第18話

 翌日、並んで学校に行く途中、莉子は悠真のカバンへと視線を向けた。そこには昨日買ったイルカのキーホルダーが。莉子は自分のカバンに付けたペアのイルカをそっと握りしめる。なんとなく気恥ずかしくて悠真の方を見ることができない。


 けれど、こんな些細なことがとても嬉しい。嬉しくて仕方がない。莉子は思わず頬が緩んでしまう。そしてそんな莉子の態度に目敏く気付いたのが――。


「おはよう、りこちん。何かあった?」


 教室に着いて席に座った莉子に、一つ前の席から美春が声をかけた。


 12月になって席替えをした結果、莉子は窓際の左から二列目、前から三番目の席になっていた。そして、一つ前の席は美春だった。ちなみに美春の隣は悠真だ。少しできすぎのような席順に「何か仕組んだ?」と聞きたい気持ちをぐっと堪えたのを覚えている。


 そんな美春が莉子の方を振り返ってきた。

 

「何かって?」

「んー、なんか朝からご機嫌だったから」

「そ、そうかな」


 莉子はカバンに付けたイルカのストラップへ一瞬、視線を向ける。頬が緩みそうになるのを必死に堪えた。そんなにもわかりやすいのだろうか、と少し落ち込みそうになる。けれど、美春が笑っていることに気付いた。


 これはもしかして……。


 実際に莉子の表情がどうだったか、はわからない。けれど美春の態度から当てずっぽう、というよりは、からかおうとしていたのが伝わってくる。


 嵌められてたまるものか、と莉子は素知らぬ顔をして首をかしげてみせた。けれど、そんな態度を取る莉子を美春は余計に笑った。


「なに?」

「ふふ、りこちん可愛い。あとね、朝からご機嫌だったのはりこちんだけじゃないよ」


 美春の視線は隣の席の悠真へと向けられている。莉子にはわからなかったけれど、悠真も機嫌がよかったと美春は言う。本当、だろうか。もしかして、悠真も莉子と同じように――。


 ううん、もし悠真の機嫌がよかったのだとしても、それが昨日莉子と一緒に水族館に行ったから、だとは限らない。


 莉子と別れてから何かいいことがあったのかもしれないし、もしくは今日の朝星座占いが1位だったのかもしれない。そういえば、悠真は何座なのだろう。誕生日はいつなのだろう。もう誕生日を迎えたのだろうか。これから祝うことは、できるのだろうか――。


「……っ」


 沈んでいきそうな気持ちをなんとか引っ張り上げる。幸い、莉子の表情が曇ったことは美春には気付かれていないようだった。


「だからさ……。って、りこちん?」

「え、あ、うん。えーっと、ホントに? 機嫌がいいのは私だけじゃないって」

「そうだよー。ほら、はるくんだってご機嫌さんでしょ?」


 でしょ、と言われてそっと悠真の方を見る。斜め前の席に座る大城と話している悠真の表情は莉子の位置からでは横顔しか見えない。今日は朝から気恥ずかしさから、マジマジと悠真のことを見ることがなかった。でも、言われて見れば、たしかに。


「ホントだ……」

「ね、二人で水族館行ったの? デート?」


 デート、という単語がどこか恥ずかしくて莉子は小さく頷いた。莉子の返事に美春は満面の笑みを浮かべる。


「いいな、いいなー。すっごくラブラブだねー」

「ラッ……。そ、そんなこと、ないよ」

「えー? そんなことなくないでしょ。羨ましいー」


 からかうような口調で美春は言う。けれど、本当にそんなことは愛乃だ。ラブラブ、なんていう関係とはほど遠い、ただお互いの利益の上で成り立っているだけの関係なのだ。美春のいうような『ラブラブ』とはほど遠い。


 そう、あのとき悠真は言っていた。


『好きになんてならないで。俺のこと嫌いなままでいて』


 と――。


 なら、莉子がもし悠真のことを好きになってしまったと伝えたら、この関係はどうなってしまうのだろう。


 悠真は莉子のことが好きで付き合っているわけではない。莉子が自分が死んだとしても泣くことがないから、悲しむことがないから付き合っているだけだ。


 そこに好きだの恋をしているだのの感情はこれっぽっちもない。


 本当に付き合っていれば、好きな人から好きだと言われるのは嬉しいだろう。けれど、悠真が莉子と付き合っているのは莉子が悠真を好きじゃないからで。あのとき付き合い始めるのは、莉子じゃなくてもよかったはずだ。


 それはつまり、莉子が悠真のことを好きになれば、悠真が莉子から離れていってしまうことを意味していた。


「ダメ……」


 どうしてデートだなんて浮かれていることができたんだろう。偽物でも彼女だ、なんて思えたんだろう。手を繋いだりして、ストラップを買ったりして、莉子の気持ちが悠真に気付かれていたらどうしよう。


 悠真の様子をそっと見る。その表情からは、莉子の気持ちに気付いているのかどうかうかがい知ることはできない。


 ――隠さなきゃ。


 この気持ちは気付かれちゃいけない。隠して押し殺して、なかったことにしなければ。そうじゃないと、きっと悠真のそばにはいられない。


 そう、思うのに――。隠さなきゃ、と思えば思うほど、視線は悠真を追いかけてしまう。悠真から目が離せなくなっていく。


 友人と話して笑う姿も、教師に当てられて困ったように笑う悠真も、授業中欠伸をする悠真の姿も、どんな姿も愛おしい。


 こんなとき、泣ければ楽だったのかも知れない。辛くて悲しくて苦しくて。そんな気持ち全部涙と一緒に流せたら、どれほどよかったか。


 けれど、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、涙は一滴も出てこない。泣けないことをこんあに辛く思ったのは、あの日から――明日音が死んだあのときから初めてかも知れない。


「――ねえ、りこちん。何かあった?」

「え?」


 そんな莉子を心配して美春と、それから杏が尋ねてきたのは昼休みになってからだった。


 席替えをしたことがきっかけで、元々美春と食べていた杏と莉子の三人で弁当を食べるようになっていた。と、言っても美春の隣の席は悠真なので、悠真たち男子グループと美春と莉子の女子グループが一緒に食べている、という構図にはなっていた。


 莉子は慌てて悠真たちの方を確認する。けれど悠真たちはゲームの話で盛り上がっているようで、美春の声は聞こえていないようだった。

 ホッとする莉子に、美春はもう一度尋ねた。


「元気ないけど、何かあった?」

「そう、かな。大丈夫だよ?」


 大丈夫そうに見えるように、莉子は笑顔を貼り付ける。感情を押し殺すのは慣れている。気付かれないように振る舞うのも得意だ。ずっとそうやって生きてきた。


 ――なのに。


 美春は莉子の手にそっと自分の手を重ねると、寂しげに微笑んだ。


「りこちん、悲しいときはね笑わなくていいんだよ」

「え――」


 そんなこと言われると思っていなくて、一瞬表情が崩れそうになる。どうして気付かれたんだろうか。いや、これも朝と同じように美春の当てずっぽうなのかもしれない。こうやって動揺すれば、やっぱり何かあったんだと言われるのかも。そんなこと美春が言うはずないと心のどこかでわかっているのに。


 慌てて取り繕うように笑顔を作り直す。


「なんにもないよ?」


 弁当に入れていた卵焼きをわざとらしく「おいしい!」と頬張ってみる。味なんていまいちわからない。けれど、笑ってさえいれば誤魔化せるとそう思っていた。


 そんな莉子に美春は小さく首を振った。


「隠そうとしてもダメだよ」

「隠そうと、してなんか」

「嘘。わかるよ。そんな顔して笑っていても全然楽しそうじゃないもん」


 美春の言葉に杏もそうだとばかりに頷く。まさかそんなことを思ってくれていたなんて思わず、莉子は小さく息を呑んだ。そんなに違うのだろうか。上手く隠せているつもりだった。なのに、二人は――。


「りこちんはね、楽しそうなときの笑顔はもっと嬉しそうなの」

「チョコ食べてるときとか幸せそうな顔してるよね」

「この間、お弁当に入れてたアスパラの肉巻きを落としたときはショックな顔してた。あー好きなんだなって思ったらりこちん可愛いなって思っちゃった」

「あとはるくんの話してるときは幸せそうな顔をしてる。好きで好きで仕方がないって顔をして――」


 最後の美春の言葉は悠真に聞かれてしまいそうで慌てて口を塞ぐ。顔が熱くなっているのがわかる。表情を取り繕えない。


 嬉しいも、悲しいも二人がわかっていてくれたことに驚きと、それから嬉しさを覚える。泣けない莉子の精一杯の強がりを、二人は気付いてくれていた。


「……ありがとう」


 もしも莉子が泣けるのなら、きっと今頃大粒の涙を流していた。そう思うぐらいには、胸の奥があたたかくて幸せだった。


 この二人と友達になれてよかった。そう思わせてくれる。


 けれど二人は莉子の言葉に顔を見合わせると、申し訳なさそうに笑った。


「お礼を言われるようなことじゃないの。だってこれ、全部はるくんの受け売りだから」

「悠真くんの?」


 どういう、ことだろう。


 莉子の疑問に答えるように美春は話を続ける。


「『莉子は泣きたい気持ちを我慢してるだけだから』『莉子の笑顔を信じないであげて』そう言ってたよ。それを聞いて、りこちんは凄く愛されてるなって思ったもん」

「悠真くんが、そんなことを……?」


 信じられなくて、思わず聞き返してしまう。美春は莉子の言葉に頷くと笑った。


「それだけじゃないよ」

「え?」

「前にね杏が休んでて一緒に体育のペアやったの覚えてる?」


 覚えていないわけがない。あの日を境に、美春とそして杏とも仲良くなることができた。あのとき声をかけて来てくれた美春には心の底から感謝しているのだ。


 そう言う莉子に美春は首を振る。


「もう時効だから言っちゃうけど、あれもねホントははるくんに頼まれたんだ。そうちゃんから頼まれたのもホントだけど、はるくんからね『莉子のこと気にかけて欲しい』って言われたんだよ」

「嘘……」

「ホント。だからね、あの日りこちんは杏が休んだから私が声をかけて来たって思ったと思うんだけど、ホントは杏が来てても声をかけるつもりだったんだよ」


「ね?」と同意を求めるように首をかしげた美春に杏は頷く。どうやら悠真は美春だけではなく杏にも根回しをしてくれていたようだ。


 守るから、とあの日言った言葉を悠真はずっと守ってくれていた。莉子の目の前で、莉子の知らないところで、莉子が悲しまないように、苦しまないように守ってくれていた。そういう約束だったから。


 なら――。


「そっか、そうだったんだ」

「うん、だからさ」

「教えてくれてありがと。あ、ヤバイ。そろそろご飯食べ終わらないと!」


 美春の言葉を遮るようにして言うと、莉子はきんぴらゴボウを口に入れた。莉子の態度を不思議に思いながらも、美春は時計を見て「まずい!」と慌てて自分の弁当箱を開けた。


「五時間目、体育なのにもうこんな時間!」


 急いで弁当を頬張り始める二人を見ながら莉子は思う。


 今こうやって二人と一緒にいられるのも悠真のおかげだ。悠真が約束を守ってくれたから。


 それなら莉子も悠真とした約束を守ろう。悠真が死ぬまで偽物の彼女としてそばにいる。そして悠真のことを絶対に好きにはならないという約束を。


 さよならの日が来るそのときまで、この気持ちを押し殺す。それが莉子が悠真にできる唯一のことだから――。


「莉子」

「え?」


 いつの間にこちらを見ていたのか、悠真は莉子に何かを差し出していた。おずおずと手を差し出すと、その手のひらの上にチョコレートを三つ積み上げた。


 あっ、と莉子が思ったときにはそれはバランスを崩し床の上に落ちていた。


「ご、ごめん」

「俺こそ急に乗せてごめんね」


 悠真は床に落ちたチョコレートを拾おうと屈む。莉子も慌てて悠真にならうと、机の下に転がっていったチョコレートに手を伸ばした。その手を悠真の手が掴む。


「あっ」

「ごめんっ」

「う、ううん」


 悠真の手が触れた箇所が熱い。悠真の人よりも早い鼓動の音があの一瞬でも伝わって来た。鼓動の早さは、鼠動病の証。一生分の鼓動の音を早々に使い果たしてしまう奇病。 


 ……何度も悠真の手に触れ、その鼓動の早さを感じてきた。そのたびに考えることから逃げてきた。悠真の向き合っている現実に目を逸らし続けてきた。


 けれど――。

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