19.「ふたりで物語を終わらせよう」
その日の下校は、菜々が通院日だと言って途中で別れた。ひとりで家に帰った玲香は文乃がいないことを確認すると自分の部屋に向かい、パソコンの電源を入れた。
見ていたのは夜桜屋のサイト。幸いなことに今のところ自分たちへの依頼は来ていないが、書き込みの方は活発だ。
––––このまま夜桜を続けてもいいのだろうか。
最近そればかり考えている。菜々には続けると言ってしまったが、正直玲香はもうやめてしまいたかった。菜々を傷つける要因となるものは全部排除したかったし、全部投げ出して楽になりたかった。
今ここでなんの予告もなしにサイトを閉じることができたらどんなに良いだろう。そう思いながらキーボードに手を置く玲香の目に飛び込んできたのはきらりと光る銀色の指輪。あの夜、夜桜のサイトが完成した時の。菜々にプロポーズした時の。永遠を誓った時の––––
「ああああああっ!!!!!」
誰もいない、真っ暗な部屋で玲香は叫んだ。
自分だって夜桜がなくなるのは寂しい。でも……でも。
瞬間、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。一瞬菜々かと思ったが、彼女ならインターホンを鳴らさずとも合鍵を使って入ってこれる。
「はーい」
とりあえずPCにロックをかけ、玲香は玄関へと急いだ。ドアを開けるとそこにいたのは––––
「……真夏さん?」
「玲香ちゃん、お久しぶり。……菜々ちゃんを送り届けにきた」
真夏の後ろからひょこっと顔を出すのは少し困った顔の菜々。玲香は真夏を睨みつけた。
「どういうことですか。接近禁止令でも出さないとわかりませんか」
「ちょっと話したいことがある。……菜々ちゃんの時計と、本のことで」
「もういいです帰ってください!菜々ちゃんに近づかないで!」
〈違う、真夏さんはわるいひとじゃないの〉
菜々のスマホの文字を見ても、玲香は納得できなかった。というか菜々は病院に行っていたのではなかったのか。
「菜々ちゃん、昨日は通院日って言ってなかったっけ」
〈ごめんなさい、それは嘘。優雅さんに会おうとしてたの、話があるって言われて〉
瞬間、玲香の頭の中でぷつんと音がした。
「……は?どういうこと?」
菜々の顔から笑顔が消える。
〈違う、心配させたくなかったから〉
「私はこんなにも心配してたのに!ずっと悩んでたのに!なんでそれがわかんないわけ?菜々ちゃん守れるのは私しかいないんだよ!?」
〈玲香ちゃん、違うの、〉
菜々は今にも泣きそうな表情をしている。でもそんなことはどうでもいい。
「私がどんな思いでいたのかも知らないくせに!!」
ああ、彼女を監禁しておけばよかった。手錠と足枷つけてベッドに縛り付けて、もうどこにも行けないように、誰にも触れさせないように、自分だけのものにしてこの部屋に閉じ込めておけばよかった。
「夜桜のサイトは消しとくから。……もう帰って」
〈まって、どうして……!〉
「ちょ、玲香ちゃん!」
涙目の菜々と焦る真夏を無視してドアを閉める。鍵をかけて、さらにチェーンもかけて。これでもう誰も入ってこれない。完全に、ひとりだ。
ドンドンとドアを叩く音が聞こえる。もういい、全部なくなっちゃえばいい。玲香は耳を塞いでその場に泣き崩れた。
幸いなことにその夜、母親は夜勤だった。
家に帰った菜々はひとり自分の部屋に閉じこもり、横になってぼうっと天井を見つめていた。
どんな理由があれど、自分は玲香を裏切った。
チャット仲間にはもう会うなと言われていたのに、会う約束を受け入れようとしてしまっていた。真夏に声をかけられても、普通に受け答えしたしここまで送ってきてもらってしまった。
そこまで考えて、菜々は目を閉じた。
全てを失った。玲香も、夜桜も。
泣く気力さえ失われていた。菜々はスマホを手にとり、チャットを開くと優雅に電話をかけた。
3コールくらいで優雅は気づいてくれたようで、電話は切れた。すぐにチャットが送られてくる。
〔どうしたの?〕
〔行けなくてごめんなさい〕
〔ああいや、大丈夫だよ〕
〔玲香ちゃんを裏切ったんです。大切なもの全部失いました。死ぬ前に慰めてくれますか〕
〔死ぬなんて言わないで!僕にできることならなんでもするよ。いまから御井豆大橋の前のベンチのとこまで迎えに行くから、話せる?〕
〔わかりました、すぐ向かいます〕
スマホをロックして外に出る。何も考えられないまま、菜々はただ歩いた。強い西日の中にいるはずなのに、寒くてふらふらする。水も飲んでないし何も食べてないからだろうか。
やっとのことで集合場所にたどり着くと、既に優雅の白いベンツが止まっていた。
菜々に気づくと優雅は外に出て、助手席のドアを開けてくれた。エスコートされるままに車に乗る。優雅が運転席に回り、ドアを閉めた途端抱きしめてくれた。
「よかった無事で!……何があったの」
〈玲香ちゃんに嘘ついちゃったから。チャットメンバーにはもう会わないでって言われてたのに〉
「……うん」
〈それで玲香ちゃん怒って、帰ってって言われて、夜桜ももう消すって言われて〉
「……うん」
〈全部なくなった。わたしが大切にしてたもの、一気に全部なくなった。……だから、〉
そこまで書いて力尽きた。スマホが手から滑り落ちる。
「菜々ちゃん?……菜々ちゃん!?」
優雅の手が汗ばんだ額に当てられる。冷たい……
「……すごい熱だ」
優雅が自分の着ていたパーカーを脱いで菜々にかけてくれる。菜々は虚な瞳で優雅を見つめた。
「大丈夫、うちに解熱剤があるから。……冷房切ろうか?」
菜々が頷くと、優雅は冷房を切ってくれた。途端に車内の温度が上がる。菜々にとっては暖かくて丁度良いが、優雅にとってはかなり暑いだろう。お礼を言いたいけど、スマホは足元に落ちてしまったし、手を動かすだけの元気もない。
菜々がぼうっとしている間に優雅は車を降りて後ろのトランクを漁る。そこから薄いブランケットを一枚取ると、寒がる菜々の体にかけてあげた。
「ごめん、少しまってて」
そう言って離れようとした優雅の服の裾を咄嗟に掴む菜々。優雅は驚いた顔をしていたが、すぐにふっと笑った。
「すぐそこの自販機に行くだけだよ」
小走りで自販機に向かう優雅。迷うことなくポカリを2本買った。車に戻るとそのうち一本を後部座席に投げ、もう一本のキャップを開けてから菜々に渡した。
「これ飲んで。水分補給は大事だよ」
お礼も言えないまま、菜々は受け取って少しだけポカリを飲む。しかしすぐに咳き込んでしまった。
このとき菜々の熱は38度まで上がっていた。走る車の中、菜々はずっと目を閉じていたし、優雅も菜々に話しかけたりはしなかった。
優雅が向かったのは桜のアパートではなく御井豆の別荘だった。アパートは住宅街にあるため、女の子を抱えて部屋に連れて入ろうものならかなり目立つだろう。それに黒木兄弟や真夏の家もある。彼らから少しでも彼女を遠ざけたかった。
家に着くとすぐ優雅は足元に落ちた菜々のスマホを広い、彼女を抱きかかえて寝室に直行した。そっと菜々をベッドに下ろすと頭を撫でる。それから菜々の首にかけてある時計を外し、棚からもうひとつの時計を持ってきて菜々の手に握らせた。
「こっちが本物だから。……じゃ、僕は薬と体温計と冷えピタを持ってくるから。あ、あと何か食べたいものがあったらいつでも言ってね」
部屋を出ようとすると、また服の裾が引っ張られた。
「大丈夫、ちょっととってくるだけ」
笑って振り返ると、菜々の虚な瞳が自分を見上げている。
「……しばらくここにいようか?」
頷く菜々。スマホを渡すと菜々はゆっくりと文字を打ち始めた。
〈ひとつ、質問してもいいですか〉
「うん。どしたの?」
それからしばらく菜々は動かなかった。枕元に腰掛けて菜々がスマホを打つのを待つ。
「大丈夫、なんでも言って」
〈優雅さんは〉
「うん」
〈その……私のことが、好きなんですか?〉
「へっ!?す、好き!?」
〈カイトさんたちが言ってました〉
その言葉で、優雅は菜々がカイトたちと話した後車に乗らなかった理由を理解した。あいつら……後で会ったらぶっ飛ばしておこう。
〈どうなんですか……?〉
「大丈夫、安心して。確かに菜々ちゃんは優しくていい子だなとは思うけど、そんな下心は持ってないよ。あんな狂ったバカ兄弟のいうことなんて気にしないでいい」
〈優雅さん……〉
ほっとして笑顔になる菜々の頭を、優しく撫でる。
〈あと、もう一つ、言いたいことが〉
「うん。何?」
〈あの、〉
そこまで書いて、ゆっくり起き上がる菜々。慌てて止める優雅を無視して、菜々は本棚に駆け寄った。先程優雅が菜々の懐中時計を取り出したところ。そこから取り出したのは、一冊の『本』。
〈これを、わたしに渡してくださいませんか?〉
菜々の体がふらりと揺れる。高熱のうえに無理をしすぎた菜々の視界はぐにゃりと歪んでいた。それでも必死に足を踏ん張る。
「ちょ、わかったから!」
慌てて菜々を支えに行く。最初の予定とは大分ずれたが、なんとかなりそうだ。
「じゃあさ、代わりに僕からもお願いしていい?」
〈はい。……本を渡してくださるなら〉
「良かった。じゃあ、その本を貸して」
本を受け取って、にやりと笑う優雅。
「どうしても行きたい場所があるんだ。もちろん君とふたりだけでね」
「……?」
「菜々ちゃんの時計を黒木兄弟から取り返してきたみたいにさ。その本も真夏から取り返してきたんだよ」
〈え〉
「気付いちゃったんだよ、その時計とこの本と菜々ちゃんがいれば全部解決するって」
〈ど、どういうことですか〉
「菜々ちゃんには僕と一緒に来てもらいます。……ふたりで物語を終わらせよう」
菜々をぎゅっと抱きしめる優雅。腕の中で小さく息を飲む音が聞こえる。
「ちょっとまって!どういうことですか!離してっ!優雅さん!?」
菜々の小さな声。聞こえないふりをして本を開く。光がふたりを包んだ。
––––数秒後、部屋には誰もいなくなっていた。
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