第3話

 翌朝、目覚めたときから気が重かった。昨日のことは全て夢だと思いたいのに、メッセージアプリを開いて一番上に表示されている染井の名前を見て現実だったのだと思い知らされる。

 ため息を吐くと染井の名前を長押しして履歴を削除した。なるべく証拠は残さずにいきたい。教室では他人、他人なんだから。


 定刻に家を出ると気は進まないけれど学校へと向かう。一瞬、休もうかとも考えたけれど染井の反応も怖かったし、それ以上に一日休んでしまえば莉子の居場所がなくなってしまうのではないかという不安の方が大きかった。

 いつも通りの通学路を一人で歩き、喧噪にまみれる昇降口を抜け教室へと向かう。扉を開けると、真凜たちが教卓の前の席で楽しそうに話しているのが見えた。何を話しているのだろうか、そんなことを思っていると真凜と目が合った。

「おはよう」そう声をかけられたらどれだけいいか。そんなことができるのは真凜が友達だと思っている子だけだ。


 莉子のようなグループの隅っこにいるような人間はこちらから声をかけることは許されない。いつも通り廊下側の一番後ろにある自分の席に静かに座った。

 莉子にできるのはここに座って真凜に名前を呼ばれるのを待つことだけだ。それまでは誰とも話してはいけない。自分から真凜たちのもとに寄っていってもいけない。こんなくだらないルール、いつ誰が作ったのかわからない。

 でもそう決められている以上、守らないわけにはいかないのだ。

 そわそわしながら何度も真凜たちの方を見てしまう。クラスのあちこちで楽しそうな話し声が聞こえる。みんなが楽しそうな中、一人ぼっちで座っているのは落ち着かない。早く名前を呼んで欲しい。こっちに来ても良いよ、と教えて欲しい。

 そのとき、真凜がこちらを見たのがわかった。笑っているところを見ると機嫌が良さそうだ。きっとあと少し。もう少し待てば『莉子』って名前を――。


「莉子」


 瞬間、名前を呼ばれた。でもそれは真凜の声ではなく、もっと低い、つい最近聞いたような声だ。違う、勘違いだ。そう思おうとするのに、声の主はもう一度「莉子」と名前を呼んだ。

 どこから呼ばれているのか。慌てて辺りを見回そうとして、声の主が廊下の窓を開けこちらを見ているのに気付いた。

 ニコニコと笑顔を浮かべた染井の姿に、莉子は反射的に窓を閉めた。そして辺りを確認する。誰にも見られていないか、誰にも聞かれていないかどうか。

 幸い、みんな自分たちの話に夢中でこちらを気にする暇などないようだ。

 ホッと息を吐き出したのもつかの間、再び廊下の窓が開けられた。


「なんで閉めるんだよ」

「なっ」

「恥ずかしがってんの? 可愛いなぁ莉子ってば」

「まっ、なっ……」


 まるで金魚のように口をパクパクしてしまうばかりで言葉が出てこない。こいつはいったい何を言っているんだ。

 とにかく口を塞がなきゃ。手を伸ばすとその口を物理的に塞ごうとする。けれど逆に腕を掴まれて引き寄せられてしまう。


「なに……っ」

「何ってそれは俺のセリフだよ。どうしたの? 寂しかった? こんな積極的に手伸ばしちゃってさ。でも、ここ教室だからみんなに見られちゃうよ?」


 その言葉に我に返る。

 恐る恐る振り返ると、気付けば教室中の視線がこちらに向けられていた。もちろん、真凜も例に違わず、だ。

 珍獣でも見るかのような他の人達の空気と視線の中、真凜たちは莉子にピリピリとひりつくような視線を向けていた。

 何を言いたいかなんて安易に想像がつく。そちらを見ていられなくて視線を染井に戻す。ニコニコと笑っているその顔を平手打ちにしたい気持ちになるのを必死に堪える。


「どういうつもり? 約束と違うじゃん」

「約束? ちゃんと守ってるつもりだけど」

「どこが! 教室では今まで通り無関係でいるって言ったじゃん!」

「だから、教室には入ってないでしょ」

「は……?」


 呆ける莉子を染井はしてやったりといった表情で見つめる。その顔に、莉子はようやく自分の間抜けさに気付く。たしかに染井は教室の中にはいない。廊下から教室の窓を開けて莉子と話をしている。だから約束通り、染井は莉子に教室で話しかけたりなどしていないのだ。


「そんな屁理屈みたいなことっ」

「屁理屈でも何でも、俺はちゃんと約束を守ってるでしょ? むしろ、教室の中から俺に話しかけてるのは莉子の方だよ」


 それはそうかもしれないけれど。いや、それでも納得するわけにはいかない。


「だいたい莉子って何よ」

「何って自分の名前も忘れたわけ?」

「そんなわけないでしょ! なんで染井が私のことを呼び捨てで呼んでるのって言いたいの」

「あ、それ聞いちゃう? 言っていいの?」


 ニヤリと笑ったその顔に莉子は嫌な予感が頭を過った。ダメだ、きっとこのままじゃ碌な子とを言われない気がする。


「言わなくていい」

「なんでー? 聞いてよ。それはね、俺たちが――」

「俺たちが、どうしたの?」


 莉子のすぐ後ろから、聞き覚えのある可愛い声が聞こえたと同時に、莉子の肩に誰かの手が乗せられた。こんなにも可愛い声なのに、莉子の背中はまるで冷や水を浴びせられたかのように寒くなる。ポンと肩に置かれた手にぐっと力が入ったのがわかった。

 ぎこちなく振り返る。そこにいるのが誰かなんて見なくてもわかる。だって、この声は。


「真凜……」

「おはよ、莉子。さっきから呼んでるのに来ないから来ちゃった。二人楽しそうに話してたけどどうしたのー?」

「え、あ、えっと」


 喉の奥がきゅっと狭くなり声が上手く出せなくなる。誤解だと、違うんだと説明しなきゃ。楽しそうになんてしてないと、染井とは無関係なのだとと説明しなければ。


「莉子ったらホントどうしたの? 変な子ー。ね、染井くんもそう思うでしょ?」


 少し小馬鹿にしたような声でクスクスと笑いながら真凜は言う。染井が同意する以外の回答などこれっぽっちも想像していないかのような声色で。

 莉子はぎゅっと手を握りしめる。そうだ、ここで染井が「ホントにな」と同意して笑ってさえくれればきっと真凜の機嫌もよくなる。だから、それでいいんだ。そうすれば全てが丸く収まるんだから――。


「そう? 変な子とは俺は思わないけどな」

「え?」

「ってか、さっきの俺たちが――の続きだけど」


 染井は真凜の手から引き離すように莉子の手を引っ張ると、窓越しに自分の方へと引き寄せる。まるで抱きしめられるような体勢になった莉子は自分の身体に回された染井の腕の力強さと、それから学ラン越しに伝わるぬくもりに心臓がうるさく鳴り響くのがわかった。


「な……」


 莉子と染井の姿に真凜は呆然と立ち尽くす。そんな真凜に染井はおかしそうに言った。


「俺たち付き合ってるんだ。だから、人の彼女バカにするのやめてくれない?」


 その瞬間、教室のあちこちから女子の悲鳴と、それから男子たちの囃し立てる歓声のような声が聞こえた。頭がクラクラする。これが現実だと思いたくない。いっそ気を失ってしまえれば楽なのに。

 けれど教室から聞こえる声が、そして目の前で睨みつけるようにして見つめてくる真凜が莉子を現実から逃れさせてくれない。


「そう、なんだ」


 真凜の声は普段教室で聞くのとは違い、冷たく凍り付くような声をしていた。この声を莉子は知っていた。それは放課後、莉子で遊ぶのに飽きたときに「つまんない」と言うトーンと同じだったから。


「知らなかったー。友達だと思ってたのにどうして言ってくれなかったの? あ、それとも友達だと思ってたのは私だけだったってことかな。悲しいな」

「あ、ま、真凜」

「あは、もう莉子なんて知ーらない」


 笑顔を浮かべているはずなのに目は一切笑っていなかった。冗談っぽく言ってはいるけれど、どう考えても本気だ。ああ、これで終わりだ。もう教室の中に莉子の居場所はない。自分の席に戻っていく真凜を見つめながら愕然とする莉子を尻目に、染井は「女子ってこえー」なんて莉子のすぐそばで呟く。

 慌ててその腕を振り払うと、莉子は染井を睨みつけた。


「どうしてくれるのよ!」

「ん? どうって? 俺はホントのことしか言ってないよ」

「だからって!」

「何か文句でもある?」


 染井は莉子に微笑みかける。その笑顔で見つめられたら大抵の女の子は黙ってしまうだろう。莉子以外は。

「文句しかない」と言い返そうとした莉子の目の前に、染井はスマートフォンを見せつけるようにした。まるでそれ以上何か言うとあの動画を先生たちに見せるよ、と言わんばかりに。


「ぐっ……」


 黙り込む莉子にもう一度笑みを浮かべると染井は教室の中へとようやく足を踏み入れる。男子たちは染井を囲むと何やら楽しそうに話し始める。時折、莉子の方へと視線が向けられるのを感じたから、きっと先程の話をしているのだろう。

 莉子は力なく自分の席に座るとずっと俯いていた。みんなの視線が怖い。何を言われているのかなんて想像がつく。


 これから先、いったいどうしたらいいのだろう。教室にいるみんなが莉子と染井が付き合っていることを知ってしまった。事実はどうであれもうこれはこのクラスの中では周知となった。


 ――このあと教室どころかこの話は事実として一気に学年を、そして学校中を駆け回るのを、莉子はまだ知らずにいた。

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