第10話

 染井の席の周りには、何人かの男子たちの姿があった。突然、莉子を連れてきた染井に対して揶揄うでもなく「おかえりー」と出迎える。


 染井も莉子のことを何か説明することなく、当たり前のように染井の一つ前の席の椅子を反対に向けると、自分と向かい合うようにして莉子を座らせた。この席は、誰の席だっただろうか。勝手に座っていても大丈夫なのだろうか。不安に思う莉子に「大丈夫だよ」と染井は優しく言った。


「そこの席のやつ、今日休みだから」

「そうなの?」


 莉子が尋ねると「な?」と確認するように周りの男子に声をかける。男子たちは染井の言葉におかしそうに顔を見合わせた。


「そ。昨日の放課後、木登りしてて落ちてさ今日は病院に行くらしいよ」

「バカだよな」

「骨は折れてないといいけど」

「木に引っかかった風船なんて放っておけばいいのにさ」


 男子たちは休んでいるという友人に対して揶揄するような言葉を投げながらも、声色はどこか心配そうに聞こえる。言葉の上では心配しながらも実際、腹の中では笑っている真凜たちとは正反対だ。


 友人、というのはきっとこういう間柄のことを言うのだろう。で、あれば真凜たちと莉子はどういう関係だったのだろう。考えれば考えるほど気持ちが重くなる。


「にしても、女子ってこえーのな」

「聞こえるぞ、井原」


 井原と呼ばれた男子が、莉子の頭上越しに教室の前方に視線を向け肩をすくめる。


「だってさ、さっきからずっとこっち睨んでんの。で、僕が向こう見たらにこって笑うんだぜ。なにあの使い分け。ホント怖いんだけど」

「うちも姉ちゃんいるから知ってるけど、女子は怖いよ」

颯太そうたのみーちゃんもあんなかもしんないぞ?」

「みーちゃんは違うから! 絶対!」


 颯太、と呼ばれた男子は慌てて否定する。話しについていけない莉子に、染井は小さく笑った。


「こいつ、木内颯太。わかる?」

「え、それ僕の前で聞いちゃう? わかんないって言われたら泣くよ?」

「えっと、あの、うん。わかるよ。大丈夫」

「よかったぁ」


 木内はホッとしたようにその場にしゃがみ込む。その態度が妙に可愛くて思わず笑ってしまい慌てて口元を押さえる。気を悪くさせていないだろうか。


 けれど、不安がっているのは莉子だけで周りは憚ることなく木内を笑っていた。


「で、さっきのみーちゃんってのが上野のこと」


 言われてようやく、みーちゃんが誰かわかった。上野うえの美春みはるは、別のグループの女子だ。明るくてよく笑う印象がある。一度真凜が「美術部じゃなかったらうちのグループに入れてあげたのに」なんて言っていたのを覚えている。


 そうか、美春は木内と付き合っていたのか。教室で一緒にいるところを見たことがないから気付かなかった。


 話を聞くと、彼女がいるのは木内だけで他の二人、井原と大城にはいないらしい。染井だけでなく三人もそこに莉子がいることを邪険にすることなく、かといって気を遣っている感じでもなく、自然に接してくれる。


 女子とは、真凜たちとは違う空気感にホッとする。それと同時に、背中に感じ続けている視線が気になる。先程、木内も言っていたけれど、今もなおこちらを見ているのだろうか。木内は怖い、と言っていたけれど本当にそうなのだろうか。もしかして、莉子のことを気にして見てくれているのではないだろうか。


 和気藹々と話す染井たちを見ていると、ホッとすると同時に不安が襲うのだ。このままでは本当に莉子は居場所を失ってしまうのではないか。ぬるま湯のような優しい場所を知ってしまえば、もうあの場所に帰れなくなる。帰りたくなくなってしまう。


 でも、それでは莉子の居場所はどうなるのだ。ずっと染井たちのグループに入れてもらうというのは現実的ではない。いつかきっと邪魔になるだろうし、そもそも男子のグループに莉子が入っていれば余計に真凜からの、そして他の女子からの当たりも強くなるだろう。


 だからもし、もしもあんなふうに去って行った莉子をまだ真凜が気にしてくれているのだとしたら。戻れるのだとしたら。


 ごめんねと、あれは自分の意志ではなかったのだと謝れば許してもらえるのでは――。


 淡い期待を抱いて、莉子は背中に感じる視線の先にいるはずの真凜たちを振り返った。


 一瞬、目が合った。真凜はまっすぐに莉子を睨みつけると、そのまま顔を背け隣にいた戸川に話しかけた。もう莉子のことなんて眼中に入っていないどころか、存在すらもいないものとして扱うように。


 その態度に、今さらもう戻ることはできないのだと改めて思う。これじゃああのときの明日音と同じだ。いや、あのとき明日音には莉子がいた。莉子には誰もいない。


 もうこのクラスに、莉子の居場所は――。


「見なくていいよ」


 真凜たちの方を見たまま固まった莉子の目を、染井は後ろから右手で目隠しをするようにして塞いだ。視界が真っ暗になる。けれど、染井の手のひらから伝わってくるぬくもりのせいか、その暗闇は不思議と怖くなかった。


 指先の毛細血管が脈打っているのを感じる。その鼓動の音は莉子のものよりも随分と早く感じた。

 

「見てもいいことない、というか見ない方がいい」


「わかった?」と尋ねる染井に莉子は静かに頷く。ゆっくり手のひらに導かれるように元の向きに戻る。完全に後ろが見えなくなった頃、ようやく染井の手が莉子の目から離れた。


 木内たちは目を開けた莉子を心配そうに見ていた。


「大丈夫? あんなの忘れた方がいいよ」

「それにしても。ほんっと、女子って怖いよな」

「女子でひとまとめにしちゃだめでしょ。みーちゃんとか莉子ちんみたいな子もいるわけだし」

「莉子……ちん?」


 聞き慣れない相性に戸惑い聞き返してしまう。けれど木村は逆に莉子の態度こそ不思議だという顔をして首をかしげた。


「え、莉子ちんって呼んじゃだめ?」

「ダメというか、そんなふうに呼ばれたことなくて」

「可愛いでしょ、莉子ちんって呼び方。リコピンみたいで」


 木内の言う可愛いの基準がよくわからない。リコピンって聞いたことあるけどなんだっただろうか、なんて考えているうちに、当たり前のように他の二人からも『莉子ちん』と呼ばれていた。


 愛称を付けられることに対して嫌なわけではない。けれど、今までこんなふうな呼ばれ方をしたことがなかったので少しだけ戸惑ってしまう。


 それでもそこに悪意はなく、ただただ純粋に莉子への好意しか感じられなかった。


「ここにいればいいよ」


 違う話題に移り、話をする木内たち三人をよそに染井は莉子に言う。


「俺が莉子の居場所になるって言ったでしょ」


 優しい口調で言われると、どうしてか泣きたくなった。泣けないのに、涙なんて一粒も流れ落ちないのに。


 感情がぐちゃぐちゃでどうしていいのかわからない。真剣に受け止めるのも怖くて、莉子はへらっとした笑みを浮かべた。


「な、何言っちゃってんの」


 嬉しい。ううん、嬉しくない。嬉しいなんて言わない。


 だって染井は莉子を好きなわけじゃない。ただ自分のことを好きにならない相手が欲しかっただけだ。なのに嬉しいなんて思いたくない。


 だって――。

 

「私のこと、好きじゃないくせに」

「そうだよ、知ってるでしょ」


 さらりと言われた言葉に、つい苛つく。何がそんなに苛つくのかわからないけれど、表情を変えることのない染井に何か言いたくて仕方がなかった。


「知ってるよ。……もうすぐ死んじゃうってこともね。居場所になるなんて言ったって、死んだら居場所になんてなれないじゃん」


 言ってしまってから、冷静になって、莉子は慌てて口を押さえた。このことは、他の人には秘密のはずだ。自分の感情をぶつけることに必死で、木内たちがそばにいることを忘れてしまっていた。どうしよう、聞かれてしまっただろうか。


 そっと顔を上げて木内たちの方を見る。幸い、話に夢中になっていて、莉子の声なんて聞こえてはいないようだった。


 ホッとして、染井の方を向く。きっといつもみたいに笑ってると思っていた。「まあ、そうだね」なん涼しい顔で言って。それで……。


 けれど、莉子の目の前で染井は辛そうに顔を歪めた。辛くて、苦しくて仕方がないとでも言うかのように。

 今まで見たことのない染井の表情にどうして、そんな表情をするのかわからなかった。ただ、莉子が染井を傷つけたことだへはわかった。


「……そう、だね」


 先程までの表情をスッと消すと、染井はいつものように柔らかな笑みを浮かべた。ごめんと謝るべきなのはわかっている。でも、染井の空気は莉子が謝ることを許さなかった。


 染井は笑顔のはずなのに、空気が重い。重く、苦しい。


 せっかく作ってくれた居場所を、自分で壊してしまった。優しい空気もあたたかい眼差しも、自分で壊した。


「どうかしたの?」


 無言になった莉子と染井に気付いたのか、木内が不思議そうに首をかしげる。


 染井が「なんでもないよ」と言うのと、教室に担任が入ってくるのが同時だった。


結局、何も言うことができないまま、莉子は自分の席へと戻るしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る