第37話 泣く狼
「で、ですから…わたくしは殿下との間に出来た子が弱い立場に追いやられるのは嫌なのです。もし子が王になったとしても、臣下の者達もそのような身分の低い妃から産まれた王に従うとは思えません。殿下もわたくしを劣り腹だと嫌がっていらっしゃったではないですか!」
部屋の主エリクが王に至急の用事だと呼び出されたのをいいことに追い出し、ベアトリクスとヴァルデマーはにらみ合って対峙した。決闘の前のようなぴりりとした空気が漂う。
「あれは俺の未熟さから出た失言、何度でも謝ろう。しかしベア、世界の勢力図が変わり、血筋ではなく能力の時代がくるだろう。それなのに貴賤結婚など…くだらない」
ヴァルデマーも負けじと次期王の圧を醸し出しながらベアトリクスを説得する。失敗したら彼女を失うとあって無表情をキープしつつも内心は必死である。
「しかし、いきなり風習を変えることなど無理です。人の心に沁みついていると殿下もわかっていらっしゃるでしょう?」
ベアトリクスだって負けてはいない。
愛などという浮ついた気持ちに流されたらスタツホルメン公国や子供を守れないのだ。しかし、彼を信じたいという頼りないが希望が彼女の心に生まれたのも否定できなかった。
彼女の反論を受けてヴァルデマーがニヤリと笑った。
「ベアの為に俺はこのデーン王国の法律を変えた。特にこの2か月は貴族会の根回しが大変だったのだぞ?王と司教の認可があればすべての結婚は正しく認められるのだ。認可された者たちを非難した場合、法を犯したとして罰せられる。数十年も経てば貴賤結婚などという言葉自体も廃れていくだろう」
ベアトリクスは離縁する最大の理由を失いそうになり慌てた。そして最近王子に全く会えなかったのはそのようなことを画策していたからだったのだと思い当たった。
(エリクやオーロフ殿下は知っていて黙っていたのだわ…!ということは陛下まで…?!)
「で、ではクリストファお父様も…?」
「そうだ。陛下もベアが本当の妃となるのを望んでいる。俺はこの法律ができるまではそなたを引き留めることが出来ないと思い、気持ちを告げられなかった。ずっと不安であったろう、すまぬ…この頬の腫れはそなたの俺への思いの表れだと、そう思ってもよいか?俺も『王となる者は容易に周囲に感情を見せるな』と育てられうまく愛情表現ができないのだ」
「うっ…で、でも…」
一気に熱がこもった緑の瞳に見つめられてベアトリクスは唸った。頭が熱くなり反撃の糸口を考えられなくなる。
(しくじりましたわ、これはいつの間にか詰んでいますっ!わたくしが密かにヴァルデマー殿下を慕っていたこともご存じの様子…)
「叩いたのは申し訳ありませんでした。しかし、あ、あのようにクローディアス様の邸宅で不意打ちするようにおっしゃるなんて卑怯ですわ!お戯れかと…」
苦し紛れに殿下を非難すると、彼は腫れた頬に手のひらを当てた。
「ほう…そのような理由で俺は叩かれたのか?ズルをして俺とマルグレーテをペアにした張本人のくせに、卑怯とは不本意だな」
「ううっ…しかし殿下がわたくしをお好きだなんて信じられませぬ。家族のように大事に思って下さっているのは感じておりましたが…」
「…信じられない、と?では」
ヴァルデマーがすっと立ち上がり、おののくベアトリクスを抱きあげた。契約で指一本触れないという約束がある為に今までエスコートや頭を撫でるくらいしかされていないのに、いきなりの大胆なスキンシップにベアトリクスの頬は真っ赤になった。
「はわわっ?な、なにをっ…」
あわあわと両手両足を動かすベアトリクスを、ヴァルデマーは慎重にソファーに運んで横たえた。
「俺が信じられないなら刺してもいい。そなたのウルフバートで刺されて死ぬのもアリだ」
「アリって…あわわわっ、わかりましたっ!ナシですっ!!信じます、信じますからっ!!」
王子の体がベアトリクスに少しづつ密着し、今にも二人の唇が重なりそうになった瞬間、彼女が羞恥に耐え切れず叫んだ。
王子はとぼけた表情でどうするか迷っていたが、唇をわななかせて真っ赤になった彼女が顔を両手で覆っているので彼女の上からどいだ。泣いているのかと心配になったのだ。
「そうか、それなら良かった。今後、俺を信じられなくなったらいつでも刺してよい。それが俺の覚悟だ」
ソファの横に跪き、優しくベアトリクスの両手を剥がした。どうしても顔が見たかったのだ。そばかすだらけの頬を真っ赤にしたベアトリクスは、ボロボロと涙をこぼしていた。
「狼公女も泣くのだな」
「ぐぅっ…だって…」
「俺は初めてベアトリクスを見た時からそなたに惹かれていたのだぞ」
「…わたくしも告白いたします。4年前のパーティであまりに美しい殿下の横顔に釘付けになっておりました。このように美しい方がこの世界にいるのだと…誰よりも早く暴漢に気が付いたのはそのおかげなのです。結局野蛮なところを見せる結果となりましたが…」
「そんなところも、好きだ」
「…っ」
廊下では自国からの知らせを受けたエリクが変に静かな自室にいつ入っていいものかとやきもきしていた。しかし事は急を要する。
「殿下、ベアトリクス、入るぞ!」
ノックをして部屋に入ると、抱き合っていた二人はソファーから飛び起きた。上になっていたヴァルデマーは勢いでソファーから落ちてしまった。
「ったぁ…」
「で、殿下!大丈夫ですか?」
最悪のタイミングで入っていたエリクは二人に大層嫌な顔をされたが、公国からの報告を聞いてベアトリクスの顔色が一瞬で変わった。
「伯父さんが刺されたそうだ!俺は今すぐ公国に戻る」
「わたくしも一緒に参ります」
彼女は一瞬王子を見たが、すぐに心を決めてエリクに向かってはっきりと返事をした。
「なっ…」
(まだキスもしてないのに!これからやっと…)
「殿下、急いで公国に帰りますわ。申し訳ありませんが、続きまた…」
ベアトリクスは風のように部屋を飛び出ていったが、すぐにステップも軽く戻って来た。
「どうした?忘れ物か?」
「はい。殿下に…お渡しするものが!」
「なんだ、ベア?」
ヴァルデマーが何事かとベアトリクスに近づくと、彼女はぐいっと彼の上着の襟を引っ張った。
「…っ!」
彼女の柔らかい唇の感触を腫れた右頬に感じたヴァルデマーは一気に赤くなった。
「ふふふ、やっちゃいましたわ。でも謝りませんことよ」
そう言って、彼女はまた軽やかに部屋から飛び出て行った。
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