第8話

 日中のあたたかかった日差しが嘘のように、冷たい風が身体を冷やす。あんなに高かった日は、ずっと遠くに見える山の向こうへと沈もうとしていた。


「もうこんな時間なんだな」

「ホントだね」


 時計の針は、気付けば下校の時間を示していた。一日がこんなに短く感じたのは、そして放課後の時間が憂鬱に思わないのはいつぶりだろう。


「そろそろ帰ろうか」

「そう、だね」


 染井の言葉に頷きつつも腰は重い。非現実のような今日から現実へと帰ることを全身が拒んでいる。明日になればまた学校に行かなければならない。真凜は、他のクラスメイトたちはどんな目で莉子を見てくるのか、考えただけでゾッとする。


 あの頃、明日音は毎日こんな思いをしていたのだろうか。大丈夫? と声をかけるだけで手を差し伸べることができなかった自分を恥じる。


 当時の莉子にとって、明日音を助けることで自分たちのグループまで巻き添えを食らうことが怖かった。それだけじゃない。明日音を助けることで今度は莉子が標的にされるかもしれないことが怖かったのだと。だから明日音から目を逸らした。


 それでも明日音を完全に一人にするのは忍びなくて、そして明日音からも自分を見捨てたと思われたくなくて、人目がないところでは普通に話したし放課後、自宅で一緒に遊んだりもした。


 そんな自分を何もしないクラスメイトよりは優しいと、明日音のことを想っているとさえ思っていた。思い上がりにも程がある。


 今ならわかる。あの頃の莉子はそうすることで自分の身を守りながら、明日音を放っておこうともしない自分自身に酔っていた。優しいんだとおごっていた。

 そんな優しさ、偽善でしかないというのに。


「莉子、また暗い顔してる」

「あ、え、えっと、ごめ、ん?」


『ご』の発音で口を開けた莉子は、染井に何かを放り込まれた。


「チョ、コ?」

「そ。これから莉子が暗い顔する度に口に入れようかな」

「やめて、太っちゃう」

「じゃあ笑ってろよ」


 染井は優しく微笑みながら言った。


「莉子はさ笑ってる方がいいよ」

「……考えとく」


 莉子の言葉に頷くと染井は歩き出す。少し遅れて莉子も隣に並ぶ。

 夕暮れ時の道のりを二人で歩く。行きはあんなにも気まずかった道のりなのに、帰りはどこか寂しく感じるのはなぜだろう。


 そういえば。


 莉子は一度二度と深呼吸をして思う。

 呼吸をしても胸が苦しくならない。心臓の嫌なドキドキを感じない。高校に入ってから。ううん、明日音のことがあってからずっと感じていた息苦しさを今日は感じることがなかった。


 気付かれないように隣を歩く染井の顔を見上げる。認めたくない。認めたくないけれど、もしかしたら染井のおかげ、なのかもしれない。



「家まで送るよ?」という染井の申し出を断ると、莉子は一人自宅へと戻った。この時間なら夕雨はもう帰っているだろう。今日、母親のシフトはどうだったか。たしか、今週は日勤の日が多いと言っていた気がする。


 少しドキドキしながら玄関のドアを開けると、そこには小さな青い靴が一足あるだけだった。ホッと胸をなで下ろす。

 リビングには予想通り、夕雨の姿があった。


「おかえり。今日早かったね」

「うん、ちょっとね。宿題は?」

「もう終わったよー」


 ソファーに座る夕雨の頭を撫でてやると「やめてよ」と拒絶されてしまう。小学生になってから小さな子ども扱いされることを嫌がるようになった。もしかしたら甘い卵焼きをねだらなくなったのはそのせいもあるのかもしれない。


 莉子はふとリビングの端にある棚の上に目をやると、固定電話が光っているのに気付いた。連絡といえばスマートフォンにかかってくるのがほとんどだけれど、昔からの名残で自宅には固定電話が置かれていた。かけてくるのは役所関係やそれから――。


「学校だ」


 音量を最小にし、夕雨に聞こえないぐらいにまで下げると再生ボタンを押す。そこには予想通り高校から莉子が来ていないが風邪でも引いたのか? と、いう確認の連絡が入っていた。電話の声色からめんどくささが伝わってくる。続けられた言葉は、明日も連絡がないようであれば母親の携帯に電話をするとのことだった。


 電話機を操作しメッセージを削除すると胸をなで下ろした。どうやら今日学校をサボったことは母親には知られていないらしい。


「お姉ちゃん、何してるの?」

「なんでもない!」


 不思議そうに首をかしげる夕雨にそう告げると、莉子が自分の部屋へと向かう。

 ドアを閉め、一人きりになると今日一日のことが思い出される。楽しかった。とても、楽しかった。


 ただ二人で展望台に行き、話をしたり昼寝をしたり昼ご飯を食べた。それだけのことが、そんなのんびりとした時間がとても楽しかったのは、やっぱりきっと染井のおかげ、なのだろう。


「お弁当、喜んでたなぁ。もしもまた――」


 ふと思いついてしまった考えを必死に打ち消そうと頭を振ると、ふわっと風の匂いが漂った。それはあの展望台で包まれた、あの風と同じ匂いがした。

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