7-2.「君の、その手で」

「あっ起きたんだ!おっはよー菜々ちゃん」


 隣に座るなり菜々の肩を抱き寄せる真夏。なんだか変にテンションが高い……気がする。


「事情は優雅から聞いてるかな?……あっだめだよ逃げたりしちゃ? 助けを呼んでも無駄だからね?変な動きしたら殺すから」


 殺す……?本気だろうか。さらりと言われても反応に困る……菜々が首を傾げていると、真夏は一度、ため息をついて。


「俺は本気だよ。……大人しくしてて、いい子だから」


 低く甘い囁き。肩から二の腕をねっとりと這う彼の指。


「ひっ」


 思わず息をのみ、ぎゅっとシーツを握りしめた。

 背筋が凍った。本気だ、と思った。明らかにいつもの真夏じゃない。声も、触れ方も––––同時に自分が置かれた立場をやっと認識できた。

 冗談でもドッキリでもない。本当にわたし、誘拐されたんだ––––。


 でも……何で?今まであんなにも良くしてくれていた真夏と優雅がどうして?パニックを起こしつつも菜々は必死に頭を回転させた。自分の家は特にお金持ちでもないので身代金目的というのも考えられないし、何もきっかけがない……はず?


 そこまで考えて、菜々は前に見たホラー映画を思い出した。思い出して……なんだかすごく、腑におちた。

 そうだ、何もきっかけがないのに誘拐なんて、ふたりとも悪霊に取り憑かれたに違いない!


 そこからの菜々の動きは素早かった。枕元、ベッドサイドの机に腕を伸ばしファブリーズを手に取ると、それを隣の真夏に向けて思いっきりレバーを引いた。


 ––––悪霊退散!悪霊退散!悪霊退散!悪霊退散!


「うわっちょっちょっ待って!?やめろ!やめろってうわあああっ」


 心の中で『悪霊退散!』と叫びながらファブリーズを噴射しまくる。確かこれには除霊効果があるとかいう噂があったはず……。真夏も悪霊に取り憑かれた訳ではなかったのだが顔にまともにファブリーズを浴びて全力で逃げてしまう。


「どっどういう展開!?ええと菜々ちゃん!?落ち着いて、菜々ちゃん……!?」


 慌てて止めに入る優雅。彼にもファブリーズを向けようとしたところで押さえ込まれてしまう。握っていたファブリーズを奪われ、動きを封じられて初めて我に返った。


 〈ご、ごめんなさい!わたしを誘拐だなんて、真夏さんがとうとう悪霊に取り憑かれてしまったのかと思ってつい……わたしは殺されますか?〉

「反応が予想の斜め上すぎて殺す気失せたわ!」


 顔を服の裾で拭きながら叫ぶ真夏に、菜々はばしんっとシーツを叩いて。


 〈やっぱり最初は殺す気だったんですね!わたしはまだそちらには行きませんよ、悪霊!〉

「悪霊じゃない戸川真夏だ!てかなんかめっちゃいい香りするんだけどこれは」


 Tシャツの裾で顔についた液体を拭う真夏に、平然と答える優雅。


「あー、ローズの香りだよ。いいっしょ」

「いいけどさ……いやいいけどさ……!?顔面からローズの香りがするとか……なんだこれは……ねえちょっと顔洗ってきていいかな?」


 もう突っ込む気力もない。と、菜々が真夏の肩に手を置き、頬のあたりにすっと顔を近づけてきた。シャンプーだろうか、それとも柔軟剤だろうか……ふわっと別の甘い香りが真夏の鼻をくすぐる。


 一瞬だけ––––もちろんそんなことあり得ないってわかっているけれど––––キスされるのかと思ってしまった。距離があまりにも近すぎて。


「ちょ……菜々ちゃ」

 〈ほんとだ、薔薇だ!いい香り!〉


 ふふっと微笑む菜々。解かれた長い癖毛がふわりと揺れる。どこまでも無邪気な笑顔……真夏の動揺なんて気にも留めていない様子だ。


「そんなにいい香りなら……顔洗わない方がいいかな、これ。なんか地味にピリピリしてきたんだけどさ……」


 真夏が菜々の頭を撫でようとした瞬間、弾かれたように彼から離れる菜々。わなわなと震えながら涙目で。


 〈で、でも悪霊だから……!いい香りの悪霊だから……!いい香りだと思ってぎゅってしてたら取り憑かれて殺されるってオチだから……!〉

「あああもうだから悪霊じゃねえって!!!!!戸川真夏だ!!!!!戸川!!!!!真夏!!!!!」

 〈わたしは騙されませんよ!?お祓いに行くまでは信じませんから!!〉

「お祓いとかいかねえし映画の見過ぎだって!」


 じっとりと疑いの目で真夏を見る菜々と前のめりになって否定する真夏。菜々は本気で怖がっているようだが……誘拐犯とその被害者のはずがなんだかすごい構図になってしまっている。


 これはコントかなにかだろうか。吹き出しそうになりながらも、優雅は「まあまあ」とふたりをなだめる。


「安心してよ、真夏が菜々ちゃんのこと殺すわけないでしょ。真夏もさ、せっかく水持ってきたんだから飲ませてあげなよ」

「そ、そうだね……。あー、やっぱりちょっとやそっとの脅しじゃ菜々ちゃんには効かないなー」


 優雅に頭を撫でてもらいながら、真夏からペットボトルを受け取る。からからに乾いていた喉が潤っていく。一体自分はどのくらい眠っていたのだろうか……


「そういえば菜々ちゃん。ここに来るまでのこと、どこまで覚えてる?」


 どこまで……そう言われてはっとした。なにも覚えていない。思い出せないのだ。

 真夏と一緒にお祭り会場から歩いたことは覚えている。しかしそれ以降の記憶がないのだ。どうやってここに来たのか、その記憶が完全に抜け落ちている。


 それをメモ帳に打ち込んで伝えると、真夏は満足そうに笑った。


「優雅に会いに行く前、菜々ちゃんにソーダあげたじゃん。あれ、睡眠薬入れてたんだよ。覚えてないのはそれの副作用。まあこっちとしては狙い通りなんだけどね」


 衝撃だった。変な味もしなかったし普通のソーダだったのに……。そしてやっと先程の優雅の発言の意味が理解できた。変なもの飲ませちゃった、というのは恐らくこれのことだったのだろう。とりあえず麻薬とかそっち系じゃなくてよかった。


 〈全然気づかなかった〉

「あはは、そうだろうね……でもまさか君ほどの人間が、出されたジュースをなんの疑いもなしに飲むなんて驚いたよ。屋台のジュースだよ、未開封が確認できるペットボトルじゃない。どうして疑わなかったの?」


 ニヤリと笑う真夏。どうして疑わなかったのか……菜々は一寸の迷いもなくキーボードを叩いた。

 

 〈真夏さんのことも優雅さんのことも信用してるから。そんなこと、考えもしなくて。好きだから〉


 一瞬、真夏がぽかんとした顔になった。それからふっと笑って、菜々の頭を撫でる。


「この状況でそんなこと言って貰えるとは思わなかったな。……ありがとう」

 〈こちらこそ。……でも、君ほどの、って?〉


 自分はそんなにしっかりしているように見えただろうか。というより出された飲み物を疑うなんて、信用してるとかしてないとか以前に映画の世界じゃあるまいし……


「だってこんなに軽々と誘拐されちゃってさ。もっと気をつけないとダメだろ。君は知りすぎているのだから」

 〈知りすぎて?……私は何も〉

「俺はちょろいからね、さっきの君の言葉がうれしくてちょっとだけ良心が芽生えたから初めに少し説教させてもらうよ。……君に近づいて来る人、いや近づいてこなくても、全てを疑え。人間不信でちょうど良いくらいだ。君は絶対的な権限を持ち、多種多様な情報を知り得る……管理している立場なのだから」

 〈情報を管理?〉

「それは君が一番よく知っているはずだよ。ねぇ菜々ちゃん……いや、ケイちゃんって呼ぶべきかな?」

「……!!?」


 ドクン、と心臓が大きく脈打った。どうしてそれを––––その名前が、どうして今––––


「君、夜桜のKeiちゃんだよね。玲香ちゃんがRuiでしょ。……まあ重要なとこはそこじゃない、俺らも確信持って言ってるから。認めて欲しいわけじゃないよ。それは前提、本題は別にあるんだ」

 〈な、なんですか〉

「お、いいね。本当に否定しない」

「……?」


 震える菜々を可愛がるように頬を撫でる真夏。そしてその手でそっと頤を掬い上げ––––菜々の目をしっかりと見据えたまま、ニヤリと笑った。



「夜桜屋を潰せ。……君の、その手で」

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