第13話 後味が悪ければ良いものも悪くなる。
「つーわけで。ほら、説明してみろ」
「……ここが、その、こういう文法だから」
「でもここにコンマあるぜ」
「むっ。しくじったわ」
奏は、講師役の交代をあっさりと了承したが、彼女自身が自分の勉強のために開いたのは、二年の範囲の参考書だった。これが真の優等生か。
しかも、今は俺たちのためにおやつと飲み物を準備しているぞ。
「はい、お茶で良いでしょ」
「サンキュ」
「スパルタだね、史郎君」
「そうか?」
多分、志保はまだいける。恐らく今日は英語の気分だと思った。俺が参考書を並べた時、ちらりと英語の参考書に目が行っていたからだ。
やっていることは、教えたことを解説させる。その時にこちらからどんどん質問する。
理解する。それはつまり誰かに教えられるということ。
高校の内容なら、中学生に理解させられるレベルで教えられれば上々だ。
「……おい、さらっと俺の奴を写すな」
志保は黙って目を逸らす。
湯気を立てていた紅茶も、気がつけば一気飲みできるようになっていた。
「さて、そろそろやめるか」
長時間やるのは効率が悪い。集中力が切れる。集中力が切れた状態でやったところで、頭には入らない。
たまに半日ずっと勉強できるみたいな化け物もいるが。勿論、奏の事だ。
志保は大体二時間やったら休憩、夕方なら終了だ。
「えっ?」
けれど、顔を上げた志保は。不思議そうな顔をしていた。
「もうそんな時間?」
志保はきょとんと首を傾げ、チラッと時計を見る。
もう夜の七時。家に帰した方が良い時間だろう。
「……気がつかなかったわ。でも確かに、少し疲れたかも」
「送っていく」
「そう」
荷物をまとめた鞄、志保はにっこりと笑いながら差し出して来た。
街灯に照らされた道。
高校生になって歩くのは二回目。
春休み、俺はこうして志保の隣を並んで歩くことができるとは、思っていなかった。
二度と来ない時間だと、思っていた。肩に感じる重みからは、志保が勉強を頑張ろうとする意志を感じた。ちゃんと重い鞄だ。
「史郎」
「ん?」
「なんで?」
どういう意味の『なんで?』なのだろう。少し考えた。
「……折角志望校は入れて、早速躓かれたら、後味悪いからな」
「やはは。うん、後味、か」
「なんだよ」
私が史郎と出会ったのは、中学二年生の秋、図書室で。
図書室での出会い方なんて、限られている。
彼のことは知っていた。彼と話しているのは、学年トップの成績を誇る、見た目からまんま委員長の久遠奏ちゃん。
久々に、一月ぶりに高校で会った彼女の変わりようにはびっくりしたけど。見事な高校デビュー。本人に言ったら怒られそうだけど。
当時、私は誰とも話さないような生活を送っていた。
中学一年の頃に犯したミス。そのツケを払っていた。
迂闊にも友達を家に呼んでしまった。今住んでいる普通の一軒家じゃない方。
某大企業の社長のご令嬢様としての家に。
この話は置いておこう。迂闊だった私はここで殺してしまおう。
図書室に彼がよく来ているのも知っていた。一年の頃から、ずっと入り浸っていた。
多分、彼も私を知っていたと思う。
どこか、仲間意識を持っていた。校舎の隅にひっそりとあるこの部屋に、自分の居場所を見出している。そんな彼に。
違いがあるとすれば、私はずっと一人で。彼には久遠奏ちゃんがいることだろう。
ほんの偶然。そんな私たちを結びつけたのは、ありがちな偶然。ありがちでもないか。本が飛ぶ図書室が他にあっては困る。
図書室の掃除をしていた生徒が一緒に遊んでいた友人に向けて投げた本。ハードカバー。狙いが逸れて私の方向に飛んできて。気づいたけど避けるには遅くて。
でも、目の前に差し出された手が、本を見事にキャッチして。
「……大丈夫?」
「あっ、えっ?」
何も言えない私に、彼は困ったような顔をして。それから。
「読む?」
なんて言って差し出してきて。思わず、なんて不器用な人なんだとか思ってしまって。
「読んだこと、あるからさ、これ。とても、面白いよ」
「ありがとう、ございます」
彼の優しい声。久しぶりに家族以外と会話した私は、少しだけ声が裏返った。
「それじゃ」
その時はそれだけ。私に本を押し付けた彼はそのまま図書室を出て行った。片付けるにもどの棚かわからない。だから。
別に読みたいなと思ったわけじゃない。
ただ、おすすめされたからには一応目を通しておきたい、本の虫の宿命。私はそのままその本をカウンターに持って行った。
それが、私と史郎の交流の始まり。
私も、彼にお勧めの本を薦めた。
それから私たちは昼休み、放課後を一緒に過ごすようになり、休日を一緒に過ごすようになり。一緒にいるのが日常になった
でも、私は知らないことが沢山ある。彼について知らないことが、たくさんある。
彼の今までを知らない。彼の誕生日も知らない。彼の家も知らない。
きっと、久遠ちゃんの方が私なんかより史郎を知っている。九重史郎を、知っている。
自分の父親が作ったもの。そのせいで面倒なことになって、逃げてしまった私よりも、知っている。
遠ざけようとして、結局中途半端な私よりも、知っている。
「ここまでで良いよ」
唐突に、志保は俺の目の前に、道を塞ぐように立った。
「いや、むしろここまで来て最後まで送らない方が気持ち悪いのだが」
角を曲がってすぐそこに志保の家はある。ここで別れるのも納得だが、来た道を戻るだけの身としては、最後まで見届けておきたい。
「ん。そう? なら、お願い」
わけがわからん。何も考えていないようで、余計なことを考えるな。志保は。
十秒にも満たない沈黙は、塀の向こうの家の団欒の声で埋められる。
街灯の下の志保は、静かに微笑んでいる。
「行くぞ」
「……ん。ありがと」
「急にしおらしいな」
「後味だよ。史郎」
「ん?」
「んー。でも違う。だからって、あー。わからない」
「? まぁ、ゆっくり話してみろ」
急に頭を抱えて、悩み始める。その姿を見るのは、決して初めてではない。
こういう時は、ゆっくり聞き出す。それだけだ。
「私、史郎と付き合うのは難しいとは思った」
「あ、あぁ」
うぐっと胃袋から何かが逆流しそうになったが堪える。
何を言うつもりなのだろう。何を言われるのだろう。
心が構える。聞きたくないけど、聞かなきゃいけないと思ったから。
「折角、仲良くなれたから。初めて、上手にできたのに。事情、優先し過ぎた。結論を急ぎ過ぎた。もっと頑張ってみるべきだった。失敗、しちゃった」
頭を抑えて、しゃがみ込みそうなのを堪えるような姿勢。
悲し気な声で、志保は言葉を続ける。
「ごめん。もっと上手く、やるべきだった。私、史郎に、嫌いって言ったような、ものだよね。なのに。距離感も狂っちゃって。やはは……」
「それ以上言うな」
自分でも驚くくらいに、冷たい声が出た。
気がつけば、志保の顔が近かった。手に力がこもって抜けない。志保のすぐ後ろに、灰色の塀が見える。
「それ以上、言うな」
言い直しても、声の温度は戻らない。
目を閉じて、落ち着こうとした。上手くできない。呼吸すら、下手くそになってしまった。
距離感が狂った。そうだ、志保の言葉はまさにその通りだ。
肩に感じている鞄の重みが、急に増した気がする。
「あの、史郎。痛いよ」
「わ、悪い」
志保の細い体を、肩を抑えて塀に押し付けて。
俺は何をしているんだ。
冷静な自分が、冷たい視線を向けてくる。
潤んだ瞳が見上げてる。手の中に細く、頼りない体。でも、温かい。命の温もりが、確かにそこにある。
月が雲に隠れて、街灯だけが、俺達を照らした。
ここにいるのは俺達だけ。目の前の塀の向こうの家すら、遠い世界のものに感じた。
「史郎?」
「あ、あぁ。ごめん」
解放して、一歩、二歩、三歩。後ろに下がる。
「ごめん」
「ん。私も、ごめん」
示し合わせたわけでもないが、同時に歩き出した。
足音が、やけに大きく聞こえる。
また月が、雲から現れた。
立ち止まって、何か月ぶりだろう、志保の家を見上げる。明かりは点いていない。
「親は?」
「まだ帰ってないと思うよ。それじゃあ、また」
「あぁ。また、明日」
鞄を受け取り、家の中に入っていく姿を見送って、見えなくなっても、眺めてた。すぐに明かりが灯る。
主が帰ってきた家が起動した。
「なぁ、結愛」
「はい。何でしょう」
電柱の影からスッと現れる結愛に向き直る。夜の闇に紛れやすいように、パーカーのフードを被っている。
「志保って、一人暮らしか?」
「ご明察です。しかし、先輩も豪快ですね、あんなところで壁ドンとは」
「そんなんじゃ、ないだろ」
ヒョイっと下から覗き込んでくる眼はからかうような表情だけど、気遣う感情を隠しきれていない。
「優しいな、結愛」
「急に褒めてどうしたのですか? 何も出ませんよ」
本当に優しい。慕ってくれる。変わらずに。それが、どれだけありがたいことか。
「はぁ。先輩、私、よくわかりませんよ」
「何が?」
「なんで辛いのに一緒にいられるのですか? 三人で出かけた時、正直、引きましたよ。昼食の代金全部払ってもらって、先輩に荷物を持たせて歩くの、かなり居心地悪かったですからね」
ポンと結愛の頭に手を乗せた。
「結愛がわからないって思うのは、理解できる。俺も、もやっとしている」
でも、それでも。志保が、辛そうに見えた。何かと、戦っているように見えた。
それに、終わらせたくないと思った。胸の内に感じる痛みと、矛盾なんてしていない。
恋人としての関係を解消することが、その人との関係を終わらせることに繋がる。そんな道理は無い。関係と関係を、反復横跳びして良い筈なんだ。
ただそれを、心が許さないだけで。
「俺が、どうしたいか」
そんなの、決まっている。
決まっているけど。ただ、乗り越えられていないだけ。
俺が、弱いだけなんだ。
「それじゃあ、寝ろよ。さっさと」
夜道を歩きだす。奏も待たせてるしな。
「ねぇ、先輩」
そう思ったのに、足を止めさせられた。
振り返る。フードの向こう、どんな感情を宿しているのか。
不思議な圧を感じる。足が地面に縫い付けられたように、動けない。
「……なんだよ」
「良いこと、教えてあげます。……恋の忘れ方です」
「なんだよ。お前にそんなことわかるのか?」
夜の闇の中で、街灯を避けて立つ彼女が、雲の隙間から漏れる月明かりに照らされて、にんまりと唇の端を吊り上げるのが見えた。
「新しい恋です」
「新しい……?」
「彼女を作るのですよ」
「それが簡単に出来たら世の男は血涙流さねぇよ」
ぴょんぴょんと、跳ねるように近づいてくる結愛はそのまま腕を体に回し、抱き着く形、というか抱き着いて来た。
この距離なら、この暗さでも、その顔が嫌でも見える。
楽し気に、からかうように。真っ直ぐに俺を見上げている。
「ねぇ、先輩。どうですか? 私を、彼女にしてみませんか?」
元カノの家の前で、そんなことを言われた。
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