9-2.「"知っているからこそ、壊せると思うの。世界でいちばん、私が"」
「もうやめろ真夏!」
咄嗟に真夏の手を掴んでいた。怯えきった少女を思い切り殴ろうとしていたその手を。
「……優雅?」
「お前正気か?いや正気じゃないからこんなことしてんだろうけど!」
菜々にしたことは普通に法律に引っかからないだろうか。さっきも殴る気満々だったが、怪我はさせない方針でいくのではなかったのか。まあそもそもここに連れてきた時点で拉致監禁でアウトなのだけれど……
「……とにかくこれ以上はやめろ!流石に可哀想すぎるだろ。真夏はやりすぎなんだよ、ここまでするなんて聞いてなかったし……もう無理だって、僕も。これ以上この子を傷つけるのは、僕が許さない」
それから優雅は虚な瞳で空を見つめている菜々の顔を覗き込んだ。
「僕らさ……かなり脅してるよ、君のこと。酷いこと言ってるししてる自覚もある。でもさ……無理だよ、普通。何でそこまで耐えられるの?」
「……?」
「菜々ちゃんも玲香ちゃんも、まだ中学生じゃん。あのサイトだって1年と少し前だから、小学校を卒業した後にできてるんだよね?ってことは夜桜屋のこと始めたのは小学生のときってことだよね。……だから正直、君がここまで持つと思わなかった」
優雅の言いたいことが分からなくて、菜々は目をぱちくりさせて彼を見つめた。少し間を置いて、優雅はまだ続けた。
「なぜそこまでして夜桜を?そこまでの覚悟があったわけでもないだろ?正直遊び感覚で始めたのかと思ってたけど……それでもサイトを閉じないのか?夜桜を庇うのか?」
沈黙が続く。誰も、何も喋らない、動かない。
破ったのは菜々だった。優雅から目を逸らしてため息をつき、どこか自嘲的に薄く笑う。体を起こすとぼさぼさになった髪もそのままに、菜々はまだ震える手で、それでも迷わずキーを叩いた。
〈庇います。そこまでの覚悟がわたしにはあるから〉
「……えっ」
〈夜桜はわたしと玲香ちゃんを繋いでくれた大切なもの。わたしと玲香ちゃんの、ふたりだけの居場所、ふたりだけの世界だから〉
「ふたりだけの世界……?」
〈あの夜、あの桜の夜……玲香ちゃんと約束したんです。絶対裏切らないって。あなたと夜桜に一生をかけるって……一蓮托生でいるって。玲香ちゃんのこと、大好きだから。だからわたしは……夜桜と玲香ちゃんを守れるなら何をされても、今ここで真夏さんたちに犯されても殺されても、いいと思うの〉
「いやだめだって!でも中学……じゃないな、実質小学生でそこまで……?」
〈そうです。わたしは小学6年の春、人生を決めたことになります。1年かけて準備しました。きっとわたし、覚悟だけは玲香ちゃんよりありましたよ。それに、いつかこうなることも想定はしていた。……だから〉
「でもさ、やってることは犯罪だよ、菜々ちゃん……」
ふう、と息をつき、菜々は泣きそうになりながら、また手を動かす。
〈わかってます。全部わかってます。いけないってことも、だからこそ楽しいってことも……でも楽しいからってだけの理由でやるんじゃない。わたしは玲香ちゃんと過ごすあの時間が大好きなんです〉
ただひたすらにキーボードを叩き続ける。玲香への想いを、夜桜への思いを、ただひたすらに、止めどなく。
〈真っ暗な部屋で、でもモニターからの光でぼんやりと明るくて。空調は寒いんだけど隣には大好きな玲香ちゃんがいて、あったかいんです。ふたりで秘密を共有して、楽しいねって笑って、うまくいったらハイタッチして。不可能を可能にする優越感といけないことしてるって背徳感にどっぷり浸って、ふたりどこまでも落ちていくんです。そこがわたしたちの居場所……ああやっぱり〉
唇を噛んだ。やっぱり玲香のことを裏切るなんて……でも……でも……
––––もうどうにでもなれ!!!
菜々の中で、ぷつりと何かが切れた音がした。
優雅が着せてくれたパーカーに袖を通し、パソコンの前に座り直す。
「やってくれるの」
ニヤリと笑う真夏に、菜々は肯きキーボードを叩いた。
〈やります。……やればいいんでしょ〉
つまり、グレーボックステストのようなものだ。ある程度向こうの情報がわかっている上での、実践。
真夏に視線を向ける。睨むように、それでいてしっかりと意志のこもった目で彼を見つめる。瞬間、明らかに菜々のオーラが変わった。大人しい引っ込み思案の菜々でなく、人格が入れ替わったような。優雅はもちろん、真夏でさえ背中がぞくりとしてしまうような……
「……菜々ちゃん」
真夏を無視してきょろきょろと周りを見渡す。菜々の持っていた手提げが本棚の横に置いてあることに気がつき、それを指さした。
〈あの中のピンクのポーチを〉
「わ……わかった」
真夏がポーチを取ってきてくれると、菜々は堂々とそれを開いた。ハンカチやら薬やらお化粧道具がごちゃごちゃと詰まっている。真夏も優雅も女の子のポーチをまじまじと見たことがなかったので少し罪悪感を感じつつ目を逸らした。が、そんなことは気にせず菜々は中から口紅を取り出した。有名なブランドのロゴが入っている。本気でネカマをしていた真夏には、それが所謂デパコスであることがわかった。ちょっとお高くていいコスメ。
「……リップ?」
ぽかんとしている優雅にポーチを押し付けると、菜々は口紅の蓋を取った。くるくる回して出てきたのは……
「USB!?」
〈本物のリップを使い切った後に改造しました〉
「待って、それは何の……」
〈変なものじゃないから安心してください〉
慌てるふたりを余所に少しパソコンを操作した後、菜々は問答無用でそれをポートに挿しこんだ。黒い背景に白い文字、いつもの起動画面……でも今日は隣に玲香はおらず、代わりに真夏と優雅が興味津々と言った様子で画面を覗き込んでいる。
〈お守りがわりなんです。自分は夜桜のKeiだって思うだけで勇気が出るから……。これ持ち歩いてること、玲香ちゃんには秘密ですよ?〉
そう、本当は持ち歩いてはいけないものだった。自作ツールが入ったUSBなんて、それも玲香と一緒に作ったものを自分流に少し改良したものだなんて……。落としたり、いざというときに見つかったら大変だ。
それでも、お守りだったから。自信が持てる、自分を強くしてくれる、お守りだったから。
ユーザーネームとパスワードを入力し、菜々は慣れた手つきでターミナル、ブラウザ、それからメモ帳を開いた。
〈これからはこちらのメモ帳で会話させてください〉
「……オーケー。ねえ、今なにやったの?それ何のアプリ?」
〈アプリじゃないですOSです。これはLive USBっていって、OSを起動できるUSBなんです。LinuxだからWindowsとはちょっと違いますけど、とにかく変なものではないですから〉
「へえ……まあいいや、聞いといて何だけど俺そういうのわかんないからさ。それよりやばいんだけど。生ハッキングとか初めてだわ……よくわからないけどツールとか使うの?」
〈そうですね……ツールの名前と大体の操作方法、コマンドは覚えてる。あと夜桜……こちら側で考えたやつもありますよ〉
「すごいな……やばいやばい」
真夏が興奮している間にも、菜々は高速でキーボードを叩いていく。
開き直ったわけではない。限界だったのだ。正気を保っていられるわけがなかった。極限状態に陥った菜々はただただ無心でPCを操作していた––––強いていうならば夜桜を叩きのめすという目標だけを頭の中に置いて、それしか考えられないように、他の全てをなるだけシャットアウトして。
〈じゃあ、始めますね。……本気で、殺しに行きます〉
山口玲香––––夜桜ルイ。私は彼女のことが好きだ。誰よりも愛している。
小学生の時、出会ったあの日から、私はあなたのことをずっと見てきた。ずっと一緒にいた。愛してきた。
だからね、私の最愛のパートナーさん。私はあなたのこと、世界でいちばん知っていると思うの。……知っているからこそ、壊せると思うの。世界でいちばん、私が。
いつの間にか罪悪感が消えていることに菜々は気付いた。楽しいのだ。彼女の考えていることが手に取るようにわかる。どこを攻めたらいいのか、どこに罠が仕掛けてあるのか。どんな妨害をしてくるのか。
––––わたしだって、伊達にあなたの相方やってないわよ。
キーボードを叩きながら、思わず笑みがこぼれた。自分はこの時を待っていたのだとさえ思えてきた。狂っている。笑いながら、菜々は涙をこぼした。あなたを攻略できることが、ただただ嬉しい。あなたが好き。大好き。愛してる。ああ、もう自分の感情がわからない––––
「菜々ちゃん!もうやめて!」
その声とともに肩に手が置かれ、手首を掴まれる。菜々ははっと我に返り振り返った。
「もうやめなよ。やらなくていいよ。もう僕、見てられない」
「おい優雅」
「夜桜がなんだっていい、この子が何者でも僕は気にしない。この子にここまでの覚悟をさせたものを壊す必要はない、壊させちゃいけない。この子の夢を邪魔していい権利なんて僕たちにはない!なあそうだろ真夏!」
後ろから腕ごと抱きしめられる。まるで真夏から菜々を守るように、そしてもうこれ以上ハッキングはさせないとでも言うように。
「菜々ちゃん。それ、動いてるやつ……止めて」
少しの間の後、優雅がそう言って菜々を抱きしめる腕を緩めた。攻撃用のプログラムを稼働させたままだったことに気づき、でも真夏のことを気にして動けないでいると。
「早く!」
優雅の大きな声に菜々はびくっと肩を震わせ、慌ててキーを叩き強制終了させた。怯える菜々を優雅が再び抱きしめる。
「ごめんね。ありがとう、菜々ちゃん……」
しばらく真夏は黙っていた。菜々を庇うように抱きつつ真夏を睨みつける優雅と、その腕の中で涙目ながらもぼうっと脱力している菜々を交互に見て––––
––––と、そのとき。
ぴろん。
真夏のスマホが、チャットにメッセージが届いたことを知らせる音を立てた。
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