第28話 許し

「今日のところは髪で許してあげますわ。あら、手が滑って耳も少し切ってしまいましたわ。しかし、次に乱暴狼藉を見かけたときは許しませんわ、バイエルン家のヘルヴィヒ様」


「ぎゃー、俺の命の次に大事な髪が…母に怒られるっ…」


 男の身勝手な態度にベアトリクスはイラっとした。


「騒ぐと舌を切り落としますよ」


 ベアトリクスの恫喝に焦った男は落ちた髪をつかみ、馬を置き去りにして足を引きずるように広場から去っていった。

 彼の姿が小さくなると、広場にいた人たちがわんさかとベアトリクスの周りに寄って来た。


「すごいね、あんた!あいつは人が多い時に馬を走らせに来る嫌な貴族さ、すかっとしたよ」


「本当にあんた強いんだねぇ!目が飛び出るかと思ったよ。あいつに泣かされた人たち全員にあの情けない姿を見せてやりたいね」


 兄妹もお礼にきた。


「ありがとうございました!でも…あいつお姉ちゃんに悪さしないかな」


「安心しろ、少年。こいつは化け物みたいに強いからな」


 熊みたいなエリクが優しい目でそう言うと、


「お兄さんは弱そう…」


とぼそりと妹が言ったのでその場は大爆笑に包まれた。エリクはトホホと言わんばかりに栗毛を掻いた。


「皆さんのお仕事の邪魔をしてしまい申し訳ございません。さあさ、お戻りくださいな」


 ベアトリクスがそう言うと、わらわらと皆が散っていく。彼女は膝を着いて少年と目線を合わせた。


「わたくしは妹を守る君に感動致しました。お礼をさせて下さいな」


「えっ…」


 ベアトリクスはテーブルに二人を招き、メニューを差し出した。


「ささ、好きなものをお食べなさい」


「おまえ金持ってないだろ!おい、少年少女。俺のおごりだからな!」


 二人はメニューを開けたがおどおどしている。


「どうしました?遠慮はナシですわよ」


 ベアトリクスがたずねると、


「…読めないんだ」


と恥ずかしそうに少年は答えた。


 スタツホルメン公国では、この程度の文字ならば子供でも読める。

 しかしここはデーン王国、すっかりこの国の識字率が低い事を忘れていたベアトリクスは妹の前で兄に恥をかかせたことに気が付いた。


「ご、ごめんなさいっ!えーっと、上から読んでいきますわね。豚肉とキャベツとレンズマメが入った煮物、タラと人参とタマネギの煮物、イルカやビーバーの煮物もありますわ。あとはパン…あら、ウサギのグレービーソース添えが!これってばとても美味しそうです。わたくしも食べたいのですが、ご一緒していただけませんか?」


「に、肉なんて高価なもの食べたらお母さんに怒られちゃう…」


と言う兄に、


「ウサギ、食べてみたい…」


と妹が本音をこぼした。


「では、ウサギにしましょう。後はパンと…イチジクのタルトでいかがですか?」


「いいんじゃねーか。頼んでくるよ」


 エリクはさっさと食堂に注文に向かった。


(ベアのやつがあれほど怒るってことは、あの時の事を思い出してるんだろうな…)


 ベアトリクスが10歳の頃だ。エリクとベアトリクスが寝ていたら、城が襲撃された。ベアトリクスの母親は脱出路から二人を城外に逃がして死んだ。


(ベアは逃げる時必死で声を立てずに俺の手を握りしめていた…母親の気持ちを汲み取るなんて、なんて強い心だろうか。俺はベアがいなかったら母を探しに行って死んでいただろう)


 エリクの目頭がじんわり熱くなる。ベアトリクスの母親は最後ににこりと笑ってぎしゃりと二人の頭を撫でた。自分もそのように誰かに何かを託して最期を迎えたいと思う。


 食べたくせにまた食事を頼むベアトリクスは、あの兄妹に自分たちを重ねているのだろう。


(ベアトリクスはいつまでも変わらない。俺はやはりベアに公国を継いでほしいんだ)


「頼んできたぞ、もう少し待ってろよ」


 テーブルに着いたエリクは兄妹を見てまた涙目になっていた。



「ねえ、あなたたち。お仕事ならわたくしの店はどうですか?これから食堂を作ろうと思っているのです。良かったらお母様もご一緒にいかがかしら?お昼から6の鐘の間で食事を提供する予定です。もちろんまかないご飯もついていますわよ!」


 ベアトリクス達は食事をしながら兄妹の話を聞いた。

 父親は戦死して母親が仕出し女をしている。戦争がない時は洗濯女をしているそうで、言うまでもなく生活は苦しい。

 ちなみに仕出し女とは、戦争に従軍して兵士の身の回りの世話を行う女性だ。

 これはハードな職業で、一見楽な存在に見えるが、炊事・洗濯などをやりつつ兵士とともに行軍し、野宿する。軍律にも従うハードな女性の仕事だ。

 場合によっては銃剣を取って兵士と一緒に戦ったり、戦場で傷病人の世話をすることもある。

 そんな仕事をこなす女性だからきっとしっかりしているの違いないとベアトリクスは踏んでいた。

 その兄妹は目を丸くした。


「いいの?母さんには戦場に行って欲しくないんだ」


 妹は母親が戦争に行かなくてすむと聞いて泣き出した。兄もつられてポロリと涙をこぼしたが、急いで服で涙を拭いた。


「…すいませんっ、男なのにっ!ぐずっ…」


「女だろうが男だろうが好きな時に泣けばよいのですよ。涙が出る、ということは何かちゃんとした理由が身体や心にあってのこと。それを止めるのは自然に反しますわ」


「で、でも…うううっ…ふえーん…」

 

 ずっと今まで我慢していたのだろう、いつもは強い兄がすごい勢いで泣き出したので妹の涙がすっこんだ。


「兄ちゃん…私もお母さんみたいに強くなるから…だから泣かないで…」


 兄はますます泣いてしまい、エリクの持っていたハンカチは滴るほどになった。




「ふう、ヨアンとヘレの為にも頑張らないとですわ」


「ああ、そうだな…」


 ちょっとしんみりしながら6の鐘の後に城に戻った二人だが、ヴァルデマーに見つかった。


「勝手に城から出るなとあれほど言っているだろう?何かあったらどうする」


 本当は頭から火が出るくらい怒っているのだが、契約結婚の為あまり表面に出せない。そんな彼にエリクが慰めをかけた。


「ヴァル、そんなに心配しなくても大丈夫だ。こいつに何かできるのは俺の父くらいだ」


「…」


 黙り込んだヴァルデマーに、ベアトリクスが追い打ちをかけた。


「ずっと言おうか迷っていましたが、今日は申し上げます。殿下はわたくしに指図する権利はございません。何かありましたら陛下を通しておっしゃって下さいませ。わたくしはデーンをより良くする為にこちらに嫁いできたわけで、決して殿下のとんまなお人形になる為にでは…」


「ま、待て、ベア。言い過ぎ…」


 広場の兄妹を思って熱くなったベアトリクスだったが、すぐに後悔した。

 ヴァルデマーが今までにないくらいに落ち込んでいたからだ。緑の瞳が今にも泣き出しそうで、ベアトリクスは大泣きしたヨアンを思い出した。


「で、殿下…あの…」


「…俺が口出しし過ぎた」


「待てよ、ヴァル…」


 ヴァルデマーはうつむいたままで居間から静かに出て行った。残された二人は気まずそうに顔を合わせた。

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