第10話 後輩の家。
結愛が住むアパート。時刻は夜中の二時。場所は志保の家の向かい。
街灯を避けて立つ黒ずくめの男が、この時間にいたら通報されるだろうな。
いつもなら、結愛が経路とか、人の数とか教えてくれるが、今回は俺の状況判断能力と、警戒能力に委ねられている。
別に結愛に頼りきりだったというわけではないが、少し緊張はする。
ベランダを見上げる。この程度、登るのは造作じゃない。
音を立てないように気をつけながら、結愛の部屋のベランダに降り立つ。
「特に特別な対策はしていないな」
鍵を開けて中に入る。
「悪いな」
リビングの机の上。デスクトップパソコンの電源を入れる。
結愛のパソコンのパスワードは知っている。変わっていなければ、だが。
「おっ、開いたな」
確か、結愛は、このファイル名にいつも。
「あった」
USBにコピーしてすぐに退散。
「ん。先輩……」
しようとして足を止めた。声をした方に目を向ける。こいつ、ソファーで寝てやがる。
くそっ。こんなことに気づかないとか。ブランクどころの話じゃねぇだろ。
どうする……ちらりとソファーの傍にあるテーブルを確認する。
武器は、ちゃんと置いてある。マズいな。ハンドガンか。多分ゴム弾装填だが、この距離で当てられたらただでは済まない。
そして結愛なら、間違いなく当ててくる。思い出すのは、恐ろしいまでの射撃精度狙撃精度。それに何回助けられたことか……。結愛が言っていたことを思い出す。常に目の前で起こる事象がどうなるか、計算結果で見えてしまうと。基本的にそれに従うから外さないと。スゲー疲れそうな脳みそだなと当時は思ったな。
絶対に外さない人が相手、ここまで厄介なのか。頼もしい味方も敵かもしれないとなると、どこまでも恐ろしい。あの小さな身体にどれ程の強さが詰まっているのだ。
警戒しながら窓まで下がる。武器があれば、一発は打ち落とせる。だが……。
手の震えを感じる。警棒の柄が、上手く握れない。
「……スゥ……」
「起きてない、のか」
窓から入る月明かり。照らされた結愛は、目を閉じたまま。年相応の可愛らしさと綺麗な顔立ちが、よくわかる。
ベランダに出て静かに窓を閉じて、すぐに逃げ去る。オペレートの無い任務は、やり辛い。効率の良い逃走経路とか、車と落ち合う場所とか。まぁ、今回は逃走用の車なんて無いが。
一応、追手がいないか確認しながら戻ったが、杞憂に終わり、家に入る。
「おかえり。その、大丈夫だった?」
「あぁ。問題なく手に入ったよ」
USBメモリを振って見せる。
ノートパソコンで早速盗んだファイルを開く。とりあえず軽く目を通していく。
「……どうやら、奏の予想通りみたいだよ」
「読むの早いね、史郎君」
「必須スキルだったものだよ」
離れたくせに。こういう能力だけは、ふとした時に役に立ってしまう。便利に使ってしまう。
「どうするの? 史郎君」
「どうするも何も。どうしようもないよなぁ。ただまぁ、理由は気になるかな」
「うーん。本人に聞いてみるとか?」
「聞くのか……」
気が進まない。が、確かに。
どうもしないとは言ったが、リスクを回避するという意味では必要かもしれない。
狙いが読めないまま放置して待つより、直接対決に持って行った方がやりやすい。
「わかった、聞いてみるよ」
俺は結愛を信じている。結愛の仕事に対する真摯さもわかっている。
もし、俺を罠に嵌めようというなら、多分、やる。
しかし、それにしては、詰めが甘い気がする。
こうしてはっきりしても、例えばこのファイルが罠の可能性もある。
既に着々と、俺の家の周りに、俺を拘束、ないし殺害しに来た精鋭が集まっている可能性だってある。
あの組織が俺に対する刺客を送るなら、結愛で油断させて、別の手練れを用意しておくというのは納得できる作戦だ。
でも、こんなにも怪しまれるような要素を、散りばめているのはおかしい。別の狙いがある気がする。
既に俺がこうして、様々可能性を考えている時点でおかしいのだ。
奏の表情が先程までの呆れたものから、訝しげなものに変わる。
「そのベルトにあるの、武器だよね?」
「……あぁ」
「なんでさっきから、指でコツコツしてるの?」
「えっ?」
「史郎君、不安な時、指で何か叩く癖があるからさ」
「……そうなのか?」
「知らなかった? 史郎君のこと、結構詳しいんだよ、私。……朝倉さんより」
「なぜそこで志保が出てくる」
「それで、何が不安なの?」
とても強引に話の流れを引き戻される。
組織に消される可能性がある。というのは言いたくない。そこは、結愛との交渉でどうにかなるとも考えている。俺はここ二年、気をつけて過ごしてきたつもりだ。
つまり、今回のことより前に、俺が組織にとって不都合な存在になる要素は無いのだ。
「萩野さんと話す時、私も行って良い?」
「駄目だ」
「そっか。やっぱり、何か危ないかもしれないんだ。ごめん、私の提案、余計だったね」
人質になる可能性があるとか、そういうことを考えてしまったが、カマをかけられたようだ。
「リスクを承知で俺も乗ったんだ。気にするな」
「……でも、正直、史郎君を見る萩野さんの目……ううん。やっぱり何でもない」
「なんだよ、急に」
「ううん。自分で、確かめた方が良いかも。……余計なこと言ったかな、私にとって」
「うん?」
奏の言いたいことがよくわからないが……本人に聞けばわかるということか。
「……この時間にポテチ食べるの?」
なんとなくお腹が空いたから、ストックしている袋。青い袋の堅いうすしお味。を取り出すと、奏から呆れの視線が飛んでくる。
「不健康」
「腹減ったし。美味しければ何でも良い」
「うーん。こればかりは、食事を娯楽と考えるか、栄養摂取と考えるか、って話になるのかな」
「そんな深い話かよ。別に長生きするつもりないから、好きなものだけ食べて逝きたい」
「こら、そういうこと言わない。悪い癖だよ」
「……前ほど言ってないだろ」
「そうだね。でも、悲しくなるから、少なくなったじゃなくて、完全になくして欲しいなって」
「努力はする」
ポテチの袋を取り上げて、奏は冷蔵庫を開ける。
「何か作ったげる」
「……あざっす」
「ねぇ、史郎君、約束、覚えてる?」
「……覚えてるよ」
一瞬、どの約束だろうかと思って、でもこんな場面で持ち出してくるような約束なんて、一つしかなかった。
くし切りにしたジャガイモを豚肉で巻いて揚げている。美味しそうだ。
「良かった。二年も前の約束、覚えてるか不安だったかよ。ちゃんと、自分を大切にしてね」
「わかってるよ……あのポテチと何が違うんだ?」
テーブルに並んだ夜食。美味しそうではあるのだが、気になった。
「史郎君への愛情がこもっているかどうかかな」
「そ、そうか」
手を合わせて美味しく頂いた。
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