第7話

 くしゅん、という音が聞こえた気がして莉子は目を開けた。その音が自分のくしゃみの音だと気付いたのはゆうに三十秒は経ってからだった。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。まだぼんやりとする思考に、思った以上に自分が深く眠っていたことに気付き、驚く。

 普段、自分の部屋のベッドでさえ上手く寝ることができないのに、外で、そして染井の隣でこんなにもぐっすりと眠ってしまうなんて。


「あれ?」


 ようやく莉子が自分の上にブレザーがかけられていることに気付いた。染井のもののようだけれど、当の本人の姿がない。どこに行ってしまったのだろう。

 辺りをキョロキョロと見回すと、随分と遠くから歩いてくる染井の姿が見えた。


「あ、起きたんだ」


 染井は両手にココアとコーヒーの缶を持ったまま莉子の隣に腰を下ろした。


「どっちがいい?」

「……ココア」

「だと思った」


 莉子にココアと手渡すと、染井はブラックと書かれた缶コーヒーを開ける。


「そっちでよかったの?」

「もちろん。俺、甘いの苦手だし」

「私がコーヒーがいいって言ったらどうするつもりだったの?」


 莉子の問いかけに染井は目を丸くする。


「え、莉子ブラックコーヒー飲めるの?」

「……飲めないけど」

「でしょ。それに、莉子はココアが好きだから」


 当たり前のように言うと缶コーヒーに口づけた。その通りなのだけれど、言い切られてしまうと何で知ってるのと言いたくなる。……言わないけれど。

 莉子も染井に倣ってココアに口付けた。


「……甘い」


 ホッとする甘さが口いっぱいに広がる。残暑のような日差しがあったとい言えどそこはやはり11月。秋風が吹く中で眠っていたせいで思った以上に身体が冷えていたらしい。あたたかいココアは冷え切った身体を優しく温めてくれた。

 ココアを飲み干すと、中途半端に胃に物を入れたからか空腹が襲ってくる。展望台に設置された時計を見ると正午をとっくにすぎていた。お腹が空くはずだ。

 染井も同じことを思ったのか「腹減った」と隣で呟く。


「昼飯食べようよ」

「ここで?」

「そ。ほかにどこで食べるんだよ」


 まあそう言われるとそうなのだけれど。戸惑う莉子に染井は笑う。


「それにさ、なんか遠足みたいじゃない?」


 楽しそうに言うと、染井はカバンの中から菓子パンをいくつか取り出した。莉子の準備が終わるのをジッと待っている染井の視線に耐えきれず、莉子もカバンに入れていたお弁当箱を膝の上に載せた。

 蓋を開けると、朝詰めたおにぎりとおかずが並んでいる。


「……どうかした?」


 ふと気付くと、染井は莉子のお弁当の中身をジッと見つめていた。そんなに変わったものは入れていなかったはずだけれど。莉子も自分のお弁当箱に視線を落とす。

 卵焼きに唐揚げ、ウインナーに夕飯の残りのカボチャの煮付け。それから海苔巻きのおにぎりが二つ。至って普通のお弁当のはずだ。首をかしげる莉子に、染井はお弁当箱の中を指さした。


「それって、何入ってるの?」


 染井が指さしたのは卵焼きだった。


「え、ほうれん草のソテーだけど」

「へー、卵焼きにほうれん草なんて入れるんだな。緑色が見えたから一瞬、何が入ってるのかわかんなかったよ」

「昨日の夕飯の残りだけどね。勿体ないから入れちゃった。意外と美味しいよ」

「もしかして、自分で弁当作ってるの?」

「そう、だけど」


 少し驚いたように言われ、莉子はおずおずと頷いた。

 看護師をしている母親は夜勤も多く、必然的に晩ご飯と弁当は莉子の担当となっていた。弁当といっても晩ご飯の残り物を詰めることが多いのでそこまで苦ではない。なんなら、翌日の弁当分も合わせて作ってしまう日さえあるぐらいだ。それでも面倒になれば最近は冷凍食品も美味しいものが多い。朝からパスタを茹でるぐらいなら、カップに入っていて常温で解凍されるものを保冷剤代わりに入れておく方がいい。

 莉子の話を聞きながら、染井はクリームパンを頬張る。口の中身を飲み込むと、ポツリと呟いた。


「弁当かぁ」

「どうしたの?」

「や、随分食べてないなって思って。うち、母親と一緒に暮らしてないからさ」

「え、あ、そうなん、だ」


 思いがけない言葉に微妙な反応を返してしまう。離婚、だろうか。今の時代、両親が揃っていないことなんて珍しくない。

 たしか、鼠動病の話を聞いたときに両親を泣かせることが辛いと話していたはずだから死別ではないのだろう。


「そ。うち、俺が中学上がったと同時に両親が離婚してさ。俺は今、父親と一緒に住んでるの」


 莉子の予想通りだった。「そっか」と返事をする莉子に、染井はふっと笑った。


「莉子ならそういう反応するだろうなって思ってた」

「どういうこと?」

「他の奴はさ、この話聞くと『まずいことを聞いた』って顔をしてそれから『可哀想に』『大変だね』『偉いね』なんて言うんだ。別に俺にとっては昨日の晩ご飯を話すのと同じぐらいのノリなのに、勝手に気の毒がって同情されてさ。バカにすんなよってな」


 染井の言葉に莉子は小さく頷く。こういうとき気を遣われるのも気の毒がられるのも嫌な気持ちになるのだと莉子は身をもって知っていた。

 母親の代わりにご飯を作っている、と知ったときに「可哀想に」と言われるのが嫌だったから。

 莉子にとってはそれが当たり前で、家族として協力するのが当然だった。なのに、事情も莉子の気持ちも知らない人から勝手なことを言われるのは腹立たしく思うのだ。


「だから人に親が離婚したことは言わないんだ」

「なんで私には言ったの?」

「莉子は彼女だからね」


 本当の彼女でもないのに律儀なことだ。そう思いながらも、特別扱いされていることがどこかくすぐったく感じるのは、どうしてなんだろう。


「それにさ、離婚したっていっても母親も近くに住んでるんだ。だから会おうと思えばいつだって会えるしね」

「そうなんだ」

「そ。でもまあうちの母親、家事が壊滅的に苦手でさ、そもそも一緒に暮らしていたときも、手料理なんてほとんど食べたことなかったから、離婚してなかったとしても弁当なんて作ってもらえなかっただろうけど」


 染井は昔を思い返すかのように少しだけ遠い目をしていた。その表情がどこか寂しそうに見えた気がした。

 こういうとき本当の彼女だったら弁当を作ってあげたりするのかも知れない、と思う。けれど莉子は本当の彼女ではない。だからそんなことをする必要はない。ないのだけれど。

 さっき一瞬見せた寂しそうな表情が妙に気にかかって、お節介だとわかっているのに気付けば声をかけてしまっていた。


「……ね、一ついる?」


 思わず聞いてしまったものの、染井の反応が怖くて俯く。けれどそんな莉子の不安とは対象的に染井の明るい声が聞こえた。


「え? いいの?」


 その声に顔を上げるとパッと顔を輝かせる染井の姿があった。

 ホッとして頷くと、莉子は取りやすいように弁当箱を差し出す。染井は嬉しそうに手を伸ばすと、卵焼きを摘まみ口に放り込んだ。

 卵焼きを頬張る姿に、莉子は十歳年下の弟、夕雨ゆうのことを思い出す。今はもう一年生で給食があるけれど保育園に通っていた頃は、年に何度か弁当の必要な日がありその日は莉子が作っていた。甘い卵焼きが好きで、弁当の必要のない日でもねだられては作っていたのを思い出す。

 最近は言われなくなったけれど、染井が食べている姿を見るとまた夕雨にも作ってあげようと思う。それにしても、こうやって食べているのを見ると――。


「可愛いなぁ」

「ばっ……げほっげほっ」


 思わず口からついて出た言葉に、染井は咳き込む。涙目になりながらカバンの中から採りだしたペットボトルに口を付けた。


「ご、ごめん」

「いや、いい、けど。あービックリした。なに、可愛いって」


 ようやく落ち着いたのか、まだ少し咳き込みながらも染井は尋ねた。一瞬、どう取り繕おうか考えた。今までの莉子なら当たり障りのない答えを返して、なんとなく納得させてきた。でも。


「や、その、嬉しそうに卵焼きを食べている姿が弟と重なるなって思って」

「弟いるの? 何歳?」

「七歳」

「七歳……小学生と一緒かよ」


 その口ぶりがどこか拗ねたように聞こえて、莉子はもう一度笑ってしまう。染井と一緒にいると些細なことを楽しく感じるのはなぜだろう。久しぶりに心の中が明るくなるのを感じる。

 けれどそれと同時に罪悪感が莉子を襲う。自分だけがこんなふうに楽しく過ごしていいのだろうか。明日音はもうこうやって誰かと笑い合うこともできないというのに。莉子だけが楽しんでしまって、いいのだろうか。

 ぎゅっと口を結んで俯く。考えてもどうにもならないことだとわかっているけれど、それでもつい思ってしまう。あのとき自分が気づけていれば、手を差し伸べられていれば、今も明日音は生きていたのではないか、と。それなのに――。


「……え?」


 突然、隣に座っていたはずの染井が莉子の鼻を摘まんだ。どういう反応をしていいのかわからず固まってしまう。動けずにいる莉子の鼻を摘まみ続ける染井。ついに耐えきれなく鳴って莉子は口を開いた。


「何をする……んぐっ?」


 その瞬間、莉子の口に何かが押し込まれた。サクサクとしたそれは、先程まで染井が手に持っていたメロンパンだった。反射的に咀嚼し甘さに顔がほころぶ。


「美味いだろ、それ。甘くて美味いもの食べて幸せな気持ちになっているときは、ネガティブなことなんて考えられないんだから、しんどくなったときほど甘い物食っとけ」

「何それ」


 染井の言葉に思わず笑ってしまう。けれど、染井はそんな莉子を優しく見つめていた。どうしてそんな目で見つめてくるのだろう。その視線が、莉子を妙に居心地悪くさせる。


「あの、えっと」

「どうしたの?」


 何か言わなくては、と口を開くものの美味く言葉が出てこない。何か、何か……。ふと、自分の手の中に食べかけのメロンパンがあることに気付いた。

 そういえば、これどうしよう。返した方がいいのか、いやでも食べかけを返すというのもどうなのか。それなら食べてしまう? 少し悩んでそれから膝の上に置いたままになっていた弁当箱の存在に気付く。

 自分の思いつきに、不安になる。もしかしたら迷惑だと思われるかも知れない。同情していると、怒られるかもしれない。でも、さっき莉子の作った卵焼きを嬉しそうに食べていた染井の姿を、どうしてももう一度見たいと思ってしまった。


「あの、さ。えっと、メロンパン、ありがとう」

「ん? いいよ、メロンパンぐらい」

「や、でもこれ私が食べちゃったら染井、足りないんじゃない?」


 莉子の言葉に染井は少しだけ困ったように頭を掻きながら笑う。言うなら、今だ。

 ぎゅっと弁当箱を握りしめると、染井に差し出した。


「だから、その、交換、しない?」

「交換? 何と」

「メロンパンと、私のお弁当を……」


 だんだんと自分の声が小さくなっていくのがわかる。どんな反応をしているのか、知るのが怖くて染井の顔が見えない。

 そのままの姿勢で固まっていると、頭上で染井がふっと笑ったのがわかった。


「食べていいの?」

「え、うん。交換してくれるの?」

「してくれるのったって、メロンパンとでホントにいいの? あとで返せって言っても返さないよ?」

「言わないよ!」


 前のめりになる莉子に一瞬驚いたような表情を浮かべていたけれど、もう一度笑うと「んじゃ、もらう」と莉子の手の中にある弁当箱を染井は受け取った。

 染井はおかずの一つ一つを嬉しそうに頬張っていく。莉子はそんな染井の姿を見ながらメロンパンにかじりついた。甘くて優しい味が口いっぱいに広がる。

 たしかに染井の言うとおり、甘い物を食べているときはネガティブなことなんて考えられない。甘さが脳内を幸せにしてくれる。

 ……そういえば。

 莉子はふと、染井がメロンパンの前に手に持っていたのもクリームパンだったことを思い出す。甘いのが苦手でブラックコーヒーを飲んでいた染井のはずなのに、昼ご飯として買ったのがメロンパンにクリームパン? コンビニで買ったのであれば、惣菜パンだってあったはずだ。それなのに……。

 おにぎりを口に放り込む染井の姿をそっと盗み見る。もしかすると染井も、甘いパンでネガティブになりそうな気持ちをなんとか押さえ込もうとしていたのかもしれない。

 苦手な甘い物を食べてでも、やがて来る死への恐怖を和らげようと。

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