも渡しません!」

「そうそう、その意気よ。本当に大事な人なら……誰にも渡しちゃダメだからね?」

 冗談に息巻くルチアをからかうように言うサリューの言葉に、ほんの一瞬暗い影が混じったのを、セリナは感じた。だがそれを追求する間もなく、サリューが言った。

「さてと、随分浸かったし、のぼせる前に上がろうかしら。あんまりルベールを待たせるのも悪いしね。それじゃ、お先に♪」

 そう言うと、サリューはざばりと音をさせて、湯から上がった。色の白い艶やかな肌が水に濡れ、湯の熱でほのかな甘い紅色を帯びている流麗にして荘厳な姿に、セリナは改めて彼女の魅力を胸が痛くなるほどに感じた。

 容姿だけではない。人生経験と、そこから生み出される言葉の格が圧倒的に違う。

 あんな、器の大きさから来る女としての魅力――今の自分には絶対に出せない。

《お二人のどちらが、お兄様のお相手なんですの?》

(変なこと訊くんじゃないわよ……ルチアのバカ)

 零れそうになった鬱憤を消すように、セリナはむくれた顔で湯の中に口を埋めた。

 隣にふと目をやると、ルチアは複雑な表情で俯いていたが、セリナも何も言えなかった。

 桶の音が湯霧の中に響く中、やりきれない沈黙が二人の間に満ちていた。

 やがて、ルチアがおもむろに口を開いた。

「セリナ様。先ほどは不躾なことを訊きましたわ。お許しください」

「ん……」

 ルチアの謝るその意図を察し、胸の内にわだかまる思いを感じながら、セリナは答えた。

「別に……そんなに気にしてないわよ。あたしだって別にそんなんじゃないし、サリューさんだっていつもの調子でからかってるだけだと思うから」

「そう……ですの?」

「そーよ。サリューさんってすぐ人をからかうんだから。あんたも気を付けなさいよね」

「そうなんですのね……やはり、油断ならない方ですわ。今まで以上に気を付けないと」

 神経質そうに呟くルチアに、セリナはからかうように言っていた。

「あんた、ホントにルベールのことが好きなのね。これじゃあいつも苦労するわけだ」

「お兄様を語らないでくださいませ! お兄様が、私のせいで苦労しているなどと……」

 その言葉に予想外のダメージを受けたルチアが言葉を失くす。それを察したセリナは、穏やかに笑いながら非礼を詫びた。

「ごめんごめん、今のはあたしもちょっと不躾だったわ。でも、あいつは絶対あんたのことを重荷になんて思ってないから。そこは安心しなさいよ」

「なぜ、貴女様がそんなことを断言できますの? 貴女様は部外者ではないですか」

 弱い棘を含んだルチアの問いに、セリナは自身の実感と共に、確信を持って答えた。

「だって、あいつがあんな深刻そうな顔することめったに見たことないもん。あいつ、普段はいっつも何か笑ってるのに、この町に入る前、すっごい冷めた顔してたのよ?」

「お兄様が……?」

 驚きを目に映すルチアを前に、セリナは穏やかな感情を込めて、続けた。

「この町に来て、さっきの話を聞いて、それで思った。あいつがあんな顔してたのは、たぶんあんたのことがあったからなんだろうって。たぶん、あいつのことだから、あんたをできるだけごたごたに巻き込みたくないとか考えてたんじゃないかな。あんたのことが大切だから……自分のせいでそれ以上傷つけたくないくらい、大好きだから」

「……!」

 衝撃を受けるルチアの内心を知ってか否か、セリナは可笑しそうに笑いながら言った。

「でもあいつ、そういうことって素直に口に出したりしなさそうなんだよね。あいつ、けっこうキザな所ありそうだからさ。そういう大事なことくらい、大事な人になら言ってあげればいいのにって、思ったりするけどね」

 実感を込めて語るセリナの言葉に、ルチアが恐る恐る訊いた。

「セリナ様は……お兄様にそう助言したりはしませんの?」

「んー、別に、あたしが言ってどうすんのって感じだから。あいつの問題だし。もし必要そうな時が来れば言うつもりだけど……あいつのことだから、言われなくてもいずれ自分で言えるようになるんじゃないかな。自分の答えは自分で見つけて、ちゃんと行動に移せる。あたしはあいつをそういう奴だと思ってるから」

 そこまで言うと、セリナは出過ぎた真似をしたとばかりに自嘲のように笑った。

「ごめんね。部外者が口幅ったいこと言っちゃって」

「それは、私に対する当て付けですの?」

「別に、そんなつもりじゃないわよ。ただ、ちょっと踏み込みすぎたかなって」

 セリナのあっけらかんとした言葉に、ルチアはしばし無言でいたが、やがて口を開いた。

「セリナ様。湯場の出口に冷たい飲み物を売る屋台がありますの。ご案内させていただいてもよろしくて?」

「ん……珍しいわね。あんたが噛みついてこないなんて」

「人聞きの悪いことは言わないでくださいませ。受けた恩は礼で返す、淑女の基礎ですわ」

 ルチアの素直でない好意の表れに、セリナは胸のすくような思いを感じながら返した。

「そーね。それじゃ案内してもらおっかな。ありがとね」

「別に……礼を頂くほどのことではありませんわ。ただ、お兄様をそれなりに理解していただいていることへのお礼を示したいだけです」

 ルチアの暗黙の許容が含まれていたその言葉に、セリナは打ち解けた心持ちになった。

「そっか。わかった。それじゃそろそろ上がろっか」

「ええ。湯冷めにはお気をつけて」

 程なくして、わずかながら打ち解けた言葉を交わして、二人もざばりと湯から上がった。

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