第三章 君の優しさに守られていた

第9話

 朝起きて、いつも通り弁当を作る。今日は昨日の夜多めに焼いておいたハンバーグときんぴらゴボウ、それから甘い卵焼き。

 切れ端を口に入れると、優しい甘さが広がる。昨日、染井が美味しそうに食べていたな。ふと思い出して自然と口角が上がる。あんなふうに喜んで食べてくれると作りがいがある。

 そういえば、作った弁当を目の前で食べてもらったのはあれが初めてだったなと気付く。どこかむず痒くくすぐったい気持ちになるのはどうしてなんだろう。


「お姉ちゃん」


 いつの間にキッチンに来たのか、隣には夕雨の姿があった。


「どうしたの?」


 尋ねる莉子に夕雨は呆れたような視線を向けた。


「これ何人前?」

「え?」


 これ、と言われ夕雨の言葉が指し示す方へと視線を落とす。そこには二人分以上のおかずが並んでいた。


「誰かの分も作ってんの?」

「誰かのって……」

「彼氏、とか」


 夕雨の言葉に、なぜか染井の姿が頭を過った。


「ち、違う!」


 卵焼きを頬張り嬉しそうに笑う染井の姿を、脳裏から慌てて追い出す。

 別に染井のために作ったわけじゃない。そう、これは、えっと。


「お、お母さんの分だよ」

「ふーん?」


 信じているのか、いないのか。夕雨は肩をすくめると回れ右する。リビングに戻ろうとしている夕雨に莉子は声をかけた。


「ねえ、夕雨」

「なに?」

「はい、あーん」


 余分に作ってしまった卵焼きを一つ摘まむと、振り返った夕雨の前に差し出した。

 一瞬、意味がわからないといったような表情を浮かべたあと、わかりやすく夕雨の顔は赤面した。


「ばっ……。ち、ちっちゃな子どもじゃないんだから一人で食べられるよ!」

「あー……」


 莉子の手から卵焼きを取ると、口に放り込む。「あまっ」なんて言いながらも嬉しそうな表情を浮かべる夕雨が可愛くて仕方がない。


「よし、じゃあ詰めるか」


 一人分にしては多すぎるおかずを母親の分の弁当箱に詰めていく。それでもいつもよりは多くて、余らせてしまっても勿体ないし、と少しだけ、ほんの気持ちだけ多めにおかずを入れて弁当箱の蓋をした。

 そのせいか、普段よりも家を出るのが遅くなってしまった。慌てて飛び出そうとして思い出す。もう別にいつもの時間に行かなくてもいいのだ。行ったところで誰も莉子を待ってなどいないのだから。


「いってきます」


 重い足をなんとか動かしながら玄関のドアを開ける。どんよりと曇っているせいで、昨日よりも気温が低く感じる。もうすぐ秋が終わり、本格的な冬になりそうだ。

 家を出た莉子は俯きがちに歩き始める。胸が苦しい。空気が重い。息を吸っているはずなのに、肺がどんどん苦しくなる。


「って、え……?」


 莉子の視界に誰かの足が見えた。見覚えのある学ランのズボンに顔を上げると、そこには塀にもたれかかる染めの姿があった。その瞬間、少しだけふっと息が楽になるのを感じた。


「おはよ」

「……おはよ」


 まさか今日もいるなんて思わなかった。戸惑う莉子を置いて染井は歩き出す。どうしようかと一瞬だけ考えて、莉子はすぐにその背中を追いかけた。

 何を話したらいいかと考えているうちに染井が口を開いた。


「昨日、怒られなかった?」

「え……あ、うん。バレなかったみたいで大丈夫だった」

「そ。ならよかった」

「心配してくれたの?」

「そりゃ、まあね」


 事もなげに染井は言うと、思い出したかのように莉子の方を向いた。


「そういえばさ、作ってきてくれた?」

「何を?」

「弁当に決まってるだろ」

「なっ……」


 一瞬、朝の夕雨との会話を思い出してしまい頬が熱くなる。違う、あれは間違えただけで別に染井の弁当を作ろうとしたわけではない。違うんだから。

 慌てて否定しようとして、けれど動揺しているように思われるのも癪だったから、莉子は一度二度と深呼吸してから何気なさを装って言葉を発した。。


「作るわけないでしょ」

「えー、なんでだよ。ケチだなー。彼氏だろ?」

「ホントの彼氏だったら作ってあげたかもね」


 そう言ってからふと気付く。今のはまるで偽物の彼女であることに莉子が不満を抱いているように聞こえたのではないか。本当の彼氏になれば弁当を作ってあげるとそう取られてしまうのではないか、と。


「あ、あの」


 何か言うべきだろうか。どうするべきか、ぐるぐると悩んでいる莉子よりも先に染井が口を開いた。

 

「だよな」


 けれど、隣を歩く染井は莉子の言葉になぜか嬉しそうな表情を浮かべる。その表情の理由がわからなくて違和感を覚えるけれど、結局そのあと何も話せないままただ無言で学校までの道のりを歩いた。


 学校が近くなるに連れ、同じ制服を着た生徒の姿が増えてきた。みんな莉子と染井の姿を見つけると何かをヒソヒソと話し指を差す。

 校門をくぐるとその視線と声はさらに酷くなる。まるで動物園の珍獣コーナーにいる動物になったみたいでいい気はしない。昇降口から中に入ると、階段の近くに立っていた女子二人があからさまにこちらを指さした。

 何を言われているんだろう。思わず俯いてしまいそうになる莉子に染井は「ねえ」と声をかけた。


「え?」

「今日の数学で当たるところなんだけど」


 立ち止まりわざとらしく身体を莉子の方に傾けると、突然数学の話を始めた染井に戸惑いを隠せない。どうしたのだろう、そう思い染井の方を見ると、ちょうど染井の身体で先程の女子たちの姿が遮られていた。

 もしかしなくても、庇ってくれた、のだろうか。

 尋ねようかどうか悩んで、やめた。その問いかけをすることを、染井が望んでいないように思えたから。

 そのまま莉子は染井と連れ立って教室へと向かった。莉子の席がすぐそばにある後ろのドアから中に入る。そっとドアを開けたつもりだった。誰も気付かないでいてほしかった。

 けれど、莉子と染井が入ってきたことがわかると、教室中の視線が注がれた。


「っ……」


 その視線から逃げるように、莉子は慌てて席に着くと俯いた。


「大丈夫?」

「……ん。だい、じょぶ」


 必死に絞り出すようにしてそれだけ言うので精一杯だ。そんな莉子に染井は何も言わず、ただ肩を優しく叩くと自分の席に向かった。

 幸い、今日はいつもより遅く学校に着いたので担任が来るまであと数分だ。それまでの時間をやり過ごせばなんとかなる。大丈夫、いつもだって真凜がいいと言うまではこうやって席で一人座っていたんだから。


「莉子」


 そう、こんな風に名前を呼ばれるまでは――。


「え?」


 聞き覚えのあるその声に慌てて顔を上げると、教卓の前のいつもの席からこちらに視線を向ける真凜の姿が見えた。

 聞き間違い、だろうか。今確かに莉子の名前が呼ばれた気がするけれどそんなわけがない。だって、真凜は一昨日あんなにも莉子に怒っていたのだから。

 真凜の声には間違いなかったから、もしかしたら莉子ではない違う子を呼んだのかも知れない。うん、きっとそうだ。

 けれど、そんな莉子の予想を覆すようにもう一度笑顔を浮かべると、真凜は莉子に向かっ手招きをした。

 

「もー莉子ってば聞こえてないの? こっちおいでよ」

「え……あ……」


 こんなとき、他の人はどんな気持ちになるのだろう。少なくとも莉子は安堵して嬉しくなって、そして。


「ご、ごめん。今行くね」


 慌てて席を立つと真凜たちの元へと向かう。いつものように集まるグループの輪に莉子は紛れ込む。

 どうやら真凜たちは今度の土日に出かける予定の場所が載っている雑誌を見ていたようだった。


「やっぱりさ、これは絶対乗りたいよね」

「えーでも、高いところ怖いよ」

「じゃあ、下で待ってる?」

「ウソ、ウソ。一緒に乗るからぼっちはやだよ」


 端から見ると楽しそうに話す真凜たちの輪の中に莉子も入っているように思うだろう。けれど、実際はそこには見えない壁のようなものがあって、その壁の向こうに莉子は行くことができない。

 それでもこの場からは離れられない。ここにいるよね、離れないよねという無言の圧量をかけられ続けている。

 ただ貼り付けたような笑みを浮かべたまま、その場に立っていることしか莉子にはできないのだ。


「はぁ……はぁ……」


 息が荒くなる。


「はぁ……はぁ……」


 胸が重く、苦しい。息を吸っているはずなのに、肺の中に空気が入っていかない。血液中の酸素がどんどん少なくなって頭がクラクラしてくる。このままじゃ倒れてしまう――。


「莉子」

「あ……」


 その声が聞こえた瞬間、まるで水の中から顔を出したかのように、肺の中に空気が入ってくるのを感じた。

 いつの間にそこにいたのか、すぐそばには染井の姿があり、莉子の腕を掴んでいた。


「え、な、なに?」

「今、莉子は私たちと話してるんだよー? 彼氏だからってそれはダメだよー」

「ね、莉子? そうだよね?」


 ここで断ればどうなるかわかっているよね、真凜の目はそう言っていた。わかっている、このままここにいれば今までと何も変わらない日々を送れることを。それと引き換えに、人の顔色を窺い、グループにいることに固執し、自分を殺して生き続ける。

 それが当たり前の頃は苦しくもなんともなかった。でも、今は。

 莉子はそばに立つ染井の姿を見上げる。その目は大丈夫だよと言っているかのようだった。


「莉子のこと、返してもらうね」


 染井は莉子の手を引くと、真凜たちのところから自分の席へと戻っていく。

 そんな莉子の背に、真凜の声が突き刺さる。

 

「あっ、莉子! あんたはそれでいいわけ?」


 真凜の問いかけに一瞬、足を止めた。けれど、莉子の手をギュッと握りしめると染井は真凜の言葉を無視して歩き続けた。莉子もその手に導かれるまま、染井の席へと向かった。

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