第11話
結局その日、染井は律儀に休み時間になるたびに莉子の席までやってきた。そのたびに謝ろうと思うのだけれど、木内や井原、大城と言った面々が誰かは一緒にいて二人きりになることができなかった。次こそは、次の時間こそは。そう思うのに、謝れないまま気付けば昼休みになっていた。
昼ご飯も美春と食べるという木内以外の三人と一緒に食べることになった。染井の一つ前の席に座り机を後ろに向ける。井原と大城も同じように机を向けるとそれぞれ弁当だったり買ってきたパンだったりを並べた。
莉子も持ってきた弁当箱を開ける。朝少しそわそわしながら詰め込んだ、いつもより多めのおかずが見える。
冗談でも「食べる?」なんて聞くことはできず、無言のままそれを口の中に押し込めていく。
昨日の夜、美味しく食べたはずのハンバーグは、まるで砂を噛んでいるかのように何の味もしなかった。
別に、染井に無視をされているわけじゃない。普通に話しかけてくれるし優しく微笑んでいる。けれどその言葉に、笑みに距離を感じる。
やっぱり一度きちんと謝ろう。放課後、きっと一緒に帰ろうって言ってくれるはずだから、二人になったらそのときは謝って、それで。
莉子はホームルームが終わり、席を立つことなく染井を待った。「一緒に帰ろう」と、きっと誘ってくれるはずだと。
視界の端で染井が荷物を持って立ち上がったのが見える。一歩、また一歩と莉子へ近づいてくる。心臓が痛いぐらいにうるさい。
「ごめん」って言うだけなのに、どうしてこんなにも緊張しているのだろう。
染井が近づいてくるのに気付いていないふりをしながら、莉子は帰る準備をする。そして、染井が莉子のすぐ後ろに立った。けれど――。
「じゃあ、また明日ね」
「えっ……」
当たり前のように莉子のそばを通り過ぎようとする染井に、莉子は思わず声を上げた。自分を見上げる莉子に染井は不思議そうに首をかしげる。
「どうかした?」
「えっと、あの、もう帰るの?」
「ああ、うん」
表情を変えることなく、ただ少し辺りを見回してから染井は莉子にだけ聞こえるぐらいの小声で言った。
「今日、病院なんだ」
「あ……」
「だからまた明日ね」
「あ……」
それ以上何も言えず黙り込んでしまう。莉子を見つめていた染井は少し考えたような素振りの後「ああ」と声に出した。
「もしかして、教室で一人になるのが不安?」
「え?」
「そうだよね。もう帰れる? 校門のところまで一緒に行こうか。気付かなくてごめんね」
染井が悪いことなんて一つもないのに、申し訳なさそうに言うから莉子は必死に首を振る。「行こうか」と言う染井に頷くと、莉子は急いで立ち上がった。
染井と並んで教室を出る。廊下にいた他のクラスの生徒が、莉子と染めの姿を見て何かを囁き合っていた。きゅっと胃の奥が痛くなる。それでもなんとか気にしないように、そちらに視線を向けないように通り過ぎていく。
姿が見えなくなってようやく小さく息を吐いた。
「はぁ」
そんな莉子の目に開きっぱなしになっている教室のドアが見えた。近づくにつれ、教室の中から真凜たちの声が聞こえてくる。心臓が嫌な音を立てて鳴り響くのがわかる。何を言われているのかが怖くて不安で仕方がない。
見ない方がいい、そちらに視線を向けない方がいい。そうわかっているのにどうして吸い寄せられるようにそちらを見てしまうのだろう。
呼吸がどんどん浅くなっていく。
「はっ……はっ……」
短い呼吸を繰り返すうちに頭がくらくらしてくる。このままでは廊下に倒れ込んでしまう――。
ぎゅっと目を瞑って覚悟を決めた。けれどそんな莉子の手を、染井がぎゅっと握りしめる。
何も言わないけれど、染井の手のひら越しにぬくもりとそして鼓動の音が伝わってくる。莉子よりもあたたかくて、莉子よりも早い鼓動の音がなぜか妙に心地いい。
染井のぬくもりを、心臓の音を感じているうちに、次第に呼吸が落ち着いてくるのを感じる。少しずつ体内に取り込まれる酸素の量が増えると、ぐらついていた視界もだんだんとクリアになっていった。
「大丈夫?」
「だいじょ、ぶ」
心配そうな視線をこちらに向ける染井になんとか頷くと、莉子は一度二度と深呼吸を繰り返した。うん、もう大丈夫だ。
それでもやはり周りからの視線が怖くて、莉子は俯いたまま歩き続けた。
「それじゃあ、ここで」
「え……?」
染井の言葉にハッとして顔を上げる。いつの間にか外に出てきていたようで、そこは校門の前だった。
「あっ」
引き留める間もなく染井は立ち去っていく。謝ろうと思っていたはずなのに、小さくなる後ろ姿を見送ることしかできなかった。
莉子は染井の背中が見えなくなるまでその場から動けずにいた。
「いたっ」
「あ、ごめーん」
クスクスと笑いながらぶつかって来た人に見覚えはなかった。もしかしたら上級生なのかもしれない。
ぶつかられて痛む肩を押さえながら莉子はとぼとぼと歩き出す。以前は当たり前のように一人で歩いていた道のりなのに、なぜだかぽっかりとした気持ちになるのはどうしてだろう。隣に染井がいないことを、妙に寂しく感じるのはどうしてだろう。
翌朝、いつものように準備をして学校に行くため玄関に立つ。この数日も朝、学校に行くときは気が重かった。けれど、今日は余計に重い気がする。ううん、気のせいじゃないのはわかっている。染井のことを考えると胸の奥がずんと重くなる。
自分が悪いのなんて百も承知だ。昨日、本当はちゃんと謝りたかった。謝るべきだった。けれど、なかなか二人きりになれず、ようやくなれた帰り道も染井が病院に行くために校門までしか一緒にいられなかった。あれでは謝るなんて無理に決まってる。
「はぁ」
莉子がため息を吐くよりも早く、すぐそばで別のため息の落ちる音が聞こえた。振り返ると、そこには暗い顔をした夕雨の姿があった。
「どうしたの? 元気ないけど」
「……別に」
「熱でもある? 具合悪い?」
「……ちょっとしんどい」
「風邪かな。今日は休んでおく?」
今日はたしか、母親は夜勤のはずだから日中は家にいるはずだ。夕雨のことを病院に連れて行ってもらうことも、病院に行くほどじゃなければとりあえず家にいてついていてもらうようにして。授業が終わってすぐに家に帰れば、一人になる時間は1時間ほどだからなんとかなるだろう。
今日の予定を考えていると、莉子のスカートの裾を夕雨が引っ張った。
「夕雨?」
「……ごめん、ウソ」
「嘘?」
「うん……。具合悪いって、ウソなんだ。ごめんなさい……」
謝る夕雨の顔は真っ青だった。具合が悪いのでなければ、心理的な物だろうか。そういえば、昨日は珍しく晩ご飯を残していた気がする。自分のことで精一杯で気にかける余裕はなかったけれど、もしかしたら何かあったのかもしれない。
莉子は玄関の段差に腰をかけると、夕雨の隣に並んだ。
「そっか。じゃあ元気なんだね?」
「うん……」
「ならよかった」
「え?」
莉子の言葉に、夕雨は驚いたように言うと顔上げた。
「怒らないの?」
「何を?」
「ウソついたこと」
不安そうな表情で見つめる夕雨の手を莉子はそっと握りしめると、優しく微笑みかけた。
「怒らないよ。だって夕雨は嘘をつくことが悪いことだってわかってるでしょ。それでもつこうとしたってことは、その嘘は夕雨にとって必要な嘘だったんだよ」
「僕にとって、必要な、ウソ」
夕雨は莉子の言葉を繰り返すと、何かを思い返すかのように目を閉じた。そして。
「僕ね、ともくんとケンカしたんだ」
「ともくんと?」
それは保育園から付き合いのある夕雨の幼なじみの名前だった。0歳児クラスから一緒にいるため友人というよりは兄弟同然のように育ってきた。いつだって仲良しで、一年生になったときも「ともくんが一緒なら安心だね」と母親とも言っていたのだけれど。
しょんぼりとしたまま夕雨は莉子の隣に膝を抱えるように座った。
小学生になって大きくなったような気がしていたけれど、こうやっていると小さくて可愛いままだ。
「そっか。それで学校に行きたくなかったんだね」
「うん……」
「ちなみにケンカの原因は?」
「……言いたくない」
言いたくない、か。
そういうこともあるだろう、と思うと同時に、理由がわからなければ解決のしようがなくて困ってしまう。
「でもね、ともくんが悪いんだ。僕は悪くないよ。だから」
「そうなの? ともくんだけが悪いの? 夕雨は何も悪くないの? 絶対?」
莉子の言葉に、夕雨が言葉に詰まったのがわかった。
膝に額をつけるようにして俯く夕雨に莉子は優しく話しかける。
「ケンカにね、どっちかだけが悪いなんてことはないんだよ」
「……でも」
「それが友達同士ならなおさらだよ。夕雨は本当に何も悪くない? ともくんに何か嫌なことを言ったり悪い言葉を使ったりしなかった?」
「…………し、た」
消え入りそうな声で、夕雨は言う。ぎゅっと膝を抱き小さくなった夕雨の頭を莉子は優しく撫でた。
「ちゃんとともくんと話をした方がいいよ」
「でも、もう許してくれないかもしれない。怒ってて僕のことなんて嫌いになったかもしれない!」
初めての喧嘩に、どうやって仲直りをしたらいいのかわからないのだろう。そしてそれはきっとともくんも同じだと莉子は思う。それなら。
「いいこと教えてあげよっか」
「いいこと?」
「そ。喧嘩したときはね、仲直りをするためには謝るの」
「何それ、当たり前じゃん」
唇を尖らせる夕雨に莉子は小さく笑った。
「そ、当たり前。でも、今の夕雨はそれができてないでしょ」
「あ……」
「仲直りはね、したいなって思った方がしようとしないとできないんだよ。このままともくんとずっと喧嘩したままで夕雨はいいの?」
「……やだ」
「じゃあ、勇気出さなきゃ」
一瞬の躊躇いのあと、頷いたかと思うと夕雨は立ち上がり靴を履いた。
「僕、ともくんに謝ってくる! いってきます!」
「あ、夕雨! ランドセル!」
「忘れてた!」
莉子の言葉に慌てて靴を脱ぎ捨てリビングへと戻ると、ランドセルを背負って駆けてくる。
そして「いってきます!」と言い残し家を飛び出していった。
きっと夕雨とともくんなら大丈夫だろう。莉子は二人のいつもの姿を思い出し小さく笑う。きっと放っておいてもそのうちあの二人なら仲直りしただろう。それでも夕雨のしょんぼりとした顔を見たくなくてつい余計なことを言ってしまった。
「仲直りするためには謝る、か」
自分のことを棚に上げて、よくもまあ偉そうに言ったものだと自嘲気味に笑ってしまう。夕雨にはあんなふうに言ったくせに、自分は今もこうやって謝らないまま逃げているというのに。
本当はわかっている。これが夕雨とともくんとの間に起きた喧嘩よりももっと単純でもっとたちが悪いってこと。
莉子と染井の間に起きたのは喧嘩ではない。莉子が一方的に染井を傷つけた。ただそれだけだ。
言ってはいけない言葉を言った。それなのに、謝ることもせず挙げ句の果てに……。
「最悪」
自分が悪いと言いつつ、染井に責任転嫁しようとしている自分に気付いてしまう。全て人のせいにして逃げているだけじゃないか。
本当は勇気が出なかっただけだ。傷つけたことはわかっていたのに、謝る勇気が出なくて、逃げて逃げて、それで拒絶される。
結局、明日音を失ったあのときから莉子は何一つとして成長していないのだ。自分に甘く、都合の悪いこと嫌なことから逃げているだけ。こんなんだから、誰もかれも莉子のそばからいなくなるんだ。
「……謝らなきゃ」
もしかしたら染井はもう許してくれないかもしれない。昨日のように上辺だけで笑ってくれることはあっても、一昨日二人で展望台に行ったときのように心の内を見せてくれることはもうないのかもしれない。
それでもきちんと謝りたい。傷つけたことを謝って、それで。
莉子は立ち上がると玄関のドアを開けた。もう足は、心は重くなかった。
「……え?」
一瞬、何が起きているのか理解できなかった。莉子が玄関を出て門の外へと向かうと、そこには当たり前のように塀にもたれかかる染井の姿があった。
「おはよ」
「おは、よ」
染井は当たり前のように挨拶をして「行こうか」と歩き出す。あまりにも昨日と同じで、拍子抜けをしてしまう。もしかして怒っていると思ったのは莉子の気のせいだったのだろうか。もしくは昨日は怒っていたけれど一晩寝たら怒っていたことを忘れてしまうタイプ、なのだろうか。
――それならもう、このままでもいいのかもしれない。
一瞬、そんな考えが頭を過った。けれど、そんなことを思ってしまう自分が情けなくて腹立たしくて、大っ嫌いだ。
結局、染井に悪いことを言ったと思っているからじゃない。自分の保身とそれから自分自身が楽になる方を選ぼうとしているだけだ。
「染井」
「ん?」
莉子の呼びかけに、染井は振り返る。優しい笑みを浮かべていたけれど、莉子の顔を見て真顔に戻ったのがわかった。
「あの、ね」
「……うん」
「えっと、私……」
怖い。
きちんと自分の感情を人に伝えるというのはこんなにも怖いものだっただろうか。夕雨にあんな偉そうなことを言ったのに、まっすぐに誤りに行けた夕雨の方が莉子よりもずっとしっかりとしているじゃないか。
「っ……」
ぎゅっとスカートを握りしめると、莉子は頭を下げた。
「ごめんなさい」
「…………」
「昨日、あんなこと言って、ごめんなさい」
声が震えないように必死だった。固く握りしめすぎたせいで握りしめたスカートがしわになっているのが見える。それでも手を離すことはできなかった。
染井は莉子の目の前で黙ったまま立ち尽くしていた。染井が何も言うことなく莉子を見つめているこの時間がまるで永遠のように長く感じた。
「……いいよ」
「あ……」
その声色が優しくて、莉子は思わず顔を上げた。そこには微笑みながら莉子を見つめる染井の姿があった。その姿に思わず見惚れてしまう。
染井は、こんな顔をしていたのだろうか。顔なんて何度も見たことがあるはずなのに、今まで見ていた染井とは違って見える。
「莉子?」
「あ、え、えっと」
あまりにも見つめ返しすぎたせいか、染井は不思議そうに首をかしげる。恥ずかしさから慌てて目を逸らすと、莉子は歩き出す。
「ほ、ほら。急がなきゃ遅刻しちゃうよ」
ごまかすように言う莉子の背中に染井の噴き出したような笑い声が聞こえた気がしたけれど、気付かなかったふりをして莉子は歩き続ける。
「待ってよ、一緒に行こうよ」
莉子を追いかけると、染井は並んで歩き出す。隣に染井がいる。それをこんなにも心地よく感じるなんて、どうして……。
自分の中に芽生え始めた感情の正体に、莉子はまだ気づけずにいた。
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