16.「あそこがわたしの生きる場所、わたしの人生……わたしそのものだから」

 菜々をこっそりこの別荘に連れてくるのは2度目だった。密会……という認識は自分だけなのだろうが。


 それはともかく今日は事情が違う。菜々の制服のスカートに発信機をつけていた優雅は、彼女が黒木兄弟の家に行っていたのも知っていた。そして見張っていると、菜々がすごい形相で飛び出してきて––––何かあったのだと悟った。


 とりあえず何も知らないふりをして、いつものように紅茶とお菓子をご馳走する。


「今日はちょっと甘め、バニラティーだよ。たっぷりのミルクと一緒に、どうぞ」

 〈ありがとうございます〉


 愛想笑いし、カップに口をつける菜々。一度目に混ぜていたのと同じ睡眠薬を盛られた紅茶を、菜々はそれと知らずに味わう。


「でさ……どうしたの。何があったの。僕でよかったら、話してくれるかな」

 〈なんでもないんです……その、本当になんでもなくて〉


 俯く菜々がかすかに震えているのに気づき、優雅はため息をついた。相当怖い思いをしたに違いない。あいつら、この子に何を––––


「安心して。僕が言えた台詞じゃないけど、僕は君の味方だから。味方でいたいから……」


 隣に座り、そっと頭を撫でる。瞬間、菜々の肩がびくりと大きく震えた。


「……大丈夫、僕を信じて」


 可哀想になって、今度はその肩を抱こうとした瞬間。

 優雅の手は思いっきり跳ね除けられた。身構える菜々のその目には涙が浮かんでいる。


「菜々ちゃん……?」


 菜々にこんなふうに拒絶されたのは初めてだった。いつもふわふわしていて、どんな人が相手でも距離が近くて、こちらが不安になるくらい警戒心がなくて……そんな菜々が、自分のことを拒絶した。こんなにもはっきりと……


 〈ごめんなさい、わたし〉


 少しして我に返ったらしい菜々がスマホを持ち直し画面を向ける。


「ううん、大丈夫。……あのね、僕、実は見てたんだ。君が黒木兄弟のアパートから出てくるところ……だから心配になって連れてきたんだ。あいつらに何かされたのか?」

 〈言われました〉

「何を?」

 〈……言えません〉

「ははっ、そっか。……まあいいよ、言えないなら言えないで。ただ何を言われたとしても、君は悪くないし、あいつらの言うことなんて気にしなくていい。だってあいつらは」


 あの本と時計のためなら、君を誘拐して脅せ、二度と立ち直れなくなるくらいズタボロにしろ、だなんて平気で言えてしまうような人だから。


 そう言おうとしたのをすんでのところで我慢した。これを言ってしまうと、おそらく菜々を傷つけてしまうことになる。


 少し悔しいけれど、今の彼女はきっと、チャットメンバーの中で黒木兄弟をいちばん信頼しているのだろうから。それがあの兄弟の思惑通りだったとしても……。それに今彼女が変に黒木兄弟のことを避けてしまうと、もっと面倒なことになりそうで。


 彼女をなるだけ傷つけずに安全に守る。そのために彼女に発信機までつけたというのに……


 〈何もされてないです。優しかったのに、わたしのためを思って言ってくれたのに……それなのに逃げ出しちゃって。リョウさんたちの優しさが、笑顔が、なんだか怖くて〉

「そんなヤバい顔してたのかあいつら」

 〈いえ……勘違いだとは思いますけど。……あとはその、背中を撫でてもらってたら、なんか苦しくなっちゃって。二人とも優しかったし、わたしもなんでかわからないんですけど。それで逃げてきちゃって……〉

「ああ……ごめん。僕のせいだね」

 〈……?〉


 本当にわからないといったふうに首を傾げる菜々。そして眉をハの字にして、


 〈優雅さんは何も悪くない〉

「……あのさ、トラウマって知ってる?」


 言いながら、思った。確信犯だと。真夏を唆して菜々を傷つけさせたのは他でもない、あの兄弟だ。そして上手いこと言って自分に手伝わせたのも……いや、手を貸した自分も悪い。まあとにかくあのふたりはあの日何があったかも、それによって彼女がトラウマを負ったであろうことも知っていて、それを利用したのだ。そしてその行動の原点は恐らくあの本と時計。彼女を従わせ、時計を手に入れるためで––––


 〈大丈夫です。ほんとに優雅さんは何も悪くないから〉

「いや、そうは思えない。……決めた、僕、自首するよ。もちろん真夏のことも話す。そうしたら君も堂々と病院なりカウンセリングなりに行ける。……加害者側の僕がこんなこと言うのもなんだけど、君には心のケアが必要だよ。それだけのことをしてしまっているから、僕は……いや、僕らは」


 菜々はきょとんとした顔で優雅を見つめている。これでもわからないか、と優雅はため息をついた。ただでさえ正義感の強い優雅にとって、自分の罪を認めた上に言葉で説明するだなんて地獄のようだった。


「あのね、僕だって罪悪感で潰されそうなんだ、毎晩毎晩……君も夜桜屋がどうとか言ってる場合じゃない」

 〈だめ!それだけは絶対に〉


 血相を変えてスマホを投げ捨て、手話で訴える菜々。


 〈絶対にやめて!〉


 瞬間、ふわっとシャンプーの香りがして––––


「……菜々ちゃん」


 抱きしめられたまま、彼女の名前を呟く。


 〈優雅さんがいなくなるのは嫌だ。それにわたし……ただ捕まりたくないからダメって言ってるわけじゃないの。何があっても、夜桜屋だけは捨てたくないの。捨てられないの、絶対に。あそこがわたしの生きる場所、わたしの人生……わたしそのものだから〉

「菜々ちゃんそのもの……」


 繰り返して呟く。彼女の愛情や情熱は、どうしようもないほどまっすぐに歪んでいた。


 〈優雅さんたちのせいですからね?わたしがそれに気づいてしまったのは、優雅さんたちのせいだから。……大学で心理学勉強してるんでしょう。それならわたしのこと診てよ。わたしと同じ世界で、同じように苦しんでよ。最後まで、一生、わたしをこうした責任とってよ……!〉

「わかった……わかったから!」


 彼女の想いがひしひしと伝わってくる。どんなに大きな声で言われるよりも力強く。


「ごめん、菜々ちゃん」


 抱きしめ返すと、彼女がまだかすかに震えていることに気づく。小さな子供をあやし寝かしつけるように、背中をとんとんと叩いていると、やがてすうすうと寝息が聞こえてきた。薬が効いてきたのだろう。安心感というより、強制的なもの。


 最後まで、一生、と菜々は言っていた。それがどういう意味か、彼女はわかって言っているのだろうか。


「……とってやるよ。責任」


 呟いて、優雅はそっと菜々の体を起こしソファの背にもたれさせると、するりと制服のリボンを解いた––––





 ––––菜々ちゃん。


 声が聞こえた気がして目を覚ます。瞬間、すぐ目の前に優雅の顔があって、そのあまりの近さと動揺で一気に目が冴えた。


「……っ!?」

「うわっ」


 慌てて跳ねのき後退る優雅。両手に広げたブランケットの裾を持っているところを見ると、どうやらかけてくれようとしていたらしい。


「……おはよう」

 〈おはようございます〉


 まだ回らない頭で整理する。いつものようにこっそり優雅の別荘にお邪魔して、お菓子と紅茶をと勧められて……それを食べているうちに寝てしまっていたのか。また……


 〈ごめんなさい、わたし〉

「大丈夫。……疲れてたんだよ、きっと」


 菜々の頭を撫でかけて、やめる。菜々もそれに気づいたようで、少し俯く。


「今日はもう帰りな。送っていくよ」


 気まずさを誤魔化すように、優雅は車のキーを取り出して見せた。


「もちろん今日のことも、二人だけの秘密で……ね」

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