第6話 後輩と元カノとゴールデンウィークの予定。

 「おかえりなさい。お風呂にしますか? 以下略。さて先輩。もうすぐゴールデンウィークなわけですが」

「なんだ。急に。そして当たり前のようになぜ俺の家にいる」


 なんか美味しそうな匂いがするなと思っていたら、結愛はエプロンを付けて、せっせとテーブルに料理を並べていた。


「簡単なことですよ。この前来た時先輩の合鍵を借りました」

「借りて、パクったと」

「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。自分の分の鍵を作ってもう返しましたって。夕飯も作っておきましたよ」

「さらっととんでもないことを言うな……。お前、料理できたっけ」

「勿論。生活力は付けておいて損はありませんから」


 テーブルに目を向ける。

 鶏のから揚げにハンバーグ。フライドポテトに麻婆豆腐。


「お前、俺にカロリーカロリー散々言っておいて、なんだ、このラインナップは」

「先輩の好物しか作れません」

「はぁ」

「先輩。復帰していただければ、任務の度にこの食事を用意しましょう。これもまた後方支援であり、前線から帰ってきた相棒を労う。どうですか?」

「なんだ、お前は。俺を肥えた豚にでもしたいのか?」

「まぁまぁ、食べてくださいな」


 折角作ってもらったしな。


「……いただきます」

「どうぞ」


 そして、一口。とりあえず唐揚げから。


「……美味いな」

「あぁ、良かった」


 サクッとした食感、ジュワッと溢れる肉汁。お手本のような美味しい唐揚げだ。味もしっかりと染みている。

 味は奏の方が舌に馴染んでいるし。志保の家で食べた奴は単純に美味かったけど。これはこれで、ありかもしれない。


「……奏さん、隣の家なんですよね? 私、あの人が怖いですけど」

「なんで?」


 結愛が壁の方、いや、壁の向こうの久遠家を見ている。


「ねぇ、先輩。もしかしてですけど、組織のこと、バラしました?」

「さぁな」


 訝し気な視線。そりゃそうだ。一応、秘密にしろということになっている。

 言うべきだろうか。

 久遠奏は、俺が仕事を休むことにしたきっかけだと。

 結愛には、いつか説明しなければならない気がする。そういう責任があると思う。


「あの時期、夜中に帰ることもあったからな」


 あぁ、駄目だ。考えていたこととは別に、俺の口は誤魔化す方向に動いて行く。


「あぁ。お隣さんですもんね。それで、今疑われる理由は?」

「さぁ。環境が変わって気が立っているだけだと思うぞ」

「ふむ……そういうことにしておきますか」


 丁度良い、気になっていたこと、今聞いておこう。


「なぁ、聞いて良いか?」

「何でしょう」

「この任務、何人割かれている」

「……そうですね。明かしましょう。護衛は、私一人です」

「やっぱりな。つまり、俺に声をかけたのは」

「私の独断ですよ。勿論」


 わけがわからない。危険性が認識された以上、増員の判断が下りてもおかしくはないはずだ。


「校内で護衛するなら、年齢的にも不自然さをカバーする意味でも、お前一人、というのはありえるが。それにしても腑に落ちない。陰から守るのが一人いてもおかしくはない」

「えぇ。なので先輩に声をかけたのです。私一人ではキツイと判断して」

「と、言いつつ俺の家で飯を作るのな」

「これは作戦会議のためです」

「スマホは飾りか?」

「傍受される可能性があるので」

「随分口が回るようになったな」

「えぇ。まぁ」


 ガチャリと、玄関の方で音がした。そしてすぐに、リビングに繋がるドアが開いた。奏が合鍵を使って入ってきた。

 部屋着にコンタクトを外して眼鏡。オフモードの奏だ。


「史郎君。夕飯のカレーが余ったんだけど……」

「カレーなら、音葉ちゃんと花音ちゃんの明日の朝ご飯にすれば良いではないか」

「うん、それでも多いから、お裾分けにって……ふーん。やっぱりそうか。踏み込んで正解だった」

「それでは先輩。また明日」


 さりげなく帰ろうとする結愛の肩を、奏はガシッと掴んだ。


「お茶淹れるから、飲んで行かない?」

「いえ、私、予定もありますので」

「良いから。座って」

「えっ、えーっと。ん?」


 スマホに目を向けていた結愛の目は、再び奏の家の方向に向く。発信機で志保の位置を確認したのだろう。


「朝倉さん。今私の家にいるから。ね? これならいいでしょ?」

「先輩、何なんですかこの人。怖いのですけど」

「従った方が身のためなのは確かだぞ」

 


 「ふむふむ、なるほどね」


 奏の反応は、思っていたよりも静かで穏やかなものだ。


「そっか。ねぇ、史郎君」

「なんだよ」

「私ってさ、そんなに信用無い?」


 奏が首を傾げてにこっと笑う。


「えーっと?」

「私さ、史郎がやってた仕事知ってるよ。助けてもらったこともある。なのに、何でかなー。何で相談してくれないかなー」

「いや、正式に任務として受けているわけじゃないし。それに、奏は関係な……」

「関係無くないから」

「ヒェッ」


 隣で小さく息を飲む声。

 気持ちはわかる。

 何だろう。奏に怒らている時って、本当に自分が悪い気がして居心地が悪いのだ。

 そう、奏は怒っている。


「あー、もう。何でこう上手くいかないのかなぁ。ムカつくなぁ。私がどうにかできないところから横槍入れないでよ。本当、勘弁してよ」


 ぶつぶつと奏は恨み言を思いつくままに並べて、俺を真っ直ぐに睨む。


「はい! 何でしょう!」

「ねぇ、史郎君。最初の質問の答え、まだもらってないなぁ」


 かつてあった三つ編みの代わりに、後ろ髪を指先で弄りながら、ふんわりとした笑みを浮かべる。

 それは、奏の、怒っているサインだった。


「信用無いわけじゃない。奏は、親よりも、この世界の誰よりも、俺のこと、知っている」

「そうだね。私もそう思ってるよ」

「その……奏を信じられないなら、他の誰を信じれば良いか、わからないくらいだ」

「ちょっと先輩! 一緒に死線を潜ってきた私を差し置いてですか!」

「い、いや。結愛も信じてるぞ。結愛の助けが無かったら危ない場面は結構あった。ある意味命の恩人のようなものだ」


 キリリと頭が痛んだ。

 これ以上好意を表現することを、体が拒否した。


「史郎君?」

「史郎先輩?」

「なんでもない」


 気がつけば目元を押さえていた。

 好意を躱される感覚を思い出して、嘔吐感が込み上げる。


「すまん、少しトイレ」


 返答を聞く前に駆け込んだ。


「あぁ、くそっ」


 吐きはしない。それは結愛に申し訳ない。

 はぁ。駄目だ。

 彼女たちは、大丈夫だ。

 違う。もっと気を付けろ。大丈夫と思っていた結果、どうなった?

 正しいと思い込んだ結果、どうなった? 


『ねぇ、史郎、別れよ』


 口元を手で抑える。

 吐くな。絶対に、吐くな。


『私、史郎みたいに、できないよ』


 違う。そんなことは無い。その時の俺は、言えなかった言葉。

 でも、俺は、何も反論できなかった。

 何を間違えたのか、わからなかったから。


「行かなきゃ」


 洗面台で顔を洗って気合いを入れなおして。


「お待たせ」


 リビングのテーブルに、なぜか奏と結愛は斜めに向かい合って座っていた。

 ピリピリとした空気が出迎えた。とりあえず、奏の向かい側に座る。


「史郎君、おかえり。えっと、続き、しても良いよね?」

「……あぁ、良いよ」


 一応、気を使ってくれる奏に笑みを見せて。

 気合を入れ直しても、この空気はピリピリと胃に直接くる。

 目の前に紅茶が注がれたマグカップが置かれたので、一口だけもらう。……これは、結愛か。相変わらず美味いな。カップを置いたのが合図になり、奏が口を開いた。


「それじゃあ、私の要求。史郎君を、巻き込まないで欲しい」


 奏の要求は単純で、端的だ。


「史郎君の仕事は知っている。犯罪の証拠を盗みに行ったり、攫われた人を助け出したり。大きな犯罪を未然に防ぐための工作をする。でしょ?

警察の作戦にも参加するらしいじゃん。正直、史郎君の仕事を知ってから、私は毎晩不安だった。うん。とても」

「それは……」

「あなた、後方支援だっけ」

「……はい」

「良いな……私、祈ることしかできなかったもん。あなたみたいに、直接何かできるわけじゃないもん」

「……違いますよ。私も同じですよ」


 どうにか、話を穏やかに穏便に進めたい。そういう時は、とりあえず謝るに限る。


「えっと、その。不安にさせていたなら、えっと、悪かった。けどほら、俺、今ちゃんとぴんぴんしてるし」

「これからもそうだと言える? 休職中だっけ? それを知った時、どれだけ安堵して、どれだけ不安になったかわかる?」

「不安? なんで不安になるんだよ」


 頭一つ低い位置から、鋭い視線が突き刺さる。


「いつか復帰するかもしれない。その可能性を残しているからだよ。萩野さん、あなたは、史郎君に復帰して欲しいの?」

「うっ……はい。私は、史郎先輩に、帰って来てほしいです」

「自分の望みははっきり言わないと駄目だよ。私みたいに後悔するから」

「! はい! 私は、史郎先輩に帰って来てほしいです」

「まぁ、私のアドバイスと、私がイラつくかどうかは別なんだけど」

「ひっ。うぅ、史郎先輩が、どれだけ求められる人材か、わかっていないようですね」

「それが何よ」

「ミッション成功率百パーセント。この意味がわかりますか?」

「史郎君の事、能力でしか見てないってこと?」

「違う!」


 立ち上がり、机を殴り、顔を歪ませて奏を苦み付ける


「違う! 違うもん……」


 沈黙が場を支配する。

 結愛の目から、ポロリ、ポロリと、涙が落ちる。

 俺は、ため息を吐いた。


「あ、あぁ、ごめん。言い過ぎた。ごめんなさい。その、えっと、私も感情的になっちゃって」


 奏が慌てて取り繕うように言葉を並べるが、はぁ。


「でも、本音ですよね」

「あ、あー。その」

「謝るってことは、要求を取り下げる、ってことですか?」

「えっと、その、それは違うけど」

「じゃあ、やっぱり本音ですか?」

「えっと、えっと」


 ったく。この後輩は。相変わらず手段を選ばないな……。


「結愛。流石に卑怯だぞ」

「あっ、しまった……くっ、先輩がいなければ」

「議論の場で涙は卑怯だ。やめろと言っただろ」

「先輩の復帰を果たすためなら、禁じ手の一つや二つ」

「……萩野さんは、史郎君に死ぬかもしれないことをさせるつもりなの? また、あんなことさせて、あんな思い、させるの?」

「死なせません。もう、あんなことをしなくても良いようにします。そのために、先輩の隣りに立つために、私は!」


 萩野の手がブレ、次の瞬間には、奏の顔面すれすれで拳が止まっていた。


「奏さん、あなたの要求はわかりました。そして、改めてはっきりと告げます。先輩に復帰して欲しい」

「私だって、もう史郎君に、あんなことをさせない。私を助けるために、史郎君は、人を、だから……」

「おい、落ち着け、お前ら」

「あっ、すいません」

「ご、ごめん。史郎君」


 これ以上やっても平行線。それは二人もわかったようで、結愛は奏から背を向け、奏も結愛から目を逸らした。


「……決めるのは先輩です。それでは今日は失礼します」


 そう言って、そのまま家を出て行く。

 残された俺達は顔を見合わせて、そのまま目を逸らした。


「えっと、志保、いるんだよな、隣に」

「うん」

「なんて言って来たんだ」

「お隣さんの家に行くって」

「あっ、俺の家、知らないもんな」

「私の目気にして、連れてこなかったからね、史郎君」

「あぁ。まぁ」

「そういえば気になったんだけど、朝倉さんの家には行ったの?……あっ、目を逸らした。行ったんだーへー」


 あぁ。行ったよ。

 美味しいご飯用意してあるんだーとか言われて、ウキウキで着いて行ったよ。


「ふーん」

「うるさいぞ。ったく。志保待たせてるんだろ。行ったらどうだ」

「んー。気になることもあるけど、そうだね。そうする」

「あぁ」

「それとさぁ、一つ、相談があって」

「ん?」

「最近、なんかつけられてる感じがあってさ」

「えっ?」

「史郎君、気づいてた?」

「……いや」


 ここ数日は結構気を張っていた。怪しい動きをした奴がいないか、ちゃんと見ていた。


「そう、なんだ。じゃあ、気のせいかな」

「俺も警戒しておく」

「お願い。その、ごめん」

「謝ることじゃないだろ。そういうことは、慣れてる奴に頼るのが一番良いんだよ」

「ん。ありがとう。その、ごめん……じゃないね。それじゃ」

「あぁ、一応、俺も家の前まで行く」

「大げさだと思うけど」

「もう、あんな思いしたくない」

「……ごめん」

「悪い。俺も、卑怯な言い方をした」


 そのまま一度も目を合わせないで、奏の家の前まで。一分もかからない距離。

 奏がちゃんと家に入ったのを確認して戻る。

 いつも通り一人の家。では無いな。

 後ろに人影が下りてくる。


「さて先輩、ゴールデンウィークについて話し合いましょうか」


 それと同時に、スマホが震える。


『今日は見逃してあげる、って伝えておいて』


 そのまま結愛に見せる。


「あの人、やっぱり恐ろしいです。……奏さんがつけられているというのは気になりますね」

「一応、見ておいてくれるか?」

「了解です。こちらでも注意しておきます。奏さんって、あの夏休みの時、先輩が助けた」

「あぁ」

「そうですか……だから……」

「今は気にしなくて良い」


 奏には悪いが、現状を無視するわけにはいかない。


「すいません」

「良い。あの時の選択を、間違えたとは、思っていない。謝るべきは、俺だ」


 探るような視線は、俺の言葉が嘘だと……強がりだとわかっていると告げていた。

 それでも、結愛はあえてそれを指摘するようなことはしなかった。


「……この話はやめましょう」

「あぁ。そうしてくれ」


 そう言うと、結愛はすぐに、明るい表情を作ってくれる。


「さて、先輩、探り入れたくないですか? 志保さんを狙う組織」

「いや。俺としては……」 


 頭の中に、結愛の言うことに物凄い勢いで頷く自分がいる

 でも……。


『史郎君を、巻き込まないで欲しい』


 そんな声が頭に響く。結愛に今は気にしなくて良いって言ったくせに、なんで俺が迷っているんだ。


「探りいれるって、具体的にどうする気だ?」

「志保さんと遊びに出かけましょう」


 頭にチョップをかました。


「な、何をするのですか!」

「護衛対象を餌にするって、お前なぁ」

「んなっ、先輩がいれば余裕で守り切れますよ! 町中で銃を使うような馬鹿はいませんし。ならもう、先輩の独壇場ですよ!」

「いたらどうするんだ、いたら。それに、俺だって普通に負けるぞ。多分」


 結愛は、ニヤリと唇を歪める。


「負けたことない、ですもんね」

「絶対に勝てる状況に持って行って、その有利を拾ってるだけだ。真っ向勝負ならわからん。それで、具体的にはどうするんだ。遊びに出かけるって」


 訓練なら普通に負けることあるし。

 とりあえず、話は聞こう。後輩を育てる上で、大切なことの一つだ。


「そうですねぇ。先輩、デートに誘ってもらえませんか?」

「は? 俺たちはもう。くっ、うぐっ」


 別れたからデートとかする仲じゃない。と言おうとしたが、吐き気が邪魔した。


「あっ、先輩。すいません。言わなくて良いです。大丈夫です。調査してありますから」

「ならなぜ、わざわざデートに誘えと?」

「男女が二人で出かければ、それはもうデートでは?」

「そんなアホな理屈に俺は従わない」

「アホとは失礼な」

「男女の友情反対派か? お前は」

「んーと」


 頬に右手の一指し指を添えて上目遣い。どこで覚えたそのあざといポーズ。


「そうですね。例えば、私と先輩は相棒。奏さんと先輩は、もはや家族と言っても良いのでは? 先輩と志保さんは、友達に戻れるか疑わしいですし。つまり、少なくとも先輩の人間関係を見る限りでは、友情成立してないかと」

「オイこら」


 左手で指折り数えながら、さらっと傷口を抉りに来やがる。


「ちなみに先輩。男友達の方は?」

「いない。どこから俺の仕事が漏れるかわからなかったし」

「まぁ、そうですよね。私もそうですし」

「それに、あの時の事があったし」

「あの夏休み、ですか。奏さん、大分印象変わっていたせいで、すぐには気づけませんでした」

「あぁ、俺もまだ見慣れてない」

「でも、志保さんとは、付き合ったのですね」

「奏はあの事件を理由に逃げること、許さなかったからな。奏がいなかったら、志保と仲良くなろうとか、考えなかった」


 話が大分逸れてしまった。

 しかしそうか。結愛もか。

 中学すっ飛ばして高校に来るとかいう、アウトなことしてるが、希薄な人間関係も、それを実行する手助けをしているのか。                                                                                                


「まぁ、良いんじゃないか。二人きりじゃなくて、お前も来るなら」

「えっ?」

「? 何がおかしい」

「デートになんで私が行くのですか?」

「まず、なんでデートに拘る」

「そうすれば、私は尾行する、という形がとれるので」

「はぁ。別に良いだろ、一緒に行動すれば。危険度は大して変わらん。なんなら、どこでどういう風に見られているか把握できてない。その状態での単独行動の方が危険だろ」


 それに。結愛にも、普通に友達を作ってもらいたい、と思ったりするんだ。

 結愛のこれまでを考えれば、結愛のためにも。

 そして、具体的な予定を話し合う。

 まぁ、志保が出かけることを了承すれば、という前提をクリアしなければならないけど。

 結愛とする日が来るとは思わなかった、出かける予定を話し合うということ。


「私たち、いつも一緒にいましたけど、出かける予定なんて、話したことありませんでしたよね」

「学校あったし、会うの大体夜だったし、昼に会うなんて思いつかなかったな」

「はい。それでは、そろそろ。本当に帰りますね。志保さんも移動しているようなので」

「あぁ。なぁ、最後に一つ良いか?」

「はい。何でしょう」

「あんな別れ方したのに、お前は、俺に対して変わらないんだな。態度とか」


 じっと目を覗き込まれる感じがした。目の奥の奥、心に秘めた感情まで覗き込まれるような。


「あんなことあった後ですし。私の知らない、でも先輩には確かにあった、普通の日常を望む気持ちが起こるのは、ありえないことじゃありません。それに、前にも言いましたよ」

「何だよ」

「私は、先輩の人柄を信用しているのですよ。だから、あの時も、今までも、怒っていません」


 真っ直ぐに伸びてくる手。背伸びをした結愛は俺の頭に手を乗せた。


「何してるんだ?」

「見ての通り、頭を撫でています。気にしすぎです。先輩」


 ゆっくりと手が動く。猫のお腹を撫でるように。優しく、けれど楽しむように。

 前髪がかき上げられる。覗き込むような視線が注がれる。


「先輩、前から思っていたのですが。髪切らないのですか? ボサボサ頭に思い入れでも?」

「美容院の予約の仕方を知らない」


 だからいつも、鏡を見て適当に切っている。


「それ、高校生としてどうなのですか? 中学生でも、何なら小学生でも知っていますよ」


 お互いの顔を観察する時間が続く。

 撫でる手は止まらない。……うん。


「はぁ。せいっ!」

「ア痛っ!」


 デコピンをかましてやる。


「ったく。……ありがとな」

「ちょっと待ってください。何で私、デコピンされたのですか?」

「あぁ、お前が俺にお姉さん振るなんて、三年早いと思ってな」

「んなっ!」

「奏を見てみろ」

「むぅ」


 不満げにむくれながら扉を開けて出て行く。耳を澄ますとすぐに走っていく足音が聞こえた。


「……はぁ」


 目元を抑える。


「仕方ないか」


 俺もすぐに身支度を整えて家を出る。

 心配していないわけじゃないんだ。

 


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