第16話
翌日、待ち合わせをしていた駅に莉子は予定より三十分ほど早く着いた。少し早く来すぎた自覚はある。けれど、家にいてもそわそわして落ち着かなかったし、それなら早く行って待っていた方がいいと思った。
……少し、浮かれているのかもしれない。好きな人とどこかに行く、という今の状況に。
昨日も教室に着くなり美春に「何かいいことあった?」と聞かれてしまった。そんなにも表情に出やすいだろうか、と慌てて顔を押さえたらニヤニヤと笑っていたのを思い出す。
悠真が来るまでまだ少し時間があるだろう。とりあえず待ち合わせ場所の改札前に着いたら少し気持ちを落ち着かせて、それで。
「どうして……」
莉子の予想に反して、改札の前にはすでに悠真の姿があった。グレーのコートに薄手のセーター、細身のジーンズを履いた悠真は周りの女の子からの視線を集めていた。中には、莉子たちよりも随分と年上だと思うような女性まで悠真に釘付けだった。
けれど、悠真は周りの視線を気にすることなく手に持った小説、だろうか、何か本をジッと読んでいた。
今来て読み始めた、というよりは少し前からあそこにいたような雰囲気だ。今が三十分前だというのに何時からいたのか。と、いうよりもしかして。
「ご、ごめん!」
「莉子?」
慌てて駆け寄ると頭を下げた。怪訝そうな声を上げる悠真に、莉子はもう一度謝った。
「ごめんね。私、待ち合わせ時間勘違いしてたみたいで」
「え?」
「待ったよね? ホントごめんね」
十一時に待ち合わせだと思って十時半に来たけれど、きっと莉子が聞き間違えていて本当は十時に待ち合わせだったに違いない。なんであのとき聞き返さなかったんだろう。きちんと確認しなかったんだろう。今さら悔やんでも仕方ないのだけれど、それでもどうして一度ぐらい確認しなかったのかと過去の自分を怒りたい。
けれど、悠真は莉子の言葉に不思議そうに首をかしげた。
「えっと、まだ待ち合わせ時間前だから大丈夫だよ」
「え、でも」
「ああ、俺が早く来てたから遅刻したんじゃないかって思ったんだね。大丈夫だよ、俺が早く来すぎたんだ」
早く来すぎた、というには早すぎではないだろうか。いや、三十分前に来た莉子が言えることではないのだけれど、それでもその莉子より早いとなるとやはり莉子が時間を間違えていて、それを気にさせないための優しさで早く来たんだとそう言ってくれたんだと思ったほうがしっくりくる。
黙ってしまった莉子に、悠真は肩をすくめると笑った。
「今、俺が莉子に気を遣って嘘をついてるって思ってるでしょ」
「なんで……」
「わかるよ。莉子はホント顔に出やすいからなぁ」
「出やすい出やすい言わないでよ。昨日だって美春に……」
「みーちゃん?」
「っ……なんでもない! そ、それよりホントに遅れたんじゃないの? 大丈夫?」
何を言われたの、と聞かれると困るので莉子は慌てて話を元に戻した。そんな莉子の態度に悠真は首をかしげつつも「大丈夫だよ」ともう一度優しく言った。
「ホントのホント。莉子が遅れたわけじゃないから大丈夫だよ。それにもしも連絡なしで遅れてたら心配してスマホに連絡入れるよ。何も来てないでしょ?」
「あ……確かに」
言われるがままにスマートフォンを取り出す。確認してみるけれど、確かに悠真からの連絡はなかった。ようやく莉子が遅れたのではなかったのだとわかって安心した。
けれど、そうするとなぜこんなにも早く悠真は来ていたのだろう。
……もしかして、莉子と同じで今日のお出かけを楽しみにしていた、とか。
そんな淡い期待を抱いてしまう。
「どうしたの?」
「あ、ううん。えっと、楽しみだなって思って」
「うん、俺も楽しみでいつもより早く起きちゃった。子どもみたいでしょ?」
ニッと笑った顔が可愛くて、思わず頬が緩んだ莉子に「笑ったな」と照れくさそうに悠真は言った。悠真の言う楽しみが莉子の思った楽しみと全く同じじゃないことはわかっている。それでもこうやって莉子と一緒に出かけることを少しでも楽しみに思ってくれているというそれだけで嬉しく思えた。
こんな感情を自分が抱くようになるなんて思ってもみなかった。そう思うと同時にけれど、いずれは悠真の鼓動は動きを止めることを思い出して胸が痛くなる。その時が来たら莉子はどうすればいいのだろう。そのときまで、どんな気持ちで悠真のそばにいればいいんだろう。
その問いかけの答えを、今はまだ莉子自身持っていなかった。
電車に乗って十数分、莉子と悠真は臨海水族館へとたどり着いた。昔からあるそこは、カップルよりは家族連れ――それも小さい子どもを連れた人達が多かった。
悠真から受け取ったチケットで中に入ると、入り口正面に大きな水槽があった。
「これってさ、子どもの頃見たときはもっと大きく見えたのになぁ」
隣で同じように水槽を見上げる悠真がポツリと呟く。悠真の言葉に、もう一度水槽に視線を向ける。たしかに、昔両親と来たときは随分と大きく見えた気がする。けれど。
「今でも十分大きいと思うよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「そっか」と呟きながら悠真は水槽の中で泳ぐ魚たちを見つめ続ける。今、悠真は何を考えているのだろう。尋ねたい。けれど、それができる関係じゃないことがこんなにも切ないなんて。
「次、行こっか」
「……そうだね」
莉子は悠真の言葉に頷くことしかできなかった。
いろいろな魚やアザラシやアシカといった海獣、それにペンギンを見たあとお待ちかねのイルカショーへと向かった。平日ということもあり空いていて、どの席でも選び放題だった。
「どこで見る?」
悠真の問いかけに莉子は満面の笑みで答えた。
「一番前!」
「え、前がいいの?」
「え、ダメ? 前の方がよく見えると思うんだけど」
せっかく前の方が空いているのだ。どうせなら近くで見たいと思うのはおかしいだろうか。莉子の言葉に悠真は困ったように笑うと「仕方ないか」と呟いた。
「じゃあ、前の方に座ろうか」
悠真は一番前の席まで行くとステージのど真ん中へと向かった。特等席に莉子は嬉しくなる。こんないい席が空いているなんてついている。
「平日でよかったよね。休日だったらこんないい席で見えなかったよ」
「やーそれはどうかな」
悠真はどこか歯切れ悪く言う。どういう意味だろう、と考えているうちに時間になったのかイルカショーが始まった。
飼育員の笛の音に合わせてイルカがショーを繰り広げる。高い位置にあるボールをジャンプして取ったり、飼育員をプールの中から押し上げて宙に舞わしたりと、どの芸も凄かった。
「いよいよ、次がラストです!」
飼育員が観客を盛り上げていく。すでに二頭のイルカが次に行うショーのためにスタンバイしているのが見えた。最後、ということで観客の、莉子の期待値は高まっていく。いったいどんな芸を見せてくれるのだろうか。
「最後はお待ちかね、二頭のイルカによる大ジャンプです。三列目までは水がかかることがありますのでご注意ください」
飼育員の言葉に莉子は思わず隣に座る悠真を見た。
「今のって……大げさに言ってるだけ、だよね?」
「いや、多分結構本気だと思う」
「嘘……」
そうこう言っている間にも大ジャンプの準備は進んでいく。「あっ」と思ったときには遅かった。宙を舞うイルカたちが水しぶきを上げてプールの中に飛び込んだ。
「っ……」
頭から濡れることを覚悟した。このあと電車に乗ってどうやって帰ろうかとか、こんなことなら前列が空いている意味をもっと気にするんだったとか、いろんなことを考えながら水しぶきがかかるのを待つ。
けれど、どれだけ待っても水しぶきが莉子にかかることはなかった。
「おーっと、彼氏さん。ナイスファイトです!」
飼育員のからかうような声が聞こえ、莉子はぎゅっと瞑っていた目を開ける。すると、すぐそばに莉子へ覆い被さるようにする悠真の姿があった。
顔を上げた莉子と目が合うと、悠真は目を細めて笑う。
「濡れなかった?」
「なん、で」
「まあそりゃ、彼女を守るのが彼氏の役目ですし」
隣に座り直した悠真の背中は水しぶきに濡れぐっしょりとなっていた。莉子は慌てて鞄の中に入れていたハンドタオルを取り出すと、悠真の背中を拭く。けれど、濡れた範囲が広すぎてとてもじゃないけれど小さなハンドタオルなんかでは拭ききれない。
「ごめん、私のせいで」
「いいって。わかってて止めなかった俺も悪いんだし」
「でも」
「まあ幸い濡れたのはセーターだけだから、お土産物売り場ででもTシャツでも買うよ」
濡れることをわかっていたからか、悠真は上に羽織っていたグレーのコートを脱いでいた。だから気にするな、と悠真は笑った。
そのままペンギンを見に行く、という悠真をなんとか止め、莉子たちは出口そばにある売店へと向かった。
お土産物の中にTシャツを見つけると莉子は悠真に似合いそうな物を探した。
「シロクマとアザラシだったらどっちがいい?」
「なんでその二択なの」
「だって悠真くんのサイズに合うの、このどっちかなんだもん」
苦笑いを浮かべながら、悠真は莉子が手渡した二枚のTシャツを見比べる。
購買層のせいなのだろうけれど、子ども用と女性用がほとんどで男性の着られるもの、というのは数が少なかった。必然的に柄も限られてしまうのだ。
「うーん、普段使いできそうなのってどっちだろ」
「や、どっちも厳しくない?」
「強いて言うなら?」
「強いて言うなら……えー、じゃあシロクマ、かな」
本当に『強いて言うなら』だ。けれど、莉子の言葉に頷くと悠真はシロクマのTシャツを持ってレジへと向かう。
「待って、私が買うよ。私のせいで濡れたんだし」
「何言ってんの。俺が勝手に水を被っただけだから。ほら、莉子はその辺でお土産物でも見てて。すぐに買ってくるからさ」
「あっ」
止める莉子の言葉を聞くことなく悠真は一人レジへと向かう。残された莉子は仕方なく言われたとおり土産物を見ることにした。
ボールペンやキーホルダー、ストラップなど小物がたくさん並んでいる。その中で、二頭が並ぶとハートの形になるキーホルダーが目に止まった。
「可愛い……」
可愛いけれど、二頭で一つ、ということはどう考えてもペアだ。ペアのキーホルダーを買ったところで莉子に一緒につける相手はいない。二頭とも一人でつけるなんて悲しいことはしたくないし。
小さくため息を吐くと、手に取ったそれをラックに直した。
そのタイミングでTシャツを買った悠真が莉子の元へと戻ってきた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。買えた?」
「うん、買えたよ。トイレで着替えてもいいかな」
悠真に頷くと、並んで土産物売り場から出た。悠真は近くのトイレで手早く着替えると、楽しみにしていたペンギンを見に向かう。
「ペンギン、好きなの?」
「可愛くない?」
「可愛いけど、あんまり動かないから可愛さがわかんない」
泳いでいるところならいざ知らず、こうして南極をもしたスペースでジッとしているペンギンを見ると可愛いというかどこか人形染みて見えて怖い。
そう答える莉子に悠真は「あー」と頷いた。
「そっか、たしかにね。ここはさ中に入ってるけど外のスペースをペンギンが自由に歩けるところもあるんだよ」
「え、そんなところあるの?」
「アドベンチャーワールドとか行ったことない?」
「和歌山の? ないと思う」
「そっか、一度行ってみるといいよ。入り口から入ってまっすぐに歩いた先にあるアーケードをペンギンが自由に歩いたりプールのようなところで泳いだりしてるから」
いつか一緒に行こうよ、とは悠真は言わなかった。それはきっとそんな未来なんてこないことを知っているから。それとも莉子が本当の彼女だったら、夢物語だとわかっていても未来の話をしてくれたのだろうか。
「そっか」と返事をしながらも、胃の辺りがジクジクと重くなるのを感じた。
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