この鼓動が止まったとしても、君を泣かせてみたかった

望月くらげ

第一章 泣けない私は道化師と踊る

第1話

 電話の向こうで、友人が笑っているのが聞こえる。


「駄目だって! ねえ!」

「もう遅いよ。ねえ、莉子りこちゃんはこんなことになっちゃ駄目だよ。グループから爪弾きにされたらもう教室に居場所なんてないの。だから絶対、莉子ちゃんはこんなふうにならないで」

「待って! ねえってば!」

「……バイバイ」


 涙が混じったような声でそう言ったかと思うと、耳をつんざくような破壊音に思わずスマホを耳から離してしまう。耳に当てなくても聞こえるぐらいの大きさで誰かが悲鳴を上げたのがわかった。

 衝撃を受けてもなお、かろうじて残る通話機能の向こう側で、救急車のサイレンが鳴り響くのが聞こえた。



 夕方の小学生たちが帰ったあとの公園で、友人たちの揶揄するような笑い声が響く。自分に向けられたそれを、どこか他人事のように三橋みはし莉子は聞いていた。遠くの方で救急車のサイレンが聞こえる。そのせいか、まるでフラッシュバックするかのように、あの日の電話のことを思い出してしまう。今も耳の奥で聞こえる気がする。あの日聞いた、救急車のサイレンが。そして、かつての友人の最後の言葉が。

 莉子は自分の目の前で意地悪い笑みを浮かべた今の友人――と呼べるのかわからない――の姿を見た。

 高校に入学してから半年以上が過ぎた。いつの間にか二度目の衣替えが終わり、入学した頃にはいまいち似合っていなかった制服も、この頃になると随分と身体に馴染んでいた。

 いや、馴染んだのは制服だけではない。人も学校に馴染んでいく。気付けばクラス内での立ち位置やグループ内でのポジションも完全に固まっていた。莉子はクラスでも目立つ奥北おくきた真凜まりんたちのグループに所属していた。


「莉子は本当にバカだよねえ」

「そう、かな? えー、そんなことないよ」

「ううん、バカすぎるよ。心配になるぐらい」


 その言葉が善意によるものか、それとも悪意が込められているのかわからないほど莉子はバカではない。それでもバカを演じ続ける。

 グループ内でイジられ、パシらされる莉子は、端から見ると虐められているようにすら映るらしい。それでも莉子はあえてそのポジションにいることを選んでいた。一人になりたくない。ハブにされたくない。グループからはじき出されたくない。

 かつての、友人のように――。


「ってかさ、莉子わかってる? 自分がどれだけ酷いことをしたか」


 唐突に、真凜の隣に立っていた戸川とがわがニヤニヤと笑いながらそう言った。どれだけ酷いことを、と言われても莉子に心当たりはない。ないのだけれど、それをそのまま言ってはいけないことを莉子はよく知っている。

 どうするのが正解か悩むように莉子が黙っていると、真凜が先を続けろとばかりに顎で戸川を促した。どうやら戸川の言葉は真凜のお気に召したようだ。

 真凜の反応にニヤリと笑うと、戸川は少し興奮したように莉子に向き直った。ああ、なんて楽しそうなんだろう。まるで獲物を見つけたカマキリのようだ。


「だってさ、今日の体育の授業のとき――」


 戸川は口にするのは本当のことを10倍も20倍も膨らませた話だった。その話の中で莉子は馬跳びに失敗し、グラウンドで尻餅をついた友人に心ない言葉を投げつけたことになっていた。

 実際は「大丈夫?」と「保健室に行った方が良いよ」としか言っていないのだけれど、それが戸川の中では随分と悪意を持って変換されてしまったらしい。

 でもこれは今に始まったことではない。だからもう慣れた。例えば、莉子が誰かの肩に触れれば叩いたことに、誰かが莉子を避ければそれは莉子が誰かが通るのを妨害するためにイジワルしたことに変換される。イジリ、と呼ぶには意地悪いそれらの言葉を、莉子はひたすら受け止め続けていた。


「ちゃんと謝った? ああいうのはダメだと思うよ」

「う、うん」

「何、その顔。私は莉子のためを思って言ってあげてるのに」

「あ、えっと、そうだよね。わかってるよ、ありがと」


 慌てて頷き礼を言うけれどもう遅かった。戸川は一瞬、口の端をにやりとあげる。そして信じられないとばかりに非難の声を上げた。


「いやいやいや! 思ってもないのにそんなこと言わなくていいよ。あーあ、莉子ってそういうところあるよね」

「そ、そんなことないよ」

「そんなことあるでしょ。私だったらさこんなふうに友達から注意されたらきっと泣いて謝るよ。だって自分が悪いことしたって気付くんだから」


 ああ、始まってしまった。またこのパターンだ。


「ねえ、莉子ってすっごく図太いよね。こんなになっても涙の一滴も流れないんだから」

「それは……」

「申し訳ないとか酷いことをしてしまったって思わないの? ねえ、なんで?」

「思ってるよ。思ってる、けど」

「じゃあ、なんでそんなふうに平然としているわけ?」


 責めて責めて責め立てて、それでも泣かない莉子に苛立ったように戸川は言う。今日は戸川だっただけで真凜のときも、そしてたまにだけれど他の子が言ってくるときもある。

 りこを泣かせるための、いつものお決まりのパターンだ。

 泣けるものなら莉子だってさっさと泣いて満足させている。でも、泣くことができないのだ。

 けれどそんなことを伝えたところで信じてもらえると思わない。むしろ泣けないのなら泣くまでさらにイジられるだけだとわかっている。だから莉子は申し訳なさそうに見えるであろう表情を作ることしかできないのだ。

 ごめん、と謝るのもおかしいので黙ったままでいると、戸川はあからさまにため息を吐いた。


「結局さ、自分が同じ目に遭ってみないとどれぐらい辛いかなんてわかんないんだよ」

「え?」

「だからね、教えてあげる」


 そう言ったかと思うと、戸川は莉子の肩を強く押した。突然のことに反応しきれず、気付けば莉子の身体は重力に逆らうことなく地面に崩れ落ちていた。受け身を取ることもできず勢いよく尻餅をついたせいで衝撃が全身に伝わる。そして。


「うわー、莉子ってばそんなところに座っちゃって汚ーい。ホント間抜けなんだから」

「なっ……っ」


 頭上から馬鹿にしたような戸川の声が聞こえる。逆光で顔は上手く見えないけれど、楽しそうに笑っているのが声からもわかる。

 反射的に声を荒らげそうになるのを必死に堪えた。戸川は小さく笑うと、莉子の前にしゃがみ込む。


「……なんてね。どう? これで言われたさっちの気持ちがわかった?」


 戸川は先程までとは打って変わったように親しみを込めた笑みを浮かべると、莉子に手を差し伸べる。莉子の肩を突き飛ばし、転ばせた手だ。こんな手、掴みたくなかった。でも。

 莉子は差し伸べられた手をそっと取ると、立ち上がった。

 笑え、笑うんだ。心の底から感謝をしていると、そんな笑みを浮かべるんだ。

 必死で自分に言い聞かせると、莉子は一度二度と呼吸を繰り返し、そして顔を上げた。


「うん、ありがとう。ホント私ってダメだよね。ごめんね、こんなことさせちゃって」

「ううん、莉子ならわかってくれるって思ってたよ。大丈夫だった? 怒ってない?」


 わざとらしい言葉。作られた笑み。でも、それは全部莉子も同じだ。

 

「大丈夫だよ。戸川さんが私のこと思ってやってくれたんだってわかってるから」


 莉子の言葉に真凜の周りにいた他の子達がクスクスと笑っているのが見える。きっと馬鹿にされているのだろう。こうまでしてグループにいたいのかと想われているのかも知れない。

 でも、こんな思いをしてでも莉子はグループにしがみついていたかった。一人になるのが怖い。グループからはじき出され一人になったとき、どんな態度を取られるのか、どんなふうに周りから見られるのかよく知っているから。

 思い出した苦い記憶に胸の奥が痛くなる。三年も前のことなのに、まだ昨日のことのように思い出せる。

 きっとあの日から、莉子の心は止まってしまったままなのだ。あの日、友人だった津々井つつい明日音あすねが死んでしまったあの日から。


「ならよかった。だよね、私たちみんな仲良しだもんね」


 それはまるで儀式のような言葉。仲がよいから全てが許されると言いたいらしい。そんなわけがないだろうと思いつつも、莉子はへらっとした笑みを浮かべる。


「そうだよ、私たち仲良し――」

「あーあ、つまんないの」


 けれどそんな友情ごっこは真凜のお気に召さなかったらしく、莉子にもそして戸川にも目を向けることなく隣にいた友人に「帰ろ」とだけ言って公園の出口へと向かっていく。

 戸川は慌てたようにその背中を追いかける。自分以外誰もいない公園で、一人残された莉子はようやく今日が終わったことにホッと息を吐いた。

 砂埃で汚れたスカートをはたく。その拍子に手のひらにピリッとした痛みが走り、ようやく右手の手のひらに血が滲んでいることを気付いた。

 普段は突き飛ばされるまではしないのだけれど、少しずつやることが過激になってきている気がする。このままではもっと酷いことをされるかもしれない。

 そう思うのに離れられないのはもはや依存に近いのかも知れない。

 そろそろ自分も帰ろう。ベンチに置いたままになっていたカバンを取りに行く莉子の耳に、誰かの足音が聞こえた。

 一瞬、もしかしたら真凜たちのうちの誰かが戻ってきたのかも知れないと身構え、そして慌てて笑顔を作ると振り返った。無視した、なんて言われたら何をされるかわかったもんじゃない。最悪、そんな些細なことがきっかけでグループを追い出されることだってあるのだから。

 けれど、振り返った莉子の視線の先にいたのはクラスメイトの染井そめい悠真はるまだった。話したことはないけれど、真凜たちがカッコいいと騒いでいたのを知っている。莉子は興味がなかったので「そうなんだ」としか思わなかったけれど、密かに上級生にも染井を好きな人がいるとのことだった。

 確かに整った目鼻立ちをしている。読者モデルをしているなんてことを真凜が言っていたけれど、そういう噂が流れても不思議じゃないなと思う。顔立ちだけじゃなく、髪型や纏う雰囲気がそう思わせた。

 こんなところで話しているのが知られたりなんかしたら、何を言われるかわからない。それこそあることないこと言われ、悪者に仕立て上げられてしまう。

 気付かなかったふりをしよう。向こうもこちらには気付いていないかも知れないし。

 莉子はカバンを手に取ると俯いたまま染井の隣を通り過ぎた。いや、通り過ぎようとしたはずだった。なぜか腕を掴まれた莉子は、思わず足を止めた。


「……なに?」

「三橋こそこんなところで何してんの?」

「別に。用がないなら手、離して」


 一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。冷静に淡々と話すけれど心臓は凄い音を立てて鳴り続けている。染井にドキドキしているのではない。こんな姿を誰かに見られたらと不安でいっぱいなのだ。

 けれどそんな莉子の様子になんて気付くことなく、染井は腕を掴んだまま話し続ける。


「あのさ」

「なに!」


 苛立ちを隠すことができず声を荒らげた莉子に、染井は不思議そうに首をかしげた。


「泣いてやめてって言えばやめてくれるのに、どうして泣かないの?」


 一瞬、言われた言葉の意味が理解できなかった。ゆうに10秒は経ち、どこか遠くで帰宅を促す音楽が流れてきた頃、ようやく莉子は染井の言った意味がわかった。


「覗きなんて悪趣味だね」

「たまたまだよ」

「へえ。……言っとくけど、あれ別に虐めとかじゃないから。いじりっていうかなんだろ、友達同士でじゃれ合っているだけっていうか」


 庇わなきゃ。隠さなきゃ。あの場に虐めなんてない。そんなものは存在しない。そうじゃないと今度は莉子の番かもしれない。

 あんな目に遭うのは、絶対に嫌だ。

 けれど、染井は莉子の言葉なんてこれっぽっちも信じていないようだった。


「先生に相談はしないの?」

「だから――」

「さっきの、動画に撮ってるって言ったらどうする?」


 染井の言葉に、莉子は頭の中が真っ白になるのを感じた。まるで耳鳴りのような音が鳴り響く。こういうとき冷や汗を掻くんだと思っていた。けれど、現実は頭の中がだんだん冷たくなり、全身はまるで発熱の時のように熱くなった。

 口を開けるけれど、上手く言葉が出てこない。動揺を悟られないように必死に息を吸うと、莉子は絞り出すようにして声を出した。


「嘘、だよね」

「どうだろ」


 けれど、どうにか絞り出した莉子の言葉を、染井は肩をすくめるようにして返答をぼかす。ふっと笑う染井の姿に苛立ちさえ覚える。

 声を荒らげそうになるのを必死に堪えると、莉子は口を開いた。


「何がしたいの」

「ね、そんなことよりさっきの質問に答えてよ。どうして泣かないの?」

「別にそんなこと」


 あんたに関係ないでしょ、そう吐き捨ててしまいたかった。けれど、機嫌を損ねて撮っているかも知れない動画を先生に見せられたりどこかに公開されることは避けたい。

 少し悩んだあと、莉子は渋々口を開いた。


「泣かないんじゃなくて、泣けないの」

「知ってる」

「は?」


 反射的に染井の顔を睨みつけてしまう。けれどそんな莉子のことを、染井はなぜか優しい瞳で見つめていた。

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