番外編 遥かなるルーシ

「あぁ、本当に寒い国ですね…」


 春になるのを待ってベアトリクスとヴァルデマーはスタツホルメン公国の隣国であるルーシを訪れていた。

 今は内陸にある首都に向かって馬車を走らせている。その道も最近まで凍っていたのかと言うくらいに整備がされておらず、ところどころぬかるんで車輪がはまった。

 春めいてきたデーンから来たので、一気に季節が逆行したかのようだ。


「そうだな、馬車に乗っていてもこれほど冷えるとは…ルーシの港がすべて凍り付くというのもわかる気がするな」


 ヴァルデマーは隣に座るベアトリクスの冷えた手をそっと握った。ベアトリクスがびくりとしてから、照れたようにニシシと彼に笑いかけた。王子も照れてしまってベアトリクスの頭のてっぺんを見て気を落ち着ける。

 二人きりの空間で夫婦なのに、どうもべたべたするのが恥ずかしい気持ちがお互いにある。つまりは周りから見てもどかしいばかりなのだ。



「わかっておるな、ヴァルよ。この視察旅行でベアをものにするのだぞ!?」


(陛下に一人で呼び出されるなど何か失策でもしたかと思ったら、そういうことか…要するに子供を作る作業をしろと)


 王は情報収集能力が高く、おままごと夫婦である二人がキスどまりで最後まで事を進めていないことも知っている。だから旅行という違う環境で最後まで関係を進めろ、といっているのだ。


 しかし、それほどうまく事が進むとは王子は思っていなかった。武人であるベアトリクスが意外と初心なのとは別に大きな障害がヴァルデマーにある。

 彼が女性が苦手になった原因、それは10歳頃に若い女官がベッドに潜り込んできた事件だ。王子はベッドから逃げ出したので最悪の事態には至らなかったが、酷いトラウマが残った。

 ヴァルデマーは身体をまさぐられた嫌悪により、女性に性的魅力を感じなくなってしまったのだ。


(うーむ、ベアトリクスを心から愛しているが、性的魅力となると…初めてのことだしベッドで俺が使い物になるかが心配だ。立たなくて彼女を傷付けるのでは…)


 女性を好ましいと初めて思ったのは、17歳のパーティで自分を襲った暴漢をベアトリクスが殴り倒した時だ。性的な魅力と言うより野性的な強さへの憧れをしなやかで迷いのない彼女に抱いた。その憧れは今でも彼女への愛情の基となっており変わりがない。

 部下であり友人であるクローディアスからはドライに性的サービスを売る女性で練習をすることを勧められたが、気が乗らないうえベアトリクスにばれたらだ。いや、大ごとだ。

 そんなこんなで練習もせずにルーシで馬車に乗っていた。




「ベア、寒いだろう?こちらへ」


 嬉しそうに頷いたベアトリクスは、ぴたりと手招きしたヴァルデマーに寄り添い、彼に握られた手の上に自分のもう片方の手を乗せた。


「ふふふ、温かいですわ。殿下のほうが体温が高いのですわね」

「…っ、ベアの手は柔らかくて気持ちがいいな」

「そうですか?殿下はわたくしの手を触るのが本当にお好きですわね。寝る時もいつの間にか手を頬に当てていらっしゃるのですもの」


 ベアトリクスが朝起きるとぐっすり寝入っているヴァルデマーが彼女の手を頬や首などに当てているたびに驚いた。まるでタオルを離せない子供のようで愛らしい。


「そなたが嫌ならば止めるが…」と名残惜しそうに眼を細めて手を引こうとするヴァルデマーにベアトリクスは笑いかけた。


「殿下はすぐに嫌ならやめるとおっしゃいますわね。それは自分が嫌なことを相手にしたくない、という優しいお気持ちから出ているのだと思います。しかし、わたくしは殿下にならなにをされても大丈夫ですわ。嫌なら嫌とハッキリ申します。あまり殿下が遠慮されますと心を許して頂いていないようで寂しいのです…」

 

 ベアトリクスはそっと彼の手を両手で包み込み、手の甲にキスを落としてから椅子に膝を付いてヴァルデマーの首や頬、唇にそっと優しいキスをした。


(ベア…もしや、俺が女嫌いになった原因を知って…?)


「すまない、ベア。寂しい思いをさせてしまったのだな。幼少期に俺を襲った女性と同じような行為をそなたにするのが怖かったのだ。しかしもう怖がる必要はないのだな」

「はい。わたくしを信用してくださいませ」

「俺たちは二人で一つ、何であっても俺に相談するのだぞ。もちろん俺もそうする。俺が一番怖いのはそなたを失うことだ」


 ヴァルデマーは今まで感じたことがない程の愛情が身体の芯から湧いてくるのを感じ、ベアトリクスを強く抱きしめた。彼女の口から「…殿下、少しいたいのですが…」と言うか細い言葉が出るまで、ずっと。極寒の道を走らせる馬車の中はとても暖かくなっていた。

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狼公女ベアトリクスの契約結婚 海野ぴゅう @monmorancy

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