第14話


「っ……」


 言葉にならない程の痛みが全身を襲う。


 どこかが折れているとか血が出ているとかそういうのではないことだけがせめてもの救いだった。


 誰かが来る前に立ち上がらなければ。心配されるよりも、教師を呼ばれて大事になるのが嫌だった。必死で手摺りに手を伸ばし立ち上がろうとする。


 そんな莉子の手を誰かが掴んだ。


「りこちん!」

「み、はる……?」


 顔を上げると、莉子の目の前に真っ青な顔をした美春の姿があった。どうしてこんなところにいるのだろう。そう思うけれど、上手く言葉が出てこない。


「大丈夫? 怪我は? 保健室行く?」

「だい、じょぶ……」

「絶対嘘! ああ、もう。ちょっと待ってて」

「あっ……ダメ!」


 莉子は駆け出そうとする美春の手を必死に掴む。手摺りから手を離したことで、身体が崩れ落ちそうになる。そんな莉子の身体を、美春は慌てて支えた。


「りこちん! 何やって……」

「先生には……言わ、ないで」

「っ~~。もう! 言わないよ! だからちょっと待っててね!」


 美春は莉子の身体をその場にそっと座らせて、それから一つ飛ばしで階段を駆け上がっていった。


 教師には言わないという美春の言葉に安心して、莉子は壁に背をもたれかからせた。大きな怪我はないと思ったけれど、左足が痛い。もしかすると捻挫をしてしまったのかもしれない。


 ただ階段から落ちて捻挫だけで済んだのであればそれは不幸中の幸いだろう。


 ふう、と息を吐くのと遠くから誰かの廊下を走る音が聞こえてくるのが同時だった。


 誰か、なんて見えないのに。足音しか聞こえないのに。悠真だと、そう思うのはどうしてだろう。


「莉子!」


 だからその声が聞こえたときに、ホッとするというよりも予想が当たっていてふっと笑ってしまった。


「やっぱり、悠真だ」

「何言ってんの。大丈夫? 階段から落ちたの?」

「うん、ちょっとバランス崩しちゃって」

「……ホントに? 落とされたんじゃなくて?」


 悠真の言葉に、莉子は首を振った。落とされたわけではない。結果としてきっかけは真凜が与えたとはいえ、あの場で真凜の手を振り払いバランスを崩したのは莉子自身だ。


 悠真はまだ納得しがたいような険しい表情を浮かべていたけれど、莉子が左足首を押さえているのに気付くと、心配そうに声をかけた。


「足、どうかしたの?」

「捻挫しちゃったみたいで」

「見せて。……酷いな」


 手をどけると、すでに足は腫れ始めていた。先程よりもズキズキと痛む。


「先生に言うのは嫌だって上野から聞いたけど、保健室には行った方がいいよ」

「でも……」

「奥北真凜たちの名前を出したくないのであれば、自分で落ちたって言えばいいから。とりあえず保健室で見てもらわないともしもの折れてたりなんかしたら大変だから」


 真剣な表情で言う悠真に、莉子は静かに頷いた。


 保健室に行く、と決めたのはいいけれど一つ問題がある。どうやって歩いて保健室まで行こうかということだった。


 先程、立ち上がるために左足に体重をかけただけでも激痛が走った。そんな状態で歩くなんてできるわけがない。悠真に肩を貸してもらえればなんとかなるだろうか。いや、なんとかならなかったとしてもそうする以外に方法は――。


「はい、じゃあ乗って」

「え?」


 莉子の前にしゃがむと、悠真は背中を向けた。乗って、という言葉の意味を一瞬、理解できなかった。


 や、でもこれは。まさか。


「あ、あの」

「どうしたの? 保健室に連れて行くから、ほら早く乗って」

「や、無理だよ。乗るなんてそんな……」

「何言ってるの。その足じゃ歩けないでしょ? あ、それともお姫様抱っこの方がいい?」

「おっ……」


 悠真の言葉に、お姫様抱っこをされているところを想像して顔が熱くなるのを感じる。おんぶでさえ恥ずかしいのに、お姫様抱っこなんて耐えられるわけがない。


「それはもっと無理」

「じゃあほら、諦めて早く上に乗る」

「う、ううっ……」


 どう頑張っても悠真は譲ってくれそうにない。肩を貸してくれればなんとかなるのでは、と思ったりもしたけれどそんなこと言おうものなら問答無用でお姫様抱っこをされてしまいそうな空気すら感じる。


 莉子は諦めて悠真の肩にそっと手をかけようとし、躊躇ったままその手は宙に止まった。


「お、重いよ? 潰れちゃわない?」

「それぐらいで潰れないよ。ほら、大丈夫だから」


 両手を悠真の肩に置き、どうやって体重をかけようかと悩んでいると莉子の手を悠真は引っ張った。


「きゃっ」


 そのまま悠真が立ち上がり、莉子の身体は浮かび上がる。慌てて悠真を後ろから抱きしめるような形で捕まると、莉子の足に腕を絡ませ落ちないようにしっかりと固定した。


「ホントに、大丈夫?」

「大丈夫だから、しっかり捕まってて」


 一歩ずつ悠真は歩き出す。階段を降り、保健室に続く廊下を歩いていると、近くにいた生徒が莉子と悠真を見て指を差して何かを言っているのが見えた。


 けれど、今紀子にそんなことを気にする余裕はない。自分の心臓の音がうるさすぎて周りの喧噪も何も聞こえてこない。聞こえてくるのは自分の鼓動とそれから――。


「あ……」

「どうかした?」

「ううん、なんでもない」


 背中越しに悠真の心臓の音が伝わってくる。莉子のものよりも随分と早いその鼓動の音は、悠真が鼠動病であることを嫌でも思い出させる。


 そうだ、悠真はあと2ヶ月でこの鼓動の音を止めるんだ――。


 思い出した事実は、莉子の胸の奥を重くさせる。


 つられるように莉子の鼓動の音も早くなっていく。背中には嫌な汗が伝いひやりとする。


 悠真は自分のことを好きにならないでほしいと、そう言っていた。でも……。


 辛いときはそばにいてくれて、苦しいときはいつだって駆けつけてくれる。そんな悠真を好きにならないなんて、その方が無理だ――。


 悠真の肩に回した腕に力を込めるとぎゅっと抱きしめる。


 早くなる鼓動、熱くなる身体。全身が、悠真のことを好きだと叫んでいた。


 莉子が悠真のそばにいるためには、悠真のことを好きになってはいけない。だから、この気持ちは隠すか捨てるかどちらかしかない。



 好きだよ、悠真――。



「何か言った?」

「……ううん、なんにも」


 伝えることのできない想いを届けたくて、莉子はもう一度悠真の身体を後ろからぎゅっと抱きしめた。好きだよと、ありがとうの気持ちを込めて。

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