第9話 ちょっとした疑念。

 「ごちそうさまです! 史郎にも、ごちそうさまです」


 元気な志保の言葉に、続いて店を出た。両手とお腹の重さの代わりに、財布が軽くなつた。買い物。服とか、小物とか。昼食も。なぜだろう、全額、俺が払った、断れなかった。


「先輩、大丈夫ですか?」


 無言で首を横に振る。気にするなと。俺は、大丈夫だ。

 ようやく慣れてきて、そして感覚を思い出してきた。ちゃんと仕事と割り切ると、不思議と苦しくない。俺のこの体質というか、性質というか、気質というか。そればかりはありがたい。


「なぁ、志保」

「ん? 何?」


 ほら、普通に話しかけられる。

 吐き気も、息苦しさも。心臓を握りつぶされる感覚も。何もない。

 駅前が見えてきた。まだ昼だ。楽し気な人々ばかりだ。

 行き交う人々は、各々、休日を満喫するべく動いている。

 志保が次の言葉を待っている、ちらちらと視線を向けてくる。

 聞きたいこと、言いたいこと、でも、言うべきないこと。

 結愛も耳をそばだてているのわかった。


「……いや、何でもない」

「えー。史郎、そういう思わせぶりな態度取られると、気になるなぁ」


 クールに取り繕うことを忘れた、挑発的な目が下から覗き込んでくる。


「なんだよ」

「ごめんごめん、やはは。そんな怖い顔しないでよ」

「してない」

「してた」

「してましたよ」

「マジかよ」


 結愛にまで言われたら、そうなんだろう。

 口角を上げてみる。


「うんうん。努力を感じる」

「頑張ればできる奴だからな。俺は」

「できてないよ」


 志保の容赦のないツッコミ。

 思わず、口が緩むのを感じた。


「オイこら」

「やはは! ごめんごめん。それでさ、これからどうする?」

「そうだな……」 


 すぐには思いつかないけど、


「花見」

「もう散ってるよ」

「あっ……そうだな」


 一か月前、誘うつもりだったものを、考えも無く。


「でも行こうか」


 ふんわりとした微笑み、静かに、穏やかに花が咲いたような錯覚。


「……良いのか?」

「うん」


 志保はすぐに、近くの桜の名所と言える公園に足を向ける。


「行こうよ」

「あ、あぁ」


 隣に並んでくる。今度は、手を握られることも、腕に抱き着かれることも無い。




 先輩と志保さん。二人が並んで歩いている。

 先輩、やっぱり、理解できませんよ。でも、本当に、好きなんですね。

 しっかりと髪をセットして、ちゃんとすれば普通にカッコいい人だと再認識した。 

 別に服装を指定していないのに、当たり前のようにそうしてくるとは。

 寂しくはない。わかっていた。先輩は私と違う。先輩が選んで掴んだ日常がある。

 先輩は、私と志保さんに仲良くなって欲しい、そう思っているようだけど。

 私には難しい。そのことを先輩はわかっている筈なのに。


「先輩、ごめんなさい」


 色々と、ごめんなさい。

 足を後ろに向ける。もう良いだろう。あとは先輩に任せて私は陰から見守る方に徹しよう。

 二人が向かう反対側に行こうとしたところで、肩を掴まれた。


「どこに行くんだ?」


 冷めていく気持ちを無理矢理温める。いつも通りの笑みを浮かべる。人懐っこい後輩になる。

 先輩には、そういう顔を見せていたい。


「えっと、コンビニに。ト……お花を摘みに」

「お花? まぁ良いや。じゃあ、ついでに団子買ってきてくれ。あと、別行動する時はちゃんと言えよ」

「は、はい。すいません」

「? コンビニに用事あるんだろ。待ってるから。あっ、団子代。百円あれば足りるだろ」


 ペコリと頭を下げた私に、そんな声がかけられる。

 これは仕事。仕事なのに。逃げ出そうとした。そんな私が、信じられなかった。

 初任務の時を、思い出してしまった。

 初めての任務。二人でこの任務のために借りたオフィスビルの一室で。


「お前がミスって死ぬ俺じゃないよ、新人。でも、信じてるぜ」


 パソコンを開いて、でも指が固まって、いつもは視界を埋め尽くして、勝手に目の前で起きることの結果を教えてくれる数式も見えなくて、何もできなくなった私に、にやりと笑いながらそう言って、夜の闇に融けるように消えていく。

 飄々と、見つかればどうなるかわからないのに。笑っていられる強さ。

 私みたいな新人を押し付けられて、私よりたった一歳上なだけなのに。

 何とも怠そうに仕事をする人だ、なんて思っていた。室長の言うことにいちいち噛みついて。組織に入って最初に組む人、この人か、なんて。けれどこの時は、誰よりも頼れる人に見えた。

 こんな状況でも平然といられる。誰かを励ませる。そんな強さが欲しい。


「先輩。オペレートを開始します。警備システムの無力化まで3、2、1」


 震えそうな声を、振り絞った勇気で抑え込む。大丈夫、戻って来た、いつもの景色が、うっとおしい世界が。


「良いね。完璧」

「そ、狙撃支援が必要な時は」

「わかってるよ、頼むぜ」


 任務が終わって、無事に帰って来て。

 上手くいった、そのことがただ嬉しくて。


「サンキュー。次も頼むぜ、相棒」


 頭を撫でてくれる手が、優しくて。

 相棒と言われたことが嬉しくて。

 この人と一緒なら、私は全力が、全力以上のことができる。そう思ったんだ。

 知ってますか、先輩。

 私が明るい口調を意識するようになったの、この時の先輩に憧れて、なんですよ。




 ……さて、と。


「なぁ、奏」


 駅前で、志保と結愛と別れて、後ろを振り返る。


「えっ……」

「俺相手に、そんな尾行が通じると思ったか?」


 時計のモニュメントのちょうど反対側にいた奏。ずっとこっそりついてきていたのはわかっていた。


「楽しそう、だったね」

「そうか?」

「うん。お花見の時とか、桜無いのに、楽しそうにしちゃってさ」

「あ、あぁ」


 俯いて、前髪に隠れて、どんな表情なのかは伺えない。

 それでも俺がどうしたら良いかわからないのは、声が冷えているから。奏の声が、冷えているから。


「あー。奏?」

「なーに?」


 パッと顔を上げた奏は、いつも通りだった。いつも通り、安心をくれる。そんな笑顔だ。


「えっと」

「ん?」

「あー、帰るか」 

「そうだね」


 本当だったら、俺は、志保を家まで送っている筈なんだけどな。

 多分、恐らく、迎えが来ているのだろう。駅のロータリーの方に歩いて行ったから。


「朝倉さんが行った方向をじっと見たまま歩いて、危ないよ」

「あ、あぁ」

「朝倉さんも朝倉さんだなぁ、手を繋いだり、腕に抱き着いたり……荷物持ちさせて、全部驕らせて……もうっ」


 どうしてか不機嫌な奏である。どう機嫌を取ったものか……。


「やぁ、お二人さん。九重君は、今朝振りだね」


 そんな気まずい雰囲気を吹き飛ばす、爽やかな声。その主に目を向ける。


「霧島。何してるんだ? 制服で」

「緊急の呼び出しだ。テニス部の各学年の代表」


 やれやれと肩を竦める。


「ところで、お二人は?」

「今帰るところだ」


 ちらりと奏を見ると、霧島を見て、何やら考えている。


「あの、さ。どこかで会ったこと、ある? 高校入る、もっと前」


 そう言うと、霧島は、一瞬だけ顔を固くした。


「……ない、な。あったとしても、思い出せないな。おっと、時間だ。それじゃあ、また」


 気障ったらしく笑って駅の方へ。その背中を見送る。


「ところでさ」

「なんだよ」


 奏は神妙な顔で、こちらを見上げてくる。


「朝倉さん、本当に狙われてるの?」

「急にどうした」

「いやさ。私、専門家でも何でも無いけどさ。普通、こそこそ後を付けてたら、取り押さえられているところじゃない?」


 それに関しては、割かれている人員が結愛だけだから。と言える。

 いや、待てよ。護衛対象を出かけさせて動きを探るなら、その日限定で追加の人員を用意しても良いはずだが、その気配は無かった。


「それにさ、囮として釣るなら、朝倉さんが一人で出かけているところを、隠れて警備した方が良くない? 襲う対象が一人でいた方が、仕掛けやすい筈なのに」


 そうだ。目撃者がいるのを嫌う。それが普通だ。三人でいたら、二人分余計に何らかの形で処理する、余計な手間が生まれる。

 こんなことにも気づけないとは、俺も鈍っているな、やっぱり。


「しかしさぁ、史郎君」

「ん?」

「実は都合よくキープされてたりしない? 朝倉さんに」

「どういう意味だ?」


 家の前。奏は立ち止まり、後ろ髪をクルクルと弄りながら。この仕草は、不機嫌なのか、考え込んでいるのかのどちらか。


「いや、ほら。別れたにしても、史郎君が仲良くしようとしてくれるなら、都合よく利用してやろうって」

「どうだろ」


 そっちはあまり深く考えない。あちらが俺との関りをキープしてくれるなら、それはそれで都合が良いから。護衛対象との関係が危うくなるのは、護衛任務において致命的な失敗だ。

 いざという時に信用されないのは、とてもマズい。

 胸の中にあるもやっとしたものを見ないようにする。それよりも、結愛のことだ。

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