0-2.「今回は見て見ぬ振りしなかったんでしょ」

 学校から歩いて約5分。家に帰ると、看護師の母親である文乃が帰ってきていた。夜勤帰りだろう。少し面倒だが仕方ない。


「ただいま」

「お帰り……ん?その子……」

「あーこの子、織野菜々ちゃん。ほら、前に言った転校生」

「わかるわかる……えっ、菜々ちゃん。菜々ちゃんだよね」


 座ってコーヒーを飲んでいた文乃が立ち上がる。後ろで菜々も驚いている。


「え、知り合い……?」


 予想外の状況に玲香も目をぱちくりさせた。どういうことだろう、文乃に菜々の話は一度もしたことがなかったはずなのだが……


「久しぶり!元気にしてた?」


 うなづく菜々。無表情に近いんだけど、心なしか少し嬉しそうに見える。


「よかったよかった……あ、菜々ちゃん、うちの病院にいた子でさ。たまに会ったら話してたんだよね。織野さんのお母様とも同じ病院に勤めてるんだけど、そこそこ話したことあるんだよ。ただ時間が合わなくてあんま話せなくて……退院して学校に通えるようになったとは聞いてたけど、玲香と同じ学校だったんだね。織野さんち知らないし、近くにもっと大きい小学校あるからてっきりそっちだと思ってたわ」

「え……ええ、まじか」


 そういうことだったのか。こちらも菜々が入院してたことは知ってたけどまさか親の勤務先の病院だったとは。驚いた。


「で、玲香。なんで菜々ちゃんをうちに?まだ学校終わってないはずだよね。玲香が一人で抜け出してくるのは勝手だけど、他の友達を巻き込むのは……」

「巻き込んだわけじゃないよ。あと今日ついさっき仲良くなったの。とても教室に帰れる雰囲気じゃなかったから連れてきた」


 その一言で、文乃は何か察したらしかった。そう、なるほどね、と微笑んで、先ほどコーヒーを飲むために沸かしたばかりであろうお湯を使って二人分の紅茶をいれてくれた。


「じゃあまあ、ゆっくりしていってね」

「……ありがと」


 玲香が笑うのと一緒に菜々も小さく頭を下げた。

 菜々を自分の部屋まで案内してから、紅茶をお盆に乗せて部屋まで持っていく。カーテンを閉め切った真っ暗な部屋。間接照明の明かりをつけると、オレンジの光が薄明るく部屋の中を照らし出した。パソコンやベッド、壁にかけてある服など、菜々は部屋の中を興味津々に見回していた。


 〈すてきなお部屋ですね〉


 メモ帳をこちらに向ける菜々。


「ありがと。散らかり過ぎてるから本当はもうちょっと片付けたいんだけど」

 〈パソコンかっこいい〉

「あーあれ。光ってるのいいでしょ。てか電源入れっぱなしだったの忘れてた……」

 〈いいな、かっこいい、わたしもほしい〉

「光るやつ?」

 〈ニックネームください〉

「……えっ?」


 突然あのことにびっくりして紅茶を飲んでいた手を止める。目の前の菜々ははにかみながらメモを持っていた。


「ニックネーム……?いいの?」


 うなづく菜々。


「うーん私ネーミングセンスないからな……普通に菜々ちゃんとか」


 ぱああ、と菜々の顔が輝く。可愛い。


「じ、じゃあさ。私のことは玲香で」

 〈れいかちゃん〉


 メモ帳に書いて笑って、それから欠伸をする。眠いのだろうか、確かに今日は色々大変だったし少し休ませてあげてもいいのかもしれない。


「ええと、ちょっと寝る?そこのベッド使っていいよ」

 〈いいの?〉

「もちろん。疲れたでしょ。私も隣で寝るから」


 菜々を先に寝かせて、後から自分も布団に潜り込んだ。何の音もしない、ふたりだけの静かな部屋。近距離で見つめあうような形になる。玲香はたまらず菜々の頭を撫でた。安心したのか微笑んでそっと目を閉じる菜々。ああ本当に可愛い……なんだこの生き物はってレベルに可愛い。


「……玲香ちゃん」


 その声に目を見開いた。囁き声のように小さかったし掠れていてほとんど聞き取れなかったけれどそう聞こえた気がした。そしてその声は絶対的に目の前の少女から発せられたもので……


 眠ってしまった菜々を、玲香はしばらく抱きしめていた。




「……それにしても菜々ちゃん、いじめられてたのか……玲香の次のターゲットにされてたんだね。あの子なかなかそういうの言えないと思うからさ、助けてくれてありがとう。玲香よくやったよ。偉いよ」

「ずっと見て見ぬ振りしてきたけどね」

「今回は見て見ぬ振りしなかったんでしょ」


 菜々が眠っている間、玲香はそっと布団を抜け出して、文乃に菜々をここに連れてきた経緯を話していた。


 文乃はすぐに菜々の母親に連絡をとってくれて、全ての事情を話し、いじめのことは知らなかったことにしてほしい旨も話した。そのかわりさりげなくサポートしてあげてほしいということと、菜々に玲香の家の合鍵を渡していつでも来たり泊まったりできるようにしたいとお願いした。玲香の家が学校から近いこと、今の菜々には玲香が唯一の味方であり友達だということを理由にして。


 菜々の母親は菜々に友達ができたことを喜び、シングルマザーのため菜々をずっと家に一人にするのを不安がっていたこともあり友達の玲香と一緒にいれるならとOKしてくれた。


 文乃曰く、彼女の母親は仕事がうまく行っておらず、加えて自分の子供が病弱で、ひとり親で誰も頼れなくて、少し病んでいるようだったとのことだった。母親のためにも菜々のためにも、菜々をうちで預かった方がいいと判断したらしかった。


 それから玲香は文乃から菜々の声のことについても聞いた。筆談をしているが全く声が出ないわけではなく、一応喋れるが小さくて掠れた声になってしまうらしい。本人も大変だし何度も聞き返されてしまうため、便宜上筆談という手段を取っているのだそうだ。


 手話は菜々が入院していた頃、耳の不自由な友達と関わるうちに習得したらしいとも聞いた。わかる人相手であれば手話の方が、メモ帳やスマホに文字を書く手間がない分ずっと話しやすいとも言っていたそうだ。


「あの子たちのお陰で私も簡単な手話ならできるようになったのよ。菜々ちゃんの手話を私が読み取って口頭で返事するってこともしばしばあったわね。私が忙しい時とか、距離が離れてて筆談が難しいときとか、簡単な挨拶だけだったりとかの時に」

「すごい……お母さんいつの間にそんな」

「ふふっ、玲香も手話勉強してみたら?菜々ちゃんと仲良くするならできた方が便利なこともあるだろうし、まぁ損はないわよ。……あっ菜々ちゃんに合鍵渡さなきゃ。確かキッチンの引き出しの中にあったと思うんだけど……」


 文乃がキッチンを探していると、遠くでガチャ、とドアの開く音がした。振り返ると菜々が立っていて首を傾げてこちらを見ていた。もう起きたのか、と思って時計を見て驚いた。文乃と話している間に1時間も経っていた。


「菜々ちゃんおはよ。……ええと、もしかして今の話聞いてた?」


 慌てて聞くと首を振る菜々。良かった、聞かれてはいなかったらしい。いや特段聞かれて困ることを話していたわけではないのだが……隠していたであろういじめのことを菜々の母親に伝えたこととか、仕事や菜々の病気のことが原因で母親が精神的に病んでいたことを知られなくて良かった。


「あっ菜々ちゃん!おはよう、ちょうどよかった。いつでもここに来れるように合鍵を渡しとこうと思うの。……あああった、はいこれ」


 ぽかんとしている菜々の手に鍵を握らせる文乃。


「今日からここに来るのも泊まるのも自由だからね。私が仕事に行ってる間もここにあるものは自由に使っていいし、冷蔵庫の中のものも食べていいから。何がどこにあるかとかは玲香に聞いて。お母様には言ってあるから、自分の家だと思ってリラックスしてね」


 いつでも来ていい、泊まるのも自由。それを聞いた菜々はぱあっと瞳を輝かせて頭を下げ、にっこりと笑った。


「いいのよ。……あっもうこんな時間!ゆっくり話したいんだけど、ごめんね、夜勤だからもうそろそろ出なくちゃいけなくて。玲香、菜々ちゃんをよろしく」

「あ、うん。行ってらっしゃい」


 椅子の横に準備していた鞄を手に、文乃は足早に玄関へと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る