第4話

 噂話が駆け回るのは早い。昼休みになる頃には学年どころか学校中の女子が染井と莉子が付き合い始めたことを知っていた。それどころか、教室中に向けて染井が莉子との交際宣言をしたと話題になっていた。

 廊下側の席だったことがさらに不幸を呼んだ。休み時間が来るごとに「あの子が染井くんの彼女なんだって」「え、普通じゃん」「むしろ普通以下だよ」という会話が廊下で繰り広げられる。その言葉が全て莉子の耳に届いてしまうのだ。

 そして、さらに――。


「あーあ、先生に頼まれたプリント集めるのめんどいー」

「あ、じゃあさ莉子ちゃんにやってもらえばいいよー。優しいからきっとしてくれるよ」

「え、ホント? やっさしー。さすが染井くんの彼女なだけあるね」


 当て擦りのように同じクラスの女子たちは言う。今まで真凜たちだけが莉子をイジっていたのが、染井との一件から、その対象がクラスの女子の大半へと変わっていた。

 嫌みを言われているわけではない。ただ冗談っぽくネタっぽく、彼女たち曰く幸せいっぱいな莉子をイジっているだけ、なのだ。

 けれど、嫌だと言えば「冗談も通じないのー?」と言われるのは目に見えている。

 結局「いいよ」と言うしかない莉子は日直に掃除当番、係の仕事などいろんなことを押しつけられた。

 しかもみんな上手なのだ。それらは全て染井や他の男子たち、それに先生の目の届かないところで行われる。傍目には仲良しに見える。「ありがとう」「優しいね」「ごめんね」と口先だけの言葉が莉子に届く。

 それはクラスだけに留まらず、学年に、そして学校へと広がっていく。通りすがりに肩をぶつけられたり、ヒソヒソと何かを囁かれたり。あからさまに指を差して笑ってくる人もいた。

 一秒でも早く、教室から、そして学校から逃げ出したかった。少しでも人目から逃れようと、休み時間はトイレに、昼休みは人気のない校舎裏へと向かった。

 それでも陰口は、嘲笑はついて回る。

 だから莉子は、帰りのホームルームが終わった瞬間、とにかくこの場所から逃げだそうと、カバンを持ちクラスの誰よりも早く席を立とうとした。なのに。


「ねえ」


 声をかけながら莉子の肩を掴んだのは、その日一日中莉子のことを存在しないかのように無視していた真凜――ではなく、戸川だった。


「え?」


 驚きが隠せなかった。だって、真凜があんな態度を取っているのに戸川が話しかけてくれるなんて。


「ど、どうしたの?」


 思わず声が上擦ってしまう。そんな莉子を馬鹿にしたように戸川は言った。


「真凜が呼んでる。行くよ」

「あ……」


 チラッと戸川が視線を送った先には、こちらを睨みつける真凜の姿があった。莉子はどうすればいいかほんの少しだけ悩んだ。でももしかしたらこれが最後のチャンスなのかも知れないと思った。

 今、このチャンスを逃せばきっともう真凜たちのグループに戻ることはできない。


「わかった」


 カバンを持って立ち上がる。一瞬、染井と目が合った気がした。けれど、その視線を振り払うと、莉子は戸川の後をついて教室を出た。

 向かった先は昨日も訪れていたあの公園だった。

 夕暮れにはまだ早いこともあり、小学生が何人か遊んでいた。けれど莉子たちの異様な空気に何かを感じたのか、そさくさと公園を出て行く。

 残されたのは真凜たちと戸川、そして莉子だけだった。

 あからさまにイライラした様子の真凜を戸川はチラチラと伺いながら莉子を睨みつけた。


「弱みでも握ったの?」

「弱み……?」


 戸川の言葉の意味が理解できなくて思わず復唱してしまう。首をかしげる莉子に戸川は苛立ちをぶつけるかのように声を荒らげる。


「だから! どんな手を使ったらあんたなんかが染井と付き合えるのって聞いてるんだよ。何か脅したんでしょ? あーあ、染井可哀想に」

「脅してなんて、ないよ」

「じゃあなに? 染井があんたのことを好きで付き合ってるとでも言いたいの?」

「ちがっ……」


 否定しようとして慌てて口をつぐむ。違うと言ってしまえば、じゃあどうして付き合っているのかと再び問われるだろう。問われたところで、理由を答えるわけにはいかない。

 言えば必然的に染井の鼠動病についても話さなければならないだろう。さすがにそれを話すのは憚られる。

 黙ってしまった莉子に、とうとう我慢ができなくなったのか「あのさ」と真凜が口を開いた。


「ぶっちゃけさ、付き合ってる理由なんてどうでもいいの」

「真凜……」

「そんなことより、いつ別れるのかを聞きたいわけ」


 ジャリッという音を立てて真凜が莉子の方へと近づいてくる。一歩、また一歩と進むたびに莉子は動機が早くなるのを感じる。息がうまくできない。

 莉子と殆ど身長が変わらないはずなのに、目の前に立たれると妙な威圧感に身体が縮み上がりそうになる。


「ねえ」

「…………」

「別れるよね」

「それ、は」


 どう答えるのが正解なのか莉子にはわからない。ここで是と言えば染井はあの動画を教師たちに見せるだろう。そうすればもう真凜たちのグループにはいられない。

 けれどここで否と言ったとしても、もう真凜は莉子をグループには置いておいてくれないだろう。どちらにしても八方塞がりなのだ。

 黙ったままでいる莉子の腕を真凜は掴んだ。痛みで持っていたカバンを地面に落としてしまう。けれど、拾うことなど許されるわけがない。

 落ちたカバンを踏みつけながら真凜は笑みを浮かべた。


「別れて来いよ」

「っ……できるなら、そうしてるよ!」

「は?」


 思わず言い返してしまった莉子を真凜はきっと睨んだ。火に油を注ぐ、とはまさにこのことだ。

 腕を掴んだ真凜の手に力が入る。制服越しに立てられた爪が莉子の肌を突き刺す。


「なに言い返してんの? 何様のつもり? ……ねえ莉子さ」

「え?」

「一回ちょっと頭冷やせば?」


 ゾッとするほど可愛く笑うと、真凜はりこの腕を掴んだまま歩き出す。向かった先には公園に設置されている噴水があった。


「やっ、何を」

「ん? 何ってだから頭冷やすの。ほら、こうやって」


 真凜は莉子の肩を掴むとそのまま噴水の中へと押し入れた。

 体勢を崩した莉子は、バッシャーンという音を立て勢いよく噴水の中へと落ちた。全身ずぶ濡れになった莉子の頭上から噴水の水が降りかかると真凜は手を叩いて笑った。


「あーおっかし。そんなタイミングよく噴水出てくる? 莉子、あんたってホント持ってるね」

「…………」

「なにその目。何か言いたいことでもあるの?」


 呆然と真凜を見つめる莉子の視線が気に食わなかったのか、真凜は舌打ちをすると戸川を呼んだ。


「ねえ、莉子のカバン持ってきて」

「え、あ、うん」


 地面に落ち、砂だらけになった莉子のカバンは先程、真凜に踏みつけられたせいで靴の痕がくっきりとついていた。それを拾って戸川は真凜に手渡す。

 いったいどうするつもりなのか――。


「わー、きったなーい。ねえ、莉子。このカバン凄く汚いよ」

「それは……」

「こんな汚いカバン持って学校行けないよね。可哀想だから綺麗にしてあげるよ」


 何がおかしいのか真凜は楽しそうに言うと、手に持ったカバンのファスナーを開けた。そして。


「やっ……!」


 莉子が止める間もなく、カバンを逆さに向けた。莉子の頭上から教科書が、ノートが、ペンケースが降り注がれる。それら全てを受け止められるわけもなく、カバンから落とされたほとんどが噴水の中へと飛び込んだ。

 最後に仕上げとばかりにカバンを投げ込むと、満足そうに真凜は笑った。


「ふふ、これで綺麗になったね」

「あ……あぁ……」

「なに? お礼を言いたいの? ふふ、いいよ。私たちの仲でしょ」


 それは染井の言うとおり、もはや弄りではなく虐めと呼ぶ方が正しかった。噴水の縁に足をかけると、真凜は座り込んだままの莉子を見下ろす。


「だからさ、もう一回言うね。莉子、染井と別れてくれるよね」

「…………」

「莉ー子?」


 もういっそ、頷いてしまおうか。どっちにしてもダメならせめて真凜の機嫌を損なわない方がいい。もしあの動画が公表されたとしても、莉子が望んだわけじゃないと真凜さえ信じてくれれば少しは違うかも知れない。

 そうだ、それがいい。

 うん、と返事が喉元まで出かかったその時――少し離れたところで悲鳴が聞こえた。


「きゃっ」

「え?」


 莉子は思わずそちらに視線を向ける。気を取られたのか、真凜も声のした方を振り返っていた。


「そめ、い」


 そこには尻餅をつく戸川と、そしてそのすぐそばを通り過ぎる染井の姿があった。逆光で表情が見えないけれど、どこか怒っているような雰囲気を漂わせていた。


「染井、くん」


 慌てた様子の真凜はどうにか取り繕おうと染井のそばに駆け寄る。


「どうしたの? こんなところに。あ、もしかして私になにか用だった? なんちゃって」

「…………」

「ねえねえ、染井くんってば。何か言ってよー」

「邪魔」


 腕に絡みつく真凜の手を振り払うと、染井は莉子の目の前にやってきた。

 差し伸べられた手を掴んでいいのか一瞬、躊躇う。そんな莉子に「仕方がないな」と染井は笑うと自分も噴水の中へと足を踏み入れた。


「えっ、な、何をしてるの」

「何って、救出?」

「だからって自分も入るなんて馬鹿じゃないの」

「そうかも」


 染井は笑うと莉子の腕を掴んで立ち上がらせる。水を吸った制服は随分と重く感じた。


「泣いてるのかと思った」

「……こんなことぐらいで泣けない」

「知ってる」


 莉子の答えに、染井はなぜか満足そうに笑った。

 染井に手を引かれながら噴水から出ると、もうそこには真凜たちの姿はなかった。

 ベンチに莉子を座らせると、染井は噴水へと戻っていく。そしてもう一度中に入ったかと思うと、ばら撒かれた教科書やノートを拾い集めた。


「酷いことするな……。乾かしたら大丈夫だと思うけど」


 染井はカバンに本やノートを入れる。一瞬、濡れたものを入れるなんて、と思ったけれどそもそもカバン自体も噴水に投げ込まれて色が変わるほど濡れていた。今さら中に濡れたものを入れたところで大差はない。

 ふと我に返って自分自身の姿を見下ろす。制服はずぶ濡れで頭の上から降り注がれた噴水のせいで髪の毛からは未だに水がしたたっている。

 まるで濡れ鼠のような自分の姿に笑ってしまう。

 ここまでされなければいけないことを、自分はしたのだろうか。ただクラスで浮いた存在になりたくなかった。グループに所属して、愛想笑いをして空気を読んで、それで……それで……。

 この半年、莉子が必死に頑張ってしがみついてきたものとは、いったいなんだったんだろう。

 項垂れる莉子の頭上で、染井が「なあ」と声をかけた。その声に顔を上げると優しく莉子を見下ろす染井の姿があった。


「帰るか」

「……うん」


 染井は当たり前のように莉子に手を差し出す。一瞬躊躇ったものの、莉子は素直にその手を掴んだ。別に染井に気を許したわけじゃない。ただ心が弱っていた。誰でもいいから莉子を一人にしないでほしかった。けれどそんな自分を悟られたくなくて、渋々手を引かれているフリをした。

 染井に手を引かれたまま公園を出る。いつの間にか日が暮れ始め、辺りが暗くなっていく。おかげでびしょ濡れのまま歩いている莉子と染井が目立たなくて済む。


「あのさ」


 それまで無言だった染井が口を開いた。


「無理に泣かなくてもいいけど、でも嫌だっていう意思表示はした方がいいと思うよ」


 染井の言うことはわかる。わかるけれど。


「それができれば苦労しないよ」

「嫌だって言うだけじゃん」

「嫌だって言って居場所がなくなったらどうしたらいいの」

「そもそもそんな居場所なんてホントにいるの?」


 染井の言葉は正論すぎて、だからこそ引くに引けなくなる。


「いるよ!」

「ふーん」


 素っ気ない返事に心配になる。呆れられてしまっただろうか。でも一人にはなりたくない。グループから爪弾きにされた結果どうなったのか莉子は嫌というほど知っているのだ。


「じゃあ、俺が居場所になってあげるよ」

「え?」


 染井の言葉が理解できず聞き返す。染井は振り返るとまっすぐに莉子を見た。


「だから俺が居場所になってあげるって言ってるの」

「……なんで」

「彼女だから」

「嘘の彼女じゃん」

「それでもさ、彼女には変わりないでしょ。だから俺のそばにいればいいよ」


 なんて答えればいいかわからずにいる莉子に「あ、でも」と染井は言葉を続けた。


「好きになっちゃダメだよ」

「当たり前でしょ!」

「ならよかった」


 屈託のない笑顔を染井は莉子に向ける。染井がどういうつもりなのか莉子には全くと言っていいほどわからない。けれど、こんな笑顔を自分に向けてくれる人が現れるなんて想像もしていなかった。

 染井はどんな気持ちで莉子と付き合っているのだろう。ほんの少しだけ、染井に興味が湧いた、気がした。


「あ、そうだ」


 前を向いた染井が、何かを思い出したかのように振り返る。


「このあとどうする?」

「は?」

「や、だってさ濡れたままで帰るのもおかしいだろ」


 染井の言葉に莉子は動きを止めた。前言撤回。こんなやつに興味なんて欠片も持っちゃいない。


「さいてー」

「は? っ……て、バカ! そんな顔、すんなよ!」


 莉子の表情の意味を理解したのか、慌てたように染井は言う。その反応に、思わず莉子は笑ってしまう。クラスの女の子どころか学校中でモテていて、女の子だって選び放題のはずなのに、そんな純情な反応をするなんて。


「……なんだよ」

「別にー」


 含み笑いをする莉子に染井は不服そうだった。その表情にまた笑ってしまう。 そんな莉子に染井はふっと表情を緩めた。


「泣けなくてもそうやって笑ってたらいいんじゃない?」

「え?」


 染井の言葉に莉子は戸惑う。


「私、教室でも普通に笑ってると思うけど?」


 真凜たちと一緒にいて普通に笑っているはずだ。でも莉子の言葉に染井は首を振った。


「笑ってはいるけど、いつもは全然楽しそうじゃないだろ」

「……そう、かな」

「そうだよ」


 言い切られてしまうと、そうなのかと思わざるを得ない。普段の自分はそんなに楽しくなさそうな顔をしていたのだろうか。じゃあ、今は? 今はどんな顔をして笑っていたのだろう。知りたいような、知るのが怖いような複雑な気持ちだ。


「まあでも冗談は置いといて。ホントにこのまま帰るわけにいかないだろ? どうする? うちに来て乾かす?」

「染井の家?」

「そ。すぐそこだから」


 親切心から言ってくれているのが伝わってくるからだろうか。それとも思っていたよりも純情な反応を見たから? 理由はわからないけれど、先程のように嫌な気にはならなかった。

 たしかに言われたとおり、このまま家に帰れば何があったのかと心配されるのはわかりきっている。それ以前に、こんな格好で歩いていればそのうち心配した大人に声をかけられてしまいそうだ。

 染井の優しさに甘えてしまおうか。そんなことを考えた、その瞬間だった。


「わっ」

「マジか」


 スコール、といっても不思議じゃない程の雨が一気に降り出した。日が暮れてきていると思った空はどうやら雨雲だったようで、辺りは一瞬にして水溜まりだらけとなっていく。

 慌てて近くの店の軒下へと避難した莉子と染井は、互いの姿を見て噴き出した。


「これじゃ誰も噴水に落ちたなんて思わないな」

「そうだね」


 染井の家に行かずに済んでホッとしたような残念なような複雑な気持ちだ。隣に立つ染井の姿をそっと盗み見る。染井は「通り雨だといいんだけど」と言いながら空を見上げていた。

 染井の言葉通り通り雨だったようで、数分後にはほとんど雨はやんでいた。


「これなら平気だな」


 そう言ったかと思うと、染井は軒下を出てまだ小雨が残る中、莉子の方を向いた。


「気をつけて帰りなよ」


 手を振ると、先程歩いてきた道を染井は走っていく。その後ろ姿を見つめながら、ようやく染井の自宅があの公園を挟んで莉子の自宅とは正反対の方角だったことを知る。

 ではどうして昨日も今日もあの公園に染井は現れたのだろう。

 莉子は自分の腕にそっと手を当てる。

 染井が何を考えているのか、莉子にはまるで理解できない。ただ……染井に掴まれた腕だけが、妙に熱を持ち続けていた。

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