第6話

 そこは駅から山手の方に歩いたところにある山の上の展望台だった。普通だったらロープウェイか何かで上がるぐらいの高さを階段だけを使って展望台まで上がる。体力を付けたり一緒に一つのことを成し遂げることで仲間意識を芽生えさせたりという理由があったようだけれど、ただただ苦痛だったことしか覚えていないからあの遠足は失敗だったと思う。

 でも。


「着いたよ」

「へえ。凄いじゃん」


 開けた場所から自分たちの住む街を一望――というには少し高さが足りないけれど見下ろすことができる。

 あのときも友人と二人でこんなふうにここから街を見下ろした。友人が少しだけ元気がなくなって、学校に来ない日が増えて、放課後様子を見に行ったあの日。ここに登りたい、と言ったあのとき彼女はどんな表情を浮かべていたのか今はもう思い出せない。

 笑っていたのだろうか。苦しそうだったのだろうか。莉子に何を伝えたかったのだろうか。


「莉子?」

「あ、うん。ごめん、ボーッとしてた」

「俺に見惚れてたのかと思った」

「バーカ」


 ポーズを決める染井に思わず笑ってしまう。そんな莉子を染井が優しく見つめている。

 その表情があまりにも優しくて、莉子は居心地の悪さを感じて目を逸らす。どうしてそんな表情で自分のことを見つめるのか理解できなかった。


「はー、それにしてもほんっといい天気だな」


 転落防止のための柵に手をかけ、染井は街を見下ろす。その目はどこか遠くを見つめているようにも見えた。

 染井はどうして今日、学校をサボろうと思ったのだろう。

 天気がいいから、なんてそんな理由で本当にサボるだろうか。莉子のため、そうも思ったけれどこの表情を見ているとそれだけじゃない気がしてしまう。

 あの頃、かつての友人は学校という場所から逃げるために同じ言葉を言っていた。当時紀子はそれに気付くことができずにいた。その結果、彼女は自分の命を絶ってしまった。

 もしかすると、染井も――。


「ねえ、もしかして学校に行くのが嫌なの?」

「……なんで?」


 染井はこちらを向く。その表情がどこか真剣で気まずく感じる。その目から逃げるように目を逸らすと、柵を背もたれにして寄りかかった。

 

「や、なんとなく。そう思っただけだけど」

「ふーん」


 染井は同じように柵にもたれかかると、そのまま地面に座り込んだ。莉子もマネするように隣に座る。

 そよそよと風が木々を揺らす。11月も半ばが近づいているというのに、今日はまるで残暑のような日差しで、風が心地いい。

 そのまま空を見上げて染井はポツリと言った。


「別にそんなんじゃないよ。……たださ、あと三ヶ月で死ぬっていうのに、学校行くなんて勿体ないなって思っただけだよ」


 染井の言葉に、莉子は何も言えなくなる。

 やはり、染井は本当に鼠動病なんだ。聞いていたはずなのに、頭の中でどこか現実味がなかった。それどころか、この期に及んでまだ少しだけ嘘をつかれているんじゃないかとさえ思っていた。でも、この表情を見ればわかる。染井は本当に鼠動病で、そして三ヶ月後に、死ぬんだ。

 胸の奥が重く苦しく感じる。何か、何か言わなければ。


「どう、して」

「え? 何が?」


 絞り出した莉子の言葉に染井は少しだけ不思議そうな表情を浮かべ、それから「ああ」と頷いた。


「どうして鼠動病だってわかったのかってこと?」


 先程のどうして、に何か意味があったわけじゃない。けれど染井が莉子の言葉に意味を持たせてくれたから、莉子はまるで初めからそうだと思っていたというかのように頷いた。

 真凜たちと一緒にいるときもよくこうやって頷いていた。なんとなく笑って、なんとなく同意して頷いて、そうやってやり過ごしてきた。そうすれば相手は勝手に勘違いして納得してくれたから。

 けれど、そんな莉子の態度に染井は「ホントかよ」と笑う。


「今、適当に話合わせただろ?」

「そ、そんなこと」

「バレバレだって」

 

 どうして染井には気付かれてしまうのだろう。どうして染井は、わかってくれるのだろう。


「莉子?」

「……ううん、なんでもない」

「そ? ……ま、いっか。で、なんだっけ。どうしてわかったか、だっけ?」


 莉子が話を合わせただけだというのはわかっているのに、笑いながら染井は言う。


「春にさ、健康診断あったの覚えてる? 高二に上がってすぐのやつ」


 そういえばそんなものもあったな、と莉子は頷く。学年が上がってすぐの身体測定は身長体重だけでなく心電図や尿検査などいくつかの検査があった。でも、それがどうしたというのだろう。


「あれでさ、要再検査ってなったんだ。何が引っかかったかとか教えてもらえなくて、とにかく一度大学病院で検査をって。変だろ? 親も先生も深刻な顔をしているのに、俺にはなんの説明もしてくれないの。さすがにおかしいって思うよな」


 たしかにその状況では自分の身に何か大変なことが起きているのかもしれないと、不安になっても不思議ではない。

 隣に座る染井の顔をそっと盗み見る。その表情からは何を考えているのか莉子にはわかることはできなかった。


「それでそこからこの半年、いろんな検査を受けたよ。血もいっぱい抜かれたしCTとかMRIとかとにかく色々。それで、つい先日ようやく担当医と両親が重い口を開いたって訳。さすがに俺にもう隠せないってなったんだろうな。三ヶ月後に死ぬってなったら心の準備とか、色々いるだろってな……。笑っちゃうよ」


 笑いながら言うけれど、 染井の表情は強ばって見えた。辛くないわけがない。悲しくないわけがない。なのにこの人は笑うんだ。こんなときに、笑える人なんだ。

 ……ううん、違う。笑うことしか、できないのかも、しれない。笑ってないと、こんな話できないのかもしれない。

 全部、莉子の勝手な想像でしかない。でも、きっと莉子が同じ立場でも笑ったと、思うから。


「嘘、みたいだろ」

「……うん」


 だから、へらっとした笑みを見せる染井に、莉子は頷くことしかできなかった。

 莉子もそれが病気として存在することは知っていた。けれど身近にその病気になった人はおらず、テレビの中の新病、奇病。その程度のイメージでしかなかった。

 どこか他人事のような、遠い世界の話にしか思ってなかった自分に嫌気が差す。だって、鼠動病という病名は知っていても、具体的な何かは一切知らないのだ。どれだけ自分には関係のないことだと思ってきたかがよくわかる。

 思わず俯いてしまう莉子の頭を、染井は優しく撫でた。


「そんな顔するなよ」


 隣を見ると、染井が困ったような笑みを浮かべていた。


「最初に言っただろ。俺のことを好きじゃない奴がいいんだって。莉子はさ、最期まで俺に興味がないままでいてよ。……辛い顔をさせるのなんて、両親だけで十分なんだからさ」


 その言葉に、莉子はかつての友人の、両親の姿を思い出した。友人の葬式で、悲痛な表情を浮かべ参列者に頭を下げる父親。そして棺に抱きついたまま泣き叫ぶ母親の姿を。

 子どもに先立たれ、辛く苦しい想いをする二人に「明日音ちゃんは親不孝者だ」と遺影の中で笑う友人を怒ったのは誰だっただろうか。

 確かに、残された明日音の両親は子に先立たれ辛く苦しかっただろう。けれど、先立つこの方も、同じぐらい辛くて辛くて仕方ないのかも知れない。

 大切な人に置いて逝かれるのと同じぐらい、大切な人を置いて逝くのだって辛いはずだから。

 自分で命を絶った明日音と、病で命を奪われる染井を同じにしてはいけないのかもしれない。けれど、莉子が気づけなかっただけで、あのときの明日音もこんなふうに辛く苦しかったのかも知れないと思うと、染井の姿にかつての友人を重ねてしまう。


「本当に、好きにならないまま付き合っていればいいの?」

「うん、それが一番嬉しい」

「……わかった」


 これは莉子にできる明日音への贖罪なのかも知れない。かつて明日音にできなかったことを染井にして、自分の中の罪悪感を少しでも拭おうとしているだけなのかもしれない。それでも、いいのだろうか。


「ね、今何を考えているか当ててあげようか」

「え?」

「自分の気持ちの整理のために、俺のことを利用していいんだろうか。そう思ってるでしょ」

「どうして……」


 どうしてわかったのだろう。だって、明日音の話は今まで誰にもしたことがない。なのに、染井はどうして――。


「顔に全部書いてる」

「嘘っ」


 思わず顔を押さえる莉子を染井は笑う。揶揄われたことに気付いて莉子はムッとする。そんな莉子に「ごめん、ごめん」と笑うと染井は口を開いた。


「占いと一緒だよ。それっぽいことを言っておけば、だいたいの人は自分の中の何かに当てはめて当たってると思うんだよ」


 そんなもの、なのだろうか。当てずっぽうで言ったにしてはあまりにも的を射ていて、まるで莉子と明日音の間にあったことを知っているかのようだった。

 でも、そうか。それっぽいことを言っただけ。そっか。

 かつて、自分が友人を見捨てたことを知られていたわけじゃないとわかり、莉子は小さく息を吐き出した。


「それにしても、ここ気持ちいいな」


 そう言ったかと思うと、染井はその場に寝転がる。いくらなんでもそれは、と思うけれど寝転がったまま空を見上げる染井が妙に楽しそうで、莉子はつられるように隣に寝転んだ。


「服、汚れるよ?」

「そっちこそ」

「まあ、制服じゃないし」

「だね」


 顔を見合わせて笑うと、もう一度空を見上げた。

 吹き抜けるそよ風が心地いい。いつもなら色々と考えてしまうことも、この瞬間だけは頭の中から消え落ちていく。

 そっと目を閉じると、耳には草木の揺れる音だけが聞こえ続けていた。

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