21.「ずっとここにいよう」
あたりが明るくて目が覚めた。
「ん……」
寝ぼけ眼の目を擦って、枕元の椅子で眠っている優雅を見る。
––––隣で寝てもよかったのに。
そう思っていると、彼の膝の上に風邪薬が置いてあるのを見つけた。
朝早く起きてどこかで買ってきてくれたのだろうか……そうだとしたら、とても嬉しい。菜々はその箱を取ると、薬を取り出してポカリで飲み込んだ。そして優雅が眠っているのを確認してからふらふらと立ち上がり歩くとそっと窓を開けた。
風が吹く。花島の海の、少し塩を含んだ風。
誘われるようにベランダに出る。それから道に咲いている桜を見下ろす。
遠くに小さく御井豆大橋が見える。
この頃から変わらないのだと初めて知った。
玲香のアパートの窓からいつも見ていた。でもここに玲香はいない。玲香だけでなく、知っている人は誰もいない。夜桜屋もない。何もない。
何も、ない––––
瞬間、暖かいものが肩に触れる。知っている体温に包まれる。
はっとして振り返る。視界に入ったのは、風に揺れるサラサラの髪の毛。
優雅だった。
「……綺麗だね」
〈優雅さん……っ〉
思わず振り向いて、彼のことを抱きしめていた。彼だけはそばにいてくれる。自分が犯罪者だと知っても、自分の持つ時計の力を知っても、下心なく。
「……ねえ。菜々ちゃんはさ、今でも夜桜屋を続けたいって思ってる?」
〈そうですね……思ってます。夜桜屋は私と玲香ちゃんを繋ぐ大切なものですから。それがなくなるなんて、私、考えられないっていうか、それに縋って生きてるとこもあるので〉
「そっか……」
〈たぶん私はこれからも、一生夜桜屋に縛られて生きていくんでしょうね。……でも、それでもいいんです。そこに玲香ちゃんがいて、同じ世界で同じ夢を見ていられるってことが、すごく幸せだから〉
“夜桜屋は––––私たちは永遠不滅だよっ!”
夜桜屋を創ったあの日の玲香の笑顔を思い出すと、思わず笑みがこぼれる。
歪んでいる。分かっている。それでもちゃんとした形のあるこの愛に、幸せに、まだもう少し浸っていたかった。
「菜々ちゃんはさ……戻りたいの?」
〈え?〉
「現代に戻りたいの?」
〈夜桜と、玲香ちゃんがいるなら〉
「……あの狂った世界に?」
正面から顔を覗き込まれてはっとする。両肩に置かれた優雅の手に力がこもる。
〈優雅さん……?〉
「帰したくない、帰さない。君を守るためだから……」
〈わたしを守る?〉
「だってさ、あの本と君のその時計を狙ってるんだよ、皆。おかしくなっちゃったんだ。それに……君だって信じていた人に裏切られて、大切なものをなくしただろ。だからそんな世界なんて捨てて……ここなら君を傷つける人もいない、僕が君を守れる、守る」
〈……あの〉
「約束して。帰ろうともしないし、帰りたいとも言わないって。僕のそばから離れないって」
〈……わかりました〉
仕方なく頷くと、優雅は微笑して。
「よかった」
全ては自分を思ってのことなのだ。菜々はため息をついて、そっと目を閉じた。
……が。
「––––!!」
はっと目を見開く。手首に冷たく硬い感触、じゃらりと鉄の音……
手錠だった。
「…………」
首を傾げる菜々。
「これでもう君は僕のものだね……はははっ」
指に引っ掛けた鍵をくるくると回しながら、優雅の優しい微笑はいつの間にか歪んだ笑みに変わっていた。菜々を軽々と抱き上げ部屋に戻り、ベッドに座らせる。
どうして。問い詰めようとしたがなにも言えない。菜々はただ目をぱちくりさせて優雅を見つめた。
「やっぱり放っておけないよ。さっきの感じだと、いきなりいなくなっちゃいそうで。……わかってくれ、君のためなんだ」
先ほどとは打って変わって、菜々を抱きしめる、その手は震えていた。
「ごめん、菜々ちゃん……本当にごめん」
今にも泣いてしまいそうな声。菜々は少しの間の後、首を振って微笑んで見せた。
「僕はスマホ買ってくるから。他に欲しいものは?どんなに高価なものでもいいから、なんでも言って」
〈……じゃあ、パソコンください。中古でも、Officeとかついてなくてもいいから〉
「パソコン?どうして、スマホ買うのに」
〈コード書きたいの。新しいツールを作りたい〉
「……君はどこまでも、夜桜屋に夢中なんだね」
優雅が悲しそうな顔をするので、菜々はいけないことを言ってしまったのかと一瞬ドキッとした。
〈優雅さん?〉
「君はもう夜桜ケイじゃない。夜桜屋なんて忘れるんだ」
〈そ、そんな〉
「いいかい、君たちのやってたことは犯罪で、玲香ちゃんは悪友だ。いけないことなんだよ。わかるね」
〈……別に夜桜屋を代表してやるわけじゃないしそもそも誰にも危害を加える気はありません。自分の環境で試すならいいでしょう?あと……死んでもふたりの夜桜屋と夜桜ケイの名前だけは手放しませんから〉
「……すぐ帰るから待ってて」
頷くと、優雅は菜々の頭を撫でて部屋を出て行った。
知っている。こんなことしても悲しくなるだけだってこと。
キーボードを叩きながら、菜々は思った。
優雅はかなりいいPCを買ってきてくれた。ゲーミング用のノートパソコンで、めちゃくちゃスペックがいい。どんなものがいいかわからなかったから、とりあえず当時にしては性能の良いものを、店員に聞いて買ってきたそうだ。こういうことができるのは、お金持ちの特権である。
それなのに全然うまく動かない。パソコンのせいじゃない、自分の書き方が悪いせいだ。いろいろ考えながら自分の書いたコードを見直しているうちに泣きたくなってきた。そもそもこれを完成させても、果たして使うことはあるのだろうか。意味のないことで悩んでいる気がする。そう、意味のないことで……
こんなの作ったら役に立つかな、玲香ちゃんが喜んでくれるかな。ふとした瞬間に、そんなことばかり考えている自分に気づいてなにも捗らない。いつも情報収集・情報共有を怠らない玲香だが、最近明らかにPC関連の話題を避けていた。それだけでもわかる……もう夜桜屋として活動することなんてないって。
––––一緒じゃないと、意味がないの。
右手薬指の指輪を指先でそっと撫でて、こみ上げてきたものを閉じ込めるように菜々はぎゅっと目を閉じた。
失ったものを追う。叶わぬ夢を見る。元はと言えば自分のせいなのに。自分がしっかりしていなかったせいなのに……。
自分で自分を追い込んでいる感が咎めない。それでもそこに留まっていたい。どうしようもないほど、その世界が菜々の全てだった。
一方優雅にも、菜々が苦しんでいることくらいわかっていた。パソコンを買ってきた時点で、想定していたと言っても過言ではないくらいだ。どうにもならない現実、虚無を突き付けて、傷ついた彼女を慰めて抱きしめて……諦めさせたかった。
自分のそばから離れないように。
「ねえ、菜々ちゃん。辛いなら、もうやめなよ」
〈辛くなんてない、わたしは趣味を楽しんでるだけ〉
「趣味を楽しんでるだけの女の子はそんな顔しないよ。……もっと楽しいことしよう、僕と」
〈これ以上に楽しいことなんてわからないの!〉
叫ぶように手を動かしてこちらを向いた菜々の目には涙が溜まっていた。
「……依存だね。自分の人生の全てだった恋人にふられたみたいな顔してるよ」
〈依存……?〉
「とにかくしばらく離れたほうがいい。夜桜屋からも、玲香ちゃんからも。……そうしたら、きっと良くなるよ」
彼女を抱きしめる。彼女はすんなりと受け入れてくれる。知っている。どれだけ嫌でも、彼女は抵抗しないのだ。
〈優雅さん〉
「ん?」
〈好きです〉
「……え?」
〈私、優雅さんのこと、好きです〉
菜々は怖いほどに無表情だった。しかしその時の優雅にはそんなことに気づく余裕はなかった。その言葉だけで、完全に彼女を手に入れたと思った。思い込んだ。
「僕もだよ、菜々ちゃん」
彼女の頬にキスを落とし、微笑む優雅。
「ずっとここにいよう。僕たちふたりで。安全なここに。あいつらがいないここに。ね」
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