第17話
ペンギンを見た莉子と悠真は館内でお昼を済ませ、見てなかったエリアを見て回った。
「凄い、カピバラだ!」
「カピバラってさ、あのイメージが強いんだけどなんか違うよね」
たしかに、カピバラといわれるとあの有名なマスコットキャラクターを思い浮かべてしまう。けれど、実際のカピバラはもう少し大きくてもふもふとしていた。
「でも、これはこれで可愛いよね」
「まあね」
「あ、そうだ。写真!」
莉子はスマートフォンを取り出すと、カピバラの写真を撮る。ほんの少しの出来心でスマートフォンを数センチ左に寄せた。そこにはカピバラを見つめる悠真の姿があった。隠し撮り、そんな単語が莉子の頭を過る。
撮っても、いいだろうか。
きっと今ならカピバラを撮っていると思われるだけで、まさか自分を写しているなんて悠真も思わないだろう。けれど、後ろめたさがどうしても残る。
いや、やっぱりやめておこう。気付かれないようにため息を吐いた莉子を、悠真が振り返った。
突然目が合って、心臓が大きく音を立てた。
「な、なに?」
「何って撮りたかったんだろ?」
「なんで……」
どうして気付かれたのか。悠真はカピバラの方を見ていて、莉子が悠真にスマートフォンを向けたことなんて見えてなかったはずなのに。
言葉に詰まる莉子に、悠真は優しくわかった。
「わからないとでも思ったのか?」
ああ、やっぱりバレていたんだ……!
「ごめ――」
「ほら、貸しなよ。カピバラと一緒に撮ってあげるから」
「って、え? カピバラと?」
「ん? ちがった?」
悠真は「絶対そうだと思ったんだけど」とわ口元に手を当て、考え込むかのような表情を浮かべた。
「カピバラと一緒に写真を撮りたいけど自撮りするのは恥ずかしいし、かといって俺に頼むのも申し訳ない、って悩んでるんだと思ってたんだけど違った?」
どうやらカピバラにスマートフォンを向けたまま止まっている莉子に気付き、勝手に勘違いをしてくれていたようだ。首をかしげる悠真に、これで誤魔化せると言わんばかりに莉子は頷いた。
「そっ、そうなの。一緒に撮りたかったんだけど上手く撮れなくて」
「自撮りって慣れないと難しいよね」
「そうなんだよね。自分を写すとカピバラが入らないし、逆にカピバラを入れると私がフレームアウトしちゃうの」
「貸してごらん」
莉子からスマートフォンを受け取ると、そのまま莉子とカピバラの写真を撮るのかと思いきや――悠真は莉子にくっつくように身体を寄せ、右手でスマートフォンを掲げた。
「えっ、ま、なにを……」
「ほら、画面見てみて。これぐらいまで距離を離すと、後ろのカピバラも入るでしょ」
慌てる莉子を尻目に、悠真はスマートフォンを持つ手を器用に動かし、莉子と悠真、そしてカピバラが綺麗に一枚に入る構図を作り出した。
「凄い!」
「ふふっ、じゃあスマホの画面を見て笑って。ハイチーズ」
悠真のかけ声に合わせて莉子は笑顔を浮かべた。一枚、二枚とシャッター音が聞こえる。そんな莉子たちを笑う声があった。
「ねえ、見てー。高校生かな? 可愛いね」
「ホントだ。付き合いたてかな? 初々しくて可愛い」
クスクスと笑う声に、思わず視線をそちらに向ける。カップルだろうか。大学生ぐらいの男女が、莉子と悠真の姿を見て笑っていた。
けれど、莉子は笑われたことよりも二人が言った言葉の方が気になって仕方がなかった。
自分たちも、ちゃんとカップルに見えているのだ。それがなんだかくすぐったくて、嬉しくて、照れくさい。
悠真は今の話を、どんな気持ちで聞いているのだろうか。顔を上げれば悠真の表情が見えるのに、その勇気が莉子にはなかった。
「撮れたよ」
「あ……」
悠真からスマートフォンを差し出され、そういえば自撮りをしていたんだったと思い出す。「ありがとう」と受け取ったスマートフォンを操作して撮ったばかりの画像を確認した。
「っ……」
写っている画像を見て、莉子は思わず口を押さえた。カピバラをバックに、笑っているようで恥ずかしくて頬が引きつっている莉子と、その隣でいつものように笑顔を浮かべている悠真が写っていた。
普通、写真を撮れば視線はカメラに向けられる。もちろん莉子の視線はスマートフォンに向いている。けれど、悠真は違った。悠真の優しい視線は莉子に向けられていた。
その視線があまりにも優しくて泣きたくなる。こんなにも向けられる視線は莉子を思っているように見えるのに、そこにある感情は莉子とは全く違うものなのだから。
結局、二人が水族館を出たのは日が暮れ始める頃だった。入った頃はあんなにも高かった日が、気付けば海の向こうに沈もうとしていた。
「もう日が暮れるね」
「冬だもんね。前はこの時間だとまだ明るかったのにね」
海を赤く染める夕日を見ながら二人並んで歩く。少し伸ばせば手が触れる距離にいる。けれど、その距離は近いように見えてあまりにも遠い。触れられない、触れてはいけない、超えてはいけない距離。
他人が見たとき、どれだけ恋人同士のように見えたところで、決して本当の恋人にはなれない。それがこんなにも悲しいだなんて、悠真に偽物の恋人になってほしいと言われた頃は思いもしなかった。
「そろそろ帰る? 日も暮れてきたことだし」
悠真の言葉に莉子はどうしても素直に頷けなかった。もう少しだけ、一緒にいたい。あと少し、あと少しでいいから……。
「あっ」
「え?」
「あれ! 私、あれ乗りたい」
「あれって……」
莉子の視線の先にあるものを悠真が探す。そこにあったのは海に面したところに建つ小さな観覧車だった。唐突すぎただろうか。観覧車に乗りたいだなんて子どもっぽかっただろうか。ただあと少しだけ、悠真と一緒にいたいだけだったのだけれど。
黙ってしまった悠真の顔を見ることができず、莉子は精一杯の作り笑いを浮かべた。
「なんてね、変なこといってごめん! うん、そうだね。日も暮れるしもう帰ろうか」
「え、乗るんじゃないの?」
「え?」
「ああ、ほら。あそこだ。どこでチケット買うんだろうって考えてたんだよ。あそこの券売機で買えるみたいだよ」
悠真が指さす先には古びた小さな券売機があった。一枚当たり100円のチケットを乗り物によって必要な枚数分購入するようだった。観覧車はどうやら300円のようだ。
「はい、これ」
悠真は当たり前のように莉子の分もチケットを買うと手渡した。
「ま、待って。私が乗りたいって言ったんだから私が買うよ」
「いいって。300円ぐらいだし」
「ダメ! はい、これ」
財布から600円取り出すと莉子は悠真の手に握らせる。
莉子のものより骨張ってて長くて少し熱い手。このままずっと触れていたいとさえ思ってしまう。
「莉子?」
「あ、え、ご、ごめん」
怪訝そうに名前を呼ばれ、莉子は慌てて悠真から手を離す。えへへ、とごまかして見せるけれど、心臓はまるで早鐘を撞くように高鳴っている。そんな自分を気取られないように、莉子はわざとはしゃいで観覧車に向かって歩き出した。
「ほら、早く行こっ!」
悠真は莉子の様子に少し驚いたようだったけれど「仕方ないな」と笑いながら後ろからついて来る。悠真がついてくるのを確認しながら、莉子は観覧車の乗り場へと向かう。平日ということもあり、並んでいる人はおらず、悠真が来るのを待ってそのままゴンドラに乗ることができた。
子ども用に作られているのかゴンドラの中は思った以上に狭く、向かい合って座ると膝先が触れそうになる。
いや、けれどさすがに子ども用と言えどこの狭さは……。
ふと顔を上げると、悠真と目が合った。
「……狭い、よね」
「ホント狭いよね」
莉子と悠真は顔を見合わせて笑う。そこに流れる空気は優しく柔らかいものだった。夕日がゴンドラの窓から差し込んでくる。
夕日を見つめながら、悠真がどこか寂しげな表情を浮かべていることに気付いた。
「どうかしたの?」
「ん? ああ、なんかね夕焼けを見ると無性に泣きたくなるんだ。なんでだろ。そういうことってない?」
「泣きたく……」
その感情は莉子にはわからない。けれど、悠真が今辛い気持ちになっていることだけはわかる。
「夕日に嫌な思い出でもあるの?」
「どうだったかな……。忘れちゃったよ」
忘れたようには見えなかった。けれど、その表情の向こうに隠された何かを聞ける立場に莉子はない。所詮、偽物の彼女であって本物ではない。
「……そっか」
それでも、今ここにいるのは莉子だ。悠真と一緒にこの夕日を見ているのは莉子だけだから。
「じゃあさ、次から夕日を見たら今日のことも思い出してよ」
「今日の?」
「そう。私と一緒に観覧車に乗って海に沈む夕日を見たなって」
莉子の言葉に悠真は少し驚いたように目を見開いた。それから視線をゴンドラの外へと向ける。
「……狭いゴンドラで?」
悠真の声がどこか笑いを含んでいるように気付いて、莉子も何でもないふうをよそおいながら肩をすくめた。
「そう。足が当たりそうなほど狭いゴンドラで見たなって」
「ふっ……ふふっ。そう、だね」
堪えきれなかったのか、悠真は肩を振るわせながら噴き出した。そんな悠真に莉子も笑う。もうそこには先程までの寂しげな表情を浮かべる悠真の姿はなかった。
十分ほどかけてゴンドラはゆっくりと周り、そして地上へと戻っていった。先に降りた悠真は莉子に手を差し伸べる。その手をそっと取ると、莉子はゴンドラを降りた。そのまま手を離すかと思ったけれど、悠真は莉子の手を握ったまま歩き出した。
指先から莉子のものよりも早い鼓動が伝わってくる。その鼓動の音が悲しくて、莉子は悠真の手をギュッと握りしめた。
悠真の指先が少しだけビクッとなったのを感じた。けれど、それには気付かないふりをして歩く。
確かに莉子は本物ではない、偽物の彼女だ。それでも今こうやって隣を歩いているのは莉子だ。彼女のふりではなく、悠真の気持ちが莉子になかったとしても付き合っていることに変わりはないのだ。
それなら。
「あの、さ」
「どうしたの?」
莉子は緊張を気取られないように悠真に声をかける。少し声が裏返った気がするけれど、それを気にしている余裕なんてなかった。
「さっきのお土産物屋さん、もう一回見てもいいかな?」
「Tシャツ買ったところ? 何か欲しいのあった?」
「うん」
頷く莉子に「じゃあ行こうか」と悠真は歩き出す。その瞬間、繋がれた手が離れそうになった。
「え?」
「……何?」
「や、ううん。なんでもないけど」
その手を離されないように握り返した莉子に、少し驚いたような表情を見せた。莉子はそんな悠真の態度に気付かないふりをしてみせる。
彼女なのだから、これぐらいはいいでしょ。
そう思う気持ちと、嫌がられたらどうしようと不安になる気持ちが入り交じる。
そっと隣を歩く悠真の表情を盗み見るけれど、何を考えているのかわからない。悠真は今、どういう気持ちで莉子の隣を歩いているのだろう。
まったく同じ気持ちでいてくれたら、なんて図々しいことは思わない。けれど、少しでも莉子に対して好意があればいいのにと思わずにはいられなかった。
土産物屋についた莉子は悠真の手を離し、先程見ていたイルカのキーホルダーのところへと向かった。二つセットのイルカのキーホルダー。それを手に取るとレジへと並んだ。
「イルカ、ホントに好きなんだね」
莉子の手の中にあるキーホルダーを見て悠真は笑顔で言う。たしかにイルカは今までも好きだけれど、それだけじゃない。悠真と一緒に見た、今日のデートの思い出として買いたかった。
そして。
「――これ、1個あげる」
「いいの?」
土産物屋を出て、買ったばかりのキーホルダーを取り出すと、莉子は悠真へと一つ差し出した。
悠真は少し驚いた様子だったけれど、莉子が差し出したそれを受け取った。
「二頭も私が持ってても仕方ないし」
「そっか。ありがと。お金半分払うよ」
「ううん、大丈夫。今日のお礼ってことで受け取って」
莉子の言葉に少し戸惑ってはいたけれど、引く様子がないことに気付いたのか「じゃあ、もらうね」と悠真は笑った。
「これどこにつけようかな」
「私は通学カバンに付けようかなって」
「あ、いいね。俺もそうしようかな」
頷きポケットにキーホルダーを入れる悠真に、莉子は手を差し出した。首をかしげる悠真の手を取ると、莉子は自分から手を繋ぐ。
悠真はふっと優しく笑った。
「どうしたの」
「別に。彼女だったらこうするかなって」
「ちゃんと彼女してくれるんだ」
「まあそういう約束だしね」
「そっか」と呟きながら、悠真は何か思いついたように口角を上げニヤリと笑った。
「彼女ならどこまでしても許されるの?」
「どこまで……?」
悠真の言葉の意味がわからず、言われたままの言葉を繰り返す。けれど、その意味に気付いた瞬間、莉子は自分の顔が真っ赤になるのがわかった。
「ばっ、バカじゃないの!?」
「ん? 何を想像したの?」
「何も想像してない!」
焦る莉子を悠真は笑う。からかわれたことはわかったけれど、だからといって顔の赤みがすぐに引くわけではない。「もう!」と、繋いだ手を振り払おうとしたけれど、悠真の手が莉子の手のひらをぎゅっと握りしめて離さなかった。
文句を言おうと隣を歩く悠真を見たけれど、その表情が妙に楽しそうで莉子は何も言えなくなる。
結局、改札で別れるまで、手は繋いだままだった。
「また明日学校で」そう言って改札前で別れたあと、莉子は一人自宅に向かって歩き出す。
「……寒い」
海沿いにある水族館にいた頃よりも、今の方が寒く感じるのはきっと、すぐそばにあったはずのぬくもりがなくなったせい。
吹きすさぶ風の中、コートのポケットに手を入れると自宅への道のりを急いだ。ポケットの中でぎゅっと手を握りしめると、先程まで感じていたぬくもりをかすかに思い出せる気がした。
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