第2話
染井の視線に、莉子はバツが悪くなって顔を背ける。いったいなんなんだ。なんで、こんな。
「俺さ」
「だからなに!」
「俺、あと三ヶ月で死ぬんだ」
あっけらかんとした口調で言われた言葉の意味は理解できるものではなかった。いや、さっきも理解できなかったけれどそれでもあれはどちらかというと理解することを拒んでいた、という方が正しい。
けれども、今回のは本当にどういう意味なのかわからない。目の前でピンピンしている染井が三ヶ月後に死ぬと。いったいなぜ。そして事実だとしてもどうして莉子にそんなことを言うのか。ちなみに冗談だとしたらもっとたちが悪い。
そもそも染井は文脈というものを知らないのか。今、そんな話を莉子としてはいなかったはずだ。急にどうして、染井があと三ヶ月で死ぬなんて話になるのだろう。
結局、なんて返事をするのが正解なのかわからず、気になんてしていないふうを装って「ふーん」とだけ言った。
「
莉子の態度を気にすることなく染井は話を続ける。 知ってる? と、尋ねられたので、とりあえず莉子は頷いた。
染井が口にしたのは近年明らかになった新しい病気の名前だった。
鼠や象といった動物は生涯に打てる鼓動の数が決まっている。だが人間の心臓が生涯に打てる鼓動の数は決まっていない。母親の腹の中で心臓が動き出した日から息を引き取るその日まで絶えず心臓は動き続ける。
けれどこの病気の人間だけは、23億回と決められているのだ。さらに鼠動病の人間特有の頻脈と呼ぶには早すぎる鼓動は、23億回と決められている鼓動を普通の人間より遙かに早いスピードで打ち続けていく。鼠動病――通称『鼠の心臓』と呼ばれていた。
知っている、と言っても、先日たまたまつけていたテレビの中でレポーターが言っていた程度の知識しかなかったけれど。知らないわけではないからまあいいだろう。だが、それがいったいどうしたと――。
「俺、鼠動病なんだって」
言っていい冗談と悪い冗談があると子どもの頃に教わらなかったのか。反射的にそう言いそうになったけれど、やめた。そんなことを言う関係ではない。
ただ、染井の口調は冗談を言っているようには思えなかった。まさか本当に……?
……だとしても、莉子には関係ないことだ。
「ふーん、だから?」
残念ながら、目の前の特に仲がいいわけでもないクラスメイトが鼠動病だったとしてどうだというんだ。関係のない人間が、関係のないところで死ぬだけだ。
日本中で毎日人が何人死んでいると思っているのか。そのほとんどが自分の知らない人間で、知らないところで死んでいく。そこにクラスメイトが混じったところでどうってことのない話だ。
「お気の毒に、としか思わないんだけどそれを聞かせて私にどう思ってもらいたかったの?」
「別に? それぐらいの反応で良いよ」
「どういう意味?」
問いかけてからしまったと思った。これではまるで染井に対して興味を持っているようではないか。けれどそんな心配は莉子の杞憂だったようで、染井は特に気にしていないように肩をすくめた。
「そのまんまの意味だよ。話は変わるんだけどさ、俺自分で言うのもなんだけどそこそこモテるんだよ」
「は?」
「あ、なんだよその反応。や、別にめっちゃモテる、とまでは言わないけどまあそこそこ? 気持ち、ちょっとぐらいはモテるって思うんだけど」
だんだん自信がなさそうに声が小さくなる染井を鼻で笑ってしまいそうになる。そこそことかちょっとぐらいはとか、そんなことないぐらいモテている人間が何を謙遜しているんだと。
「読者モデル様が何言ってるの」
「あれはたまたま街で写真撮ってもらって載っただけだよ」
「へー?」
真凜の話も当てにならないな、なんて思いつつ、だからといって訂正してやるだけの義理もない。そもそも街で写真を撮られる時点で、莉子たち一般人とは違うのだ。
「で、おモテになるのがどうしたっていうの?」
「あー、うん。でもさ俺、今まで誰とも付き合ったことがないの」
「あんなにモテるのに?」
「あんなにってなんだよ。いや、ほらどうせ付き合うなら好きになった子に自分から告って付き合いたいじゃん?」
付き合いたいじゃん? と、言われたところで告白どころか好きな人もいない莉子に同意できるはずもなく。結局「はあ」としか返事はできなかった。
「で、今に至るまで誰とも付き合ったことないんだけど、俺このままじゃ誰とも付き合わないまま死んじゃうってことだって気付いちゃって。これはヤバいなと」
「ヤバいんだ」
「ヤバイでしょ、そりゃ!」
死ぬことよりも誰とも付き合わずに死ぬことの方がヤバイってなんだそれは。その感覚が莉子には理解できない。
けれど、まあそれなら。
「好きだって言ってくれた子にやっぱり付き合うって言えばいいんじゃないの?」
「嫌だよ、そんなの」
即答だった。
立っているのが疲れたのか染井はさっきまで莉子のカバンを置いていたベンチに腰掛ける。莉子の腕を掴んだまま。必然的に、莉子は染井の隣に座ることになってしまう。
「手、離してよ」
「話が終わったらね」
「~~! で、何が『嫌だよ』なの?」
どうやら本当に腕を放す気はないようだ。こうなればさっさと話を聞いて解放してもらうより他ない。
日は完全に暮れ、公園の街灯に明かりがつく。時折風が吹くと肌寒くさえ感じる。ついこの前まで夏の終わりを感じていたというのに、いつの間にか秋も終わりを迎えそうだった。一年のうちでこの季節が一番好きだ。暑くもなく寒くもなく過ごしやすいこの時期が。なのに、年々秋の時間が短くなっていっている気がして寂しかった。
街灯の明かりをぼおっと見つめていた莉子に、染井は構わず話を続けた。
「あー、それね。だからさ、前に告ってくれた子と付き合うのが嫌だってこと」
「前の子が嫌ならこれから告白してくれた子でもいいんじゃない?」
「そういう問題じゃないんだよ。俺のことを好きな子と付き合うのが嫌って話」
「どういうこと?」
好きな子と付き合わずに誰と付き合うというのか。そもそも付き合うということはお互い好き同士じゃなければなりたたない。ああ、そうか。つまり。
「染井自身が好きな子じゃないから嫌だと。でも時間がないんだしそんな贅沢言ってる場合じゃないんでは? それとも好きな子がいるとか? だったらその子に告白したらいいと思うよ。染井ならいけるいける」
だんだん面倒くさくなってきて最後の方は随分と投げやり気味な言葉になってしまったけれど、染井は気にすることなく「それがさー」と天を仰ぐ。
「俺のこと好きな子でも俺が好きな子でもさ、どっちにしても俺と付き合って俺が死んだら泣くじゃん」
「まあそりゃ泣くんじゃない? 付き合ってる人が死ねば。好きな人ならなおさらだよね」
「でしょ? それが嫌なの」
「もう何言ってるのか意味わかんないんだけど」
堂々巡りの答えがない話であればこれ以上付き合わされるのはたまらない。愚痴を聞いて欲しいだけなら友達にでも言えばいい。どうして莉子じゃないといけないのか。
「あのさあ」そう言いかけた莉子の言葉より早く染井が口を開いた。
「だからさ、泣かせたくないの。俺のことを好きな子のことを。俺が好きな子のことを」
その声がどこか寂しそうに聞こえて莉子は思わず隣に座る染井の顔を見てしまう。
こんな顔を、していただろうか。
すぐそばの街灯に照らされた染井の顔は普段教室で見るよりも随分と大人っぽく見えた。
「今回のことがあってさ、まあ当たり前だけど親とか泣くわけだよ。俺の前では気丈な顔してるけど、夜中とかさリビングで両親が二人で泣いたりしてんだよ。父親まで涙流してんだぜ。想像できる? あんなのさ……彼女にまで味わわせたくないわけだよ」
言わんとしていることはわかる気がする。大切な人を自分のせいで傷つけるなんてことしたいと思うわけがない。
でもそれと莉子にこの話をするのとどういう関係があるのだろうか。
いや、うん、まさか。そんなわけないと思いつつも一度頭を過ったことはなかなか振り払えない。
「そっか、じゃあしょうがないよね。もうこのまま誰とも付き合わずにいれば傷つけることも悲しませることもないもんね。それじゃあ、まあ元気出して――」
「待てよ」
腕を掴んだ手に力が込められるのがわかる。振りほどきたいのに振りほどけない。痛いぐらいにまっすぐ染井が見つめてくる。
「離して」
「三橋は泣けないんだろ」
「離してってば」
「だからさ、俺と付き合ってよ」
「なんでっ」
「三橋なら俺が死んでも泣かないでいてくれるだろ。泣けないから、泣かれなくていい。自分が死んだときのこと考えても気が楽だ」
意味がわからない。いや、言っていることの意味がわからないわけじゃない。けれど、だからといってどうして莉子が付き合わなければいけないのか。
「嫌だ」
「なんで」
「好きじゃないから」
「だからいいんじゃん。好きになんてならないで。俺のこと嫌いなままでいてくれていいから」
「どうしてそこまでして」
「さっきから言ってるじゃん。誰かと付き合ったことのないまま死ぬなんて嫌なんだって」
むちゃくちゃだ。こんな話に付き合っていられない。どうにかこの腕を振り払ってこの場を立ち去ろう。
でもさっきの動画を撮ったと言っていた。あれを誰かに見せられたりしたら……。
――そういえば。
ふと、莉子は気付く。撮ったとは言われたけれど実際に見たわけじゃない。もしかするとあれは染井の嘘だったのではないか。本当ならあの場で再生してみせるはずだ。
そもそも再生して見せてよ、と言わなかった莉子の落ち度ではあるのだけれど、あのときは気が動転してそれどころじゃなかった。
ああ、そう思うと全てに辻褄が合う。なんだ、少しホッとした。よし、あとはこの手を振りほどいて――。
「それに三橋は断れないよ」
染井はニッコリと笑って見せると、ポケットから取り出したスマホの画面をタップする。すると、先程までの莉子と真凜たちの姿がそこには映っていた。
「それ……ホントに撮ってたの……?」
「嘘だと思った? 断ったら、これ校長先生とか担任とか、ああ教育委員会もいいな。そういうところに持って行くから」
「何それ最悪。脅迫じゃん」
「違う、お願いだよ。もしくは取引、かな」
染井が音量ボタンを操作すると、戸川と莉子の会話が鳴り響く。
「これ、他の人が見たらどう思うかな? 俺にはどう見ても虐めにしか思えないんだけど」
「と、友達同士の悪ふざけだよ」
「ふーん? まあでも見る人によっては虐めに見えたりすることもあるかもしれないよ? 主観は人によって違うからね。ほら、これとか俺には三橋が思いっきり突き飛ばされて転ばされているようにしか見えないけど」
「それ、は」
手のひらをぎゅっと握りしめると傷口が痛む。
これを他人に見られてしまえば、きっと莉子がどれだけ違うと言い張っても虐めだと認識されるだろう。そうなれば莉子は今のグループにいることができなくなる。あの場所を奪われてしまえば、莉子は一人になってしまう。一人になるだけならいい。一人になった莉子に、虐めの主犯だと大人たちから言われた真凜がどんな行動を取るか、想像しただけで背筋に冷たいものが流れ落ちる。
「……付き合ったら、その動画見せたりしないの?」
「もちろん」
笑顔を浮かべる染井に苛立ちを覚える。けれど、今の莉子にはこの提案を受け入れるしか。いや、この脅迫に屈するしかないのだ。
固く握りしめた手のひらに爪が食い込むのを感じる。結局、どれだけ抗おうとも莉子にはどうすることもできない。
「……わかった」
「そうこなくっちゃ」
「でも、一つだけお願いがあるの」
「お願い?」
首をかしげる染井に莉子は頷く。
「教室では今まで通り無関係でいて欲しいの」
莉子と染井が付き合っていることがわかれば、きっと真凜は莉子を許さない。染井に黙って真凜に事情を話す、という手もあるけれど、たとえ理由があって脅されて仕方なく付き合っているのだと言ったとしても、それを信じてはくれないだろう。
「無関係、ねえ」
「そう。今までだって別に私たち教室で話したりしてなかったでしょ? だからみんなの前ではそのままでいてほしいの」
「……おっけ、三橋の話はわかった。教室では今まで通りにしてほしい、と」
頷く莉子に染井は微笑んだ。その笑顔にとりあえず安心する。
ひとまず連絡先を交換して今日は解散することになった。送ろうか、という染井の言葉を丁重に断ると一人帰り道を歩く。
いつもよりも真っ暗な道のりは、今の莉子の心の中のようにどんよりとして見えた。
なんでこんなことになってしまったんだろう。選択肢を間違えた気がして仕方がない。本当ならあのとき受け入れるのではなくて、どうにか頼み込んで動画を消してもらうほうがよかったのではないか。
とりあえず絶対に真凜たちには気付かれないようにしなければ。
重い足を引きずるようにしながら、莉子はとぼとぼと自宅への道のりを歩き続けた。
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