第四章 好きになんてならないで

第15話

 ベッドから降りて足を床に付ける。左足に体重をかけたけれど、痛みは感じなかった。


 結局、莉子の足の腫れが引くまでに一週間ほどかかった。松葉杖をつくほどではなかったけれど、足を引きずりながら歩く莉子を悠真や美春がフォローしてくれた。


 美春は友人の相川あいかわあんずが学校に来るようになってからもなんとなく莉子と一緒にいることが増え、最近では莉子を含めた三人で一緒にいることも少なからずあった。ずっと一緒にいるわけじゃない。でもほどよい距離でいられる関係は意外と心地よかった。


「おはよ」

「おはよう」


 玄関を出たところの壁にもたれかかる悠真に声をかけると、聞いていた音楽を止め視線を莉子に向ける。これももう当たり前の光景になってしまった。悠真は莉子のカバンを受け取ろうと手を差し出す。けれど莉子は首を振った。


「もう大丈夫だよ」

「ホント? 無理してない?」

「うん。心配してくれてありがと」

「ならよかった」


 悠真は優しい視線を莉子に向ける。その表情に、莉子の心臓の鼓動は早くなる。あの日、悠真の背中で自分の気持ちに気付いて以来、莉子は自分の感情を隠すことに必死だった。


 莉子と悠真は付き合っているけれど、それは契約上の関係だ。本当に付き合っているわけではない。そのときに決めた約束の中に『悠真を好きにならない』というものがある。


 好きにならないということは、好きになってはいけない、ということだ。この感情を悠真に気付かれてはいけない。気付けばきっと悠真は莉子と別れることを選ぶだろう。自分が死んだときに莉子が悲しむことを避けるために。


 莉子は隣を歩く悠真に気付かれないように、きゅっとキツく唇を結んだ。隣の悠真まで十五センチほどの距離がある。たった十五センチ。でも、今の莉子にとっては深くて遠い十五センチだった。


「そういえば最近、奥北たちからは?」

「あー、うん。大丈夫だよ」


 階段から莉子が落ちたあの日から、真凜たちが莉子に絡んでくることはなかった。突き落としたわけではないけれど、自分がきっかけで莉子が落ちたことは真凜もわかっているようで、教師に何かあったのではと思われても困ると思ったのか近寄ってくることも遠巻きに何かを言ってくることもなかった。真凜がその調子だから、クラスの中でもなんとなく莉子に対しての微妙だった空気は薄れていた。


 それでもみんな真凜に目を付けられるのが怖いのか、話しかけてくることは殆どなかったけれど。


 ……でも。


 莉子は「寒くなったね」なんて言いながら歩く悠真をそっと見る。莉子が悠真と付き合うことになったきっかけは、真凜たちにイジメまがいのことをされていたことを教師に言われないため、だった。その真凜の問題が一応は解決してしまった今、莉子を縛り付けるものはない。もし、そのことを莉子を言ってしまえば、悠真は――。


「大丈夫だよ」

「え?」


 まるで莉子の思考を読んだかのように悠真は言った。


「奥北のことが片付いたからって、この動画がある限りは、付き合ってもらうから」


 ポケットから取り出したスマートフォンをひらひらと店ながら悠真は笑う。その笑顔に安堵して莉子も笑う。最初はあんなにも嫌で仕方がなかったのに、今ではこの関係が終わってしまうことの方が嫌だなんて、こんなふうに想うようになるなんて思ってもみなかった。


 悠真は、どうして莉子だったのだろう。泣けないから、自分のことを好きじゃないから。そんな言葉を並べてはいたけれど、ほんの少し、ほんの少しだけでいいから、莉子じゃなきゃいけなかった理由、じゃなくて……莉子がよかった理由があればいいのに、と思ってしまう。


「莉子?」

「あ、う、うん。そうだったね」


 この気持ちが気付かれないように、必死に素っ気なさを装った。そんな莉子のぎこちなさに気付くことなく、悠真は「そうだ」と何かを思い出したかのように言った。


「莉子、明日って暇?」

「明日?」


 悠真に言われて、莉子は明日何があったかと考えた。けれど、特に何もない普通の平日で、朝からいつものように悠真と学校に行き授業を受けて――。


「あ、そっか。明日って創立記念日か」

「忘れてたの?」


 素直に頷く莉子を悠真はおかしそうに笑う。


「俺が言わなかったら、明日普通に学校行ってたんじゃない?」

「さすがに、それはないと思う、けど」


 学校に行けば誰かがその話をしただろうし、担任だって明日は休みだと言っただろうからそうなればさすがの莉子でも思い出しただろう。


「まあでも、休みだってこと忘れてるぐらいだから特に予定はないよね」

「そうだけど、なにか?」


 それの何が悪いのか。ムッとした表情を隠さずに言う莉子に、悠真は「じゃあさ」と頬を掻いた。心なしか耳が赤い気がする。


「その、明日一緒に出かけない?」

「え?」

「まあ、いわゆるデートってやつですよ」


 目の前で青から赤に変わってしまった横断歩道の前に立つと、悠真はポケットから少しクシャッとなったチケットを取り出した。それは二駅向こうにある臨海水族館のチケットだった。隣には小さな遊園地も併設されている小学校の遠足の定番コースだった。


「どうしたの、これ」

「父親の仕事関係で貰ったんだ。よければどう? ほら、この間イルカ見たいって言ってたし」

「あ……」


 そういえば先日の昼休み、弁当を食べながら美春とそんな話をした気がする。あんな些細な会話を覚えていてくれたというのだろうか。


「嬉しい……」


 思わず漏れてしまった言葉に、慌てて口を押さえる。けれど、ばっちり聞かれてしまっていたようで、悠真は少し驚いたような表情を浮かべたあと、ふっと優しく笑った。


「そんなにイルカ好きなんだ」

「え、あ、えっと、うん」


 勘違いしてくれたことに安堵して、莉子はぎこちなく笑った。

 本当に嬉しかったのは、莉子の言った些細な言葉を悠真が覚えていてくれたことだよ。そう伝えたいけれど、そんなことを言えば莉子の気持ちが伝わってしまうから言えない。言えないけど。


「そうなの。……大好きだから、嬉しい」

「そっか、喜んでくれたならよかったよ」


 信号が青に変わって悠真は歩き出す。その背中に伝えることのできない「好き」をもう一度だけ呟くと、莉子も追いかけるように歩き出した。

 一月半ひとつきはん前、秋だった街の装いは、もうすっかり冬のそれへと変わっていた。

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