第23話

 ひやりとした指先が莉子の手首に触れる。掴まれた腕を振り払って、今すぐ逃げ出してしまいたかった。


 これ以上、何も聞きたくない。


 けれど、悠真は逃がしてくれない。


「ごめん」

「なに、が」

「本当の気持ち、伝えることから逃げて」

「どう、いう意味、か、わかんない、よ」


 冷静を装うとしているのに、声が震える。振り返ることもできないまま、ただその場に立ち尽くす。


 手首を掴んでいた悠真の手がそっと離れ、そして莉子の手を握りしめた。


「好きだよ」

「……っ」

「莉子のことが、ずっと好きだった」

「ずっと……?」

「そう。ずっと」


 思わず振り返った莉子は、優しい瞳で自分を見つめる悠真の姿をまっすぐに見た。そんな莉子を悠真も見返す。


 今までももしかしたら、と思うことはあった。それほど悠真の目は優しく莉子を見つめていた。けれど、今はあれよりももっと。一目見れば、悠真の気持ちが伝わってくるような、そんな視線が向けられていた。


「ずっとって、いつから?」

「莉子が俺のことを知るずっと前から」

「どういう……」

「それより、聞きたいこと、あるんじゃないの?」


 そうだ。悠真が莉子をいつ知ったのかも気になるけれど、今は――。


「あと、どれぐらいなの」


 何がとは聞かなかった。聞けなかった。


 それでも悠真は莉子の問いかけに、一瞬寂しそうな表情を浮かべると、優しく微笑み口を開いた。


「……もって一週間、かな」

「嘘、でしょ……」


 膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。だって、まだ1ヶ月以上あったはずなのに、どうして。


「……私の、せい?」

「違う」

「だって、本に書いてたよ。ドキドキするようなことがあれば鼓動がもっと早くなって余命が短くなっていくって。私と付き合って、驚かせたり焦らせたり困らせたりしたから……!」

「バカだなぁ」

「なっ」


 悠真は笑う。おかしそうに、けれどどこか嬉しそうに。


「バカって……私は心配して……!」

「もしも俺の鼓動が早くなってたとしたら、それは莉子に対してドキドキしてたからだよ。好きな子と死ぬ前に付き合えて、一緒にいられて、デートができて。俺がどれだけ幸せでどれだけドキドキしてたか、莉子は知らないだろ」

「そん、なの、言ってくれなきゃ、わかんないよ」


 絞り出すように言った莉子に、悠真は「だよね」と楽しそうに笑った。本鈴が鳴る音が聞こえる。けれど、戻るなんて選択肢は莉子にも悠真にもなかった。


「一週間しか残ってないっていうのは……? いつわかったの?」

「二日前の通院のとき。定期的にどれぐらい減ってるのか検査をするんだ。それでわかった」

「なんで言ってくれなかったの?」

「言えば、離れて行ってしまうと思ったから。だから言えなかった。そばにいてほしかった。莉子に、最期まで俺のそばにいてほしかった」

「どうして、私だったの……?」


 ずっと気になっていた。どうして莉子じゃなきゃダメだったのか。最初はずっと泣けないから、悠真が死んでも泣かないから莉子なのだと思っていた。


 けれど、悠真は莉子のことを『ずっと好きだった』と言っていた。ずっと、とはいつからなのか。どこで莉子のことを知ったのか。わからないことだらけだ。


 莉子の問いかけに、悠真は屋上のフェンスに寄りかかると遠くを見つめた。


「莉子に初めて会ったのは、幼なじみの葬式で、だよ」

「幼なじみって……。まさ、か」


 悠真が幼なじみと言えるような年齢の人の葬式なんて、一つしか心当たりはなかった。莉子の言葉に、悠真は静かに頷いた。


「明日音は俺の幼なじみなんだ。……正しくは、明日音の兄貴が幼なじみ、なんだけどね」

「お兄さんが」


 おぼろげな記憶の底から明日音の兄のことを思い出す。葬式で見た明日音の兄は、スラリと背が高くて、眼鏡をかけた優しそうな人だった。


 あの人と悠真が、幼なじみ。思わぬ共通の知り合いに不思議な気分になる。


「そう。明日音の兄貴、鷹翔たかととは小学校の時、同じ剣道場に通ってたんだ。明日音もそこに着いて来てて、だからどっちも幼なじみみたいなものなんだ」

「そうだったんだ……」

「だから、あの日俺も明日音の葬式に行ってて……憔悴しきってる鷹翔についてたんだ。そこに、莉子。君もいた」


 そうだ、あの日莉子は動かなくなった明日音を前にして泣いていた。あれが莉子が最後に涙を流した日だ。あの場所に、悠真もいたなんて知らなかった。


「ざわつく会場で、莉子だけが遺影を見つめて静かに泣き続けてた。同じ制服を着た女子たちが面倒くさそうにいる中で、莉子だけは明日音の死を悼んでいた。その姿に、一目惚れしたんだ」

「嘘……」

「ホントだよ。ずっとずっと好きだった。鷹翔から聞いて莉子がこの高校を受けるって知って、同じ志望校だったから凄く嬉しかった。今年、同じクラスになれたときどうやったら仲良くなれるかずっと考えた。どうやったら――クラスの中で、真凜たちのグループでしんどそうにいる莉子を助けることができるか、を」


 莉子が悠真を知らないときに、ただのクラスメイトとしか思っていなかったときに、まさかそんなことを思ってくれていたなんて思ってもみなかった。


 莉子は悠真の隣に並んで同じように空を見上げる。遠くの工場から出た煙が、空に向かって昇っていくのが見えた。それは明日音の葬式の日に見たあの煙によく似て見えた。


「泣けなくなっているのもわかったよ」

「どうして」

「見てればわかるよ。……好きな子のことなんだから。でも、だからかな。自分が鼠動病だってことがわかったときに、莉子のことが頭を過ったんだ。俺のことが、莉子がもう一度涙を流せるようになるきっかけになったらいいって、そう思った」

「バカじゃ……ないの……」

「そう、バカなんだ。……でもさ、きっとそんなの全部かっこつけるための理由でさ、本当はただ最期のその瞬間に俺のそばに、莉子にいて欲しかったんだ。明日音の時みたいに、あんなふうに俺のことを思って、泣いて欲しかったんだ」


 悠真の言葉に、想いに胸の奥が苦しくなる。息をしたいのに、上手く吸うことができず口をパクパクとさせるだけになってしまう。


 何か、何か言わなくちゃ。


 そう思うのに、思えば思うほど言葉が出てこなくなる。


「ああ、でも」


 そんな莉子の頬に、悠真が手を伸ばした。その手が、頬に触れる。


「本当に俺のために泣いているところを見ると、こんな顔させたいわけじゃにのにって後悔しか浮かばないね」


 莉子の頬を悠真は指先でそっと拭う。離れていく指先のぬくもりを名残惜しく思いながら見た悠真の指先には、小さな水滴がついていた。


 まさか、そんな。


 その指先についているものが信じられなくて、莉子は思わず自分の頬に手を当てた。


 頬はいつ以来か、そしていつの間に流れ落ちたのかわからない涙で濡れていた。


 驚く莉子を、悠真は寂しそうな表情で見つめながら口を開く。


「これから先、莉子が泣いたとしても俺はその涙を拭うことも、抱きしめてあげることもできない。それが悲しくて寂しい」


 そこまで言うと、悠真は悲しそうな顔で微笑んだ。こんなに辛そうに笑う人を、莉子は初めて見た気がする。何と言っていいかわからず、ただ首を振る莉子に、悠真は自嘲気味に笑った。


「好きな子の泣き顔が見たい、なんて願った罰、かな」

「そんな、こと……」

「ねえ、莉子。約束して。俺が死んでも時々は俺のことを思い出して、俺のこと。笑ってても泣いてくれてもいいんだ。俺のことを思い出して、それで俺のことを想ってて」


 空を見上げて目を閉じた悠真の頬を一筋の涙が伝う。その涙があまりにも綺麗で、思わず目が離せなくなる。


「こういう時さ、本当は俺のことなんて忘れて、幸せになってっていうのが正しいのかも知れない。その方が、莉子だってこれから先の未来を生きやすいのかもしれない、でも、忘れないで。誰が俺のことを忘れたとしても、莉子だけは忘れないでいて。それでさ、いつか記憶の中の俺が、莉子の一部に溶けて混じって一つになって、俺のことも一緒に幸せにしてよ」

「悠真……くん……」

「そしたらさ、俺の心臓が止まっても、きっと莉子の鼓動と一緒に鳴り響き続けられるから」


 涙でぼやけて悠真の顔が上手く見えない。一瞬たりとも目を離したくないのに。その姿を焼き付けておきたいのに。必死に目を擦り涙を拭うと、悠真を見つめた。忘れてしまわないように、ずっとずっと覚えていられるように。


「ダメ、かな?」

「ダメじゃ、ない」

「よかった」


 悠真は隣に並ぶ莉子に手を差し伸べるとその頬を流れる涙がそっと拭う。それから莉子の手をそっと掴むと、悠真は照れくさそうにはにかんだ。


「抱きしめて、いい?」


 莉子が頷くのと、悠真が莉子の手を引き寄せるの、どちらが早かったのか。気付けば莉子の身体はすっぽりと悠真の腕の中に包み込まれていた。


 全身で、悠真の心臓の音を、悠真のぬくもりを感じる。泣きたくなるぐらいあたたかくて、悲しくなるぐらいに早いその温度と音を莉子は涙が止まるまで感じ続けていた。

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