第13話

 その日の昼休み、相変わらず自分からは行くことができず、席に座って染井が来るのを待った。染井は呆れることもなく、莉子を迎えに来てくれる。


「弁当、一緒に食べようか」

「うん」


 染井はいつも莉子に手を差し伸べてくれる。その感情がどこから来るのか莉子にはわからない。形式上だけとはいえ彼女だから優しくしてくれているのかもしれない。


 それなら、莉子はその形式上だけの彼氏に対して何かできているのだろうか。助けてもらって、手を差し伸べてもらってばかりで何も返せていないのではないか。


 体育の時間のことだってそうだ。莉子は結局こういうときいくら居場所になるっていったって何もできないではないか、染井のことをそう思ったのにもかかわらず、莉子の知らないところで美春に頼んで助けてくれていた。


「どうかした?」


 黙ったまま自分を見つめる莉子に、染井は不思議そうな表情を浮かべる。


『好きな子に名前を呼ばれて嫌がる人なんていないよ』


 不意に、美春の言葉がよみがえる。


 好きな子、じゃないことは莉子が一番知っている。染井は莉子に対して何の感情も持っていない。それでも、今の莉子は染井の彼女だ。それで、あれば。


「なんでもないよ。行こっか……悠真くん」

「そっか。……え?」


 頷きながら返事をした後、染井は驚いたように莉子を見た。その表情は困っているような、戸惑っているようななんとも言いがたい表情をしていた。少なくとも美春の言っていたような喜んでいる表情には見えない。


 喉の奥にすっぱい何かがこみ上げてくる気がする。それを慌てて飲み込むと何でもない表情を作った。


「何?」


 普通に言ったつもりだったのに、上手く声が出せず掠れたような声になってしまう。ごまかすために咳払いをしてみせたけれど、染井はそんな莉子の態度なんて気にも留めていないようで、手のひらで口元を覆うと視線を逸らした。


「どうしたの?」

「や、えっと、今、俺のこと……」

「……別に、悠真くんだって私のこと莉子って呼んでるんだから変じゃないでしょ?」

「まあ、そうなんだけど。ビックリして」


 ビックリしただけ、であれば嫌がっているわけではないのかもしれない。そう思うと少しだけ安心する。これで嫌がられでもしていたら勇気を出して名前を呼んだ意味がない。


 いや、別に名前で呼んだからといって何がどうっていうわけではないのだけれど。


 昼休みでざわついているはずの教室の中で、染井と莉子の周りだけまるで音がなくなったようにふわふわしたような、それでいてどこか気まずいような空気が流れていた。


 失敗した、のかもしれない。こんなことなら美春のいうことなど信じず、呼び方を変えたりなんてしなければよかった。


 ……いや、違う。美春は関係ない。『悠真くん』と呼んでみようと決めたのは莉子自身だ。もしかしたら喜んでくれるかもしれないと、勝手に思って期待してそれで……。


「莉子?」

「な、なに」

「や、難しい顔してたから。えっと、とりあえず皆待ってるしお弁当食べようか……?」

「あ、うん」


 難しい顔をしてるのは、染井の方でしょ。そう尋ねることはできなかった。莉子は染井に連れられるまま立ち上がると、木内たちが待つ方へと向かった。


「あ!」


 嬉しそうな声に顔を上げるとそこには美春の姿があった。体育の時間に友人が休んでいると言っていたけれど、どうやら昼ご飯もその子と食べていたらしく、今日は彼氏である木内と一緒に食べるようだった。


「こっちこっち」と手招きをされ、染井の正面ではなく美春の隣に座る。少し気まずかったから助かった。


 弁当箱を机の上に置いていると、井原のからかうような聞こえた。


「悠真、どうしたんだよ」


 染井がどうかしたのだろうか。そう思い弁当箱からそちらへ顔を向ける。けれど、染井は先程と同じくどこか難しい顔をしていた。まだ先程莉子が「悠真くん」と呼んだことに対して何か思っているのだろうか。ビックリしただけで嫌な感情を抱いているわけではないと思ったけれど、本当はもしかしたら――。


「何? りこちん迎えに行って何かしたの? そんな照れた顔しちゃってさ」

「え?」

「は? 照れてなんかねーし」

「嘘つけ。俺にはわかるぞー。その顔は、昔3組の朝美ちゃんにラブレターを貰ったときに嬉しさを隠してたときと同じ顔をしている!」


 3組の朝美ちゃん、が誰かはわからないけれど井原の言うことが確かなのだとしたら、もしかして……。


「……うるさい、それ以上喋るな」

「わ、図星か? ったく、りこちんに何をしたんだ-?」

「したんじゃねえよ」

「え、ってことはまさか!」


 井原たちの視線が急に莉子へと向けられた。その視線からあらぬ誤解を受けたことに気付き、莉子は慌てて否定した。


「ち、違う。私は何も……!」

「えーりこちんってば積極的ー。何したのー?」

「美春まで……。って、あ」


 呼び方を間違えたことに気付いたのは、美春が嬉しそうに莉子を見ていたからだった。


「ね、今私のこと美春って呼んでくれた?」

「……何、ダメだった?」

「わー、嬉しい! ねえ、そうちゃん。私もりこちんと仲良くなれたよ」

「ホントだ、よかったね」


 何がよかったのかわからないけれど、木内と美春は顔を見合わせると小さくハイタッチをしていた。このテンションにどうついていっていいのかわからない。


「それで? りこちんははるくんに何をしたの?」


 話が逸れたかと思ったのに、しっかりと美春は莉子に食いついてくる。莉子は一瞬、染井に視線を向けると苦々しく口を開いた。


「だから、一緒だよ」

「一緒って?」

「……染井にも、美春にしたように呼び方を変えたの。……その、悠真くんって」

「……それだけ?」

「それだけ! でも、美春と違って染井は喜ばなかったみたいだけど」


 あれ? でも、井原曰く先程の顔は染井の照れているときの表情らしい。と、いうことはもしかして。いや、でも井原の勘違いということも。


 ほんの少しの期待と、それからいやそんなことはないという自戒の念を込めて染井へと視線を向ける。


 自分の席に座る染井は、莉子と視線が合うと困ったように目を逸らした。


「……喜んだ、の?」

「……別に」

「じゃあ、やっぱり喜ばなかったの?」

「……そんなこと、ない」


 染井の表情は相変わらずだ。付き合いの浅い莉子には、この表情から染井が何を考えているのかまではわからない。そんなの肩を大城がトントンと叩いた。


「耳、見てみ」

「耳?」


 笑いをかみ殺しながら言う大城の言葉に、莉子は視線を染井の耳へと向けた。


「嘘……」


 染井の耳はわかりやすいほど真っ赤に染め上げられていた。その色は言葉よりも表情よりも雄弁に語っていた。


「嫌じゃ、なかったんだ」

「嫌なんて一言も言ってないよ」

「じゃあ、嬉しかったの?」

「……そりゃまあ、ね」


 相変わらずの表情だけれど、それが照れているのだとわかってしまった今となっては、逆に莉子の方が照れてしまいそうになる。


「そっか」とわざと素っ気ない言い方をする莉子を、気付けば美春たちが生温かい視線を向けていた。


「らぶらぶだねぇ」

「ホントにねぇ」


 からかうような言葉を無視して莉子は弁当箱を開ける。普段と同じ、前日の晩ご飯を詰めた弁当なのに、なぜだか今日はいつもよりも美味しく感じた気がした。



 昼食が終わり、莉子は教室を出た。担任に提出するプリントを忘れていたのと飲み物を買いたくなったから。染井――悠真が「ついていこうか?」とでもいうかのような顔をしていたけれど、井原たちと話が盛り上がっていたので静かに首を振った。


 職員室で担任にプリントを渡すと、渡り廊下にある自販機で飲み物を買い教室へと戻る。痕数段で階段を上がりきるというところで、莉子の視線の先に誰かの影が見えた。


 ぶつかるのを避けるため顔を上げると、そこには真凜の姿があった。


「…………」


 話をすることはない。莉子は真凜を除けるように階段を上がりきる。けれど、なぜか真凜は莉子の前に立ち塞がった。


「……何?」

「ね、そろそろ後悔してるんじゃない? 私たちのグループを抜けたこと」


 笑いながら真凜は言うけれど、莉子にはその言葉の意図がわからない。いったい真凜は何を考えているのだろう。


 莉子が黙ったままいるのを肯定と受け取ったのか、真凜は口角を上げると嬉しそうに笑みを浮かべた。


「まあねー、真凜もちょっと莉子にイジワルしすぎちゃったかなって反省してたの」

「え……?」


 真凜の口からそんな言葉が出ると思ってもみなくて、莉子は思わず口を呆けたまままりんの顔を見つめた。真凜は可愛い顔を悲しげに歪ませてしおらしい態度を見せた。


「好きな子にはイジワルしちゃうっていうか、莉子が他の子と仲良くするのが悲しくてついついあんな言い方しちゃったの。ホントは仲良くしたかったのに」


 そうだったの、と思えるほど莉子はバカではない。バカではないのだけれど。今にも溢れそうな涙を大きな目に溜めている真凜を見ていると、もしかしたらという気持ちが湧き出てくる。


 真凜が莉子と仲良くしたいと思ってくれていた? 本当に?


 心の中のもう一人の自分がそんなわけないでしょ、と窘める。けれど、もしかして、本当は、そんな想いをどうしても捨てきれない。


「あ……」

「ね、許してくれる? 今までのこと」

「……うん」

「よかったぁ。莉子ならそう言ってくれると思ってたの」


 真凜は莉子の両手をぎゅっと握りしめる。こんなふうに真凜の手に触れたことなど今までは一度もなかった。


「えへ、私ねヤキモチ妬いちゃったの」

「ヤキモチ?」

「そう。悠真くんと莉子が仲良くしてるのを見て、ヤキモチ妬いちゃった」

「っ……」


 そういうことか、と莉子は自分の表情が硬くなるのを感じた。結局のところ、真凜は莉子が悠真のそばにいるののが気に食わなくて――。


「あ、誤解しないでね。莉子にヤキモチを妬いたんじゃなくて悠真くんに妬いちゃったの」

「え……? 悠真くんに?」


 思いも寄らない言葉に、聞き返してしまう。けれど、その瞬間莉子の手を握る真凜の手に力が込められた。


「いたっ」

「あ、ごめんね。莉子が悠真くんを『悠真くん』なんて呼ぶからビックリしちゃって。前まで染井って呼んでたよね? 呼び方変えたんだぁ」

「えっと、うん」

「ふーーーん? やだなぁ、莉子が悠真くんと仲良くなるの。私たちの莉子のことを取られたみたいでヤキモチ妬いちゃうよお」


 ねー? と、周りにいた戸川たちに真凜は同意を求める。戸川たちは口々に「そうだよね」「悲しいよね」と言い始める。その口調はなぜか莉子を責めているようにすら聞こえた。


「だからさ、そろそろ戻ってこない? 莉子だって寂しいでしょ? ね、私たち友達じゃん」

「とも、だち」


 友達という言葉につい頷いてしまいそうになる。けれど、胸の奥に刺さった何かがチクリと痛む。


 本当に友達だったのだろうか。真凜の莉子に対する態度もそうだけれど、莉子自身も真凜のことを友達だと、友達になりたいと本当に思っていたのだろうか。


 ただ一人になりたくなくて、グループから外れたくなくて利用していただけれはないのか。それは本当に友達だと言えるのだろうか。


 黙ったまま何も言わない莉子の手を真凜は苛立った様子で引っ張った。


「ほら、行くよ」

「あ……っ」


 勢いよく引かれた手を、反射的に振り払いそうになって――莉子はバランスを崩した。


 視界がゆっくりと回転していく。押し殺したような悲鳴と、それから。



「あ、あんたが悪いんだからね!」



 叫ぶ真凜の声を聞きながら、莉子は自分の身体が落ちていくのをまるでスローモーション映像を見ているように感じていた。


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