第五章 たとえこの鼓動が止まったとしても
第20話
悠真との話を終えた莉子は、悠真と一緒に家の近くまで歩いて帰った。「また明日」そう言って微笑む悠真の背中が見えなくなるまで見送った後、莉子は元来た道を戻り始めた。
たどり着いたのは閉館五分前の県立図書館。悠真は「俺に直接聞けば」と言っていたけれど、そもそも何を聞いたらいいわからない状態の莉子ではそもそも質問をすることすらできない。
悠真に向き合いたい。悠真のことを知りたい。だから、もっときちんと鼠動病についても勉強したいと、そう思う。
司書の出してくれた紙は手元にあるけれど、それを今から全て探すわけにはいかない。
「あった、これだ」
莉子は悠真に声をかけられる直前、手に取ろうとしていた本の前に再び立った。左右を見回して、悠真がいないことを確認するとそれを手に取った。中を見てみると、分厚い作りとは裏腹に意外と読みやすい文章で書かれている。イラストもついていて確かにこれなら莉子でも理解できそうだった。
随分と昔に作った図書カードでその本を借りると、莉子は足早に自宅へと戻る。珍しくキッチンには母親がいて、いつもより遅い莉子の帰宅に「何をやっていたの?」と聞かれたけれど、図書館に寄っていたと伝えると「珍しいこともあるわね」と笑っていた。特に何を借りてきたとか深掘りされなくてホッとする。
看護師をしている母親であれば、もしかしたら鼠動病についても聞けば詳しく教えてくれるのかも知れない。それでも聞きたくなかった。どんな顔をして聞けばいいのかわからなかったから。
自分の部屋に戻り、制服を着替えると莉子はベッドの上に座った。一回、二回と深呼吸をし、気持ちを落ち着かせてから本を開く。そこは悠真に聞いたことと基本的には同じ内容がもう少し詳しく書かれていた。今までの患者が何歳ぐらいで病気が判明し亡くなったか、男女比、それから発症年齢。年老いてから判明する人もいたり、逆に生後すぐにわかったりすることもあるそうだ。
けれど、一番多いのが小学校や大学の入学前、中学や高校で行われる健康診断で判明するというパターンだった。それは特別な検査をするから、という理由もある。あとは大人になってからの健康診断や自分自身でおかしいと思い病院に行った、などいろんな例が記載されていた。
「余命に、ついて」
その文言に、莉子の鼓動の音が早くなるのを感じた。声に出して読み上げれば、瞬間的に口の中の水分が奪われカラカラになる。
「『鼠動病と診断されれば余命が宣告される。けれど、その余命はあってないようなものだ』……どういう、こと?」
頭の中が急激に冷えていくのがわかった。この先の文章を読みたくない。読みたくないけれど、視線が目を逸らすなとばかりに追いかけていく。
鼠動病の余命というのは、その人の基本的な1分辺りの鼓動を打つ数から判明するそうだ。専用の機会があり、昔はもっとおおよその日数しかでなかったものが、今では本当に1日単位できちんとわかるらしい。
けれど、それは一定であれば、だ。人間、誰しも驚いたり興奮したりすれば鼓動は早くなる。そうすれば、タイムリミットはさらに早くなっていく。
そのため、余命宣告されたあとはできるだけゆったりと、興奮することのないようにスローライフを送ることが推奨されているそうだ。
「心臓に負荷をかけるような運動や、ドキドキさせることは鼠動病患者には厳禁……」
莉子は分厚いその本をぎゅっと抱きしめた。嫌なドキドキが莉子を襲う。
悠真は付き合い始めるとき、莉子が自分のことを好きじゃないからと言っていた。自分も莉子のことを好きなわけではないと。
けれど、うぬぼれじゃなければ、悠真は莉子のことが好きだと、そう感じることが多々ある。美春たちに手を回してまで助けようとしてくれたこと、いつだって守ってくれたこと、それから――優しい瞳で莉子を見つめてること。
口に出す言葉とは裏腹に、伝わってくる悠真の優しさは、全て莉子を好きだと言っているように思えて仕方がなかった。
むしろ勘違いであってくれればいいとさえ思う。莉子のことなんて全く好きじゃなくて、ただ悠真が優しいだけ。誰でも優しいけれど、偽物とはいえ付き合っているから莉子に優しくしてくれているだけなんだと、そう思いたかった。思えれば、どれほどよかったか。
「ダメだよ……」
自分がそばにいてはダメだ。莉子は強く思う。勘違いかも知れないけれど、もしも本当に悠真が莉子を好きで、莉子と一緒にいることで余命が減ってしまうのであれば、もう莉子はそばにはいられない。
悠真のことが好きだから。
悠真のことが大切だから。
悠真に、一日でも長く生きていてほしいから。
だから――。
「さよなら、悠真くん」
莉子は、悠真から離れることを決めた。
その日、莉子は夢を見た。大人になった莉子が悠真の隣を歩く夢。幸せそうで、嬉しくて、それから――泣きたくなるぐらい、悲しい夢だった。
翌朝、莉子はいつもよりも三十分早く起きた。目覚ましが鳴る前に止めると自分の部屋を出てリビングへと向かう。眠れたような上手く寝ることができなかったような。ずっと
昨日の残り物を弁当箱に詰めながら卵焼きを焼く。けれど、ボーッとしていたからか、普段はしないような塩と砂糖を間違えるという失敗をしてしまう。塩っ辛くなったであろう卵焼きを一つ口に入れると、眉をしかめてしまうような味だった。
ため息を吐きながら、それでも勿体ないので卵焼きを弁当箱に詰める。残りは夜にでもどうにか食べよう。そう決めて、冷蔵庫へと入れた。『莉子のだから食べちゃダメ』と走り書いたメモをラップの上に載せて。
「あれ? お姉ちゃん早いね」
七時過ぎに起きてきた夕雨が、家を出ようとしている莉子に気付いて不思議そうに首をかしげた。
一瞬、ドキッとしながらも普段通りを装って用意していた理由を告げる。
「うん、今週週番だから早く行かなきゃいけないんだ」
「えー、高校生って大変だね」
「食卓の上に、朝ご飯用意してるから食べて、お母さんにいってきますって言ってから学校に行ってね」
「はーい。お姉ちゃんもいってらっしゃい」
眠そうに目を擦る夕雨に「いってきます」と言うと、莉子は家を出た。
いつもなら、門を出たところに悠真が立っている。けれど、三十分以上早い今日は、さすがにその姿はなかった。
悠真に会わないためにこの時間に出たのに、いざいないとなると寂しいだなんて矛盾しているにも程がある。
あの日から悠真と二人で歩いてきた道のりを一人で歩く。悠真の心臓が鼓動を止めてしまえば、いずれこうやってまた一人歩くようになる。それが寂しくて、辛くて、苦しい。
いつの間に、こんなにも悠真の存在が大きくなっていたのだろう。
「……寒い」
首にかけたマフラーをぎゅっと掴むと引き上げる。
悠真が付き合おうと言ってきたときはまだ秋だったのに、もうすぐ冬休みになって今年も終わる。あのとき三ヶ月だと言っていた悠真の心臓は、本当はあとどれぐらい動き続けるのだろう。三ヶ月だと言っていたからあと一ヶ月半はもつとそう思っていた。けれど、もしも進んでいたら? あのとき莉子が驚かせたせいで、慌てさせたせいで、困らせたせいで、手を繋いだせいで、鼓動が早くなっていたとしたら……? 来年のいつまで悠真は生きることができるんだろう。
「怖い……」
悠真の心臓のことを考えれば考えるほど、頭の中が冷たくなっていくのを感じる。一日でも長く、悠真には生きていてほしい。笑っていてほしい。幸せな日々を送って欲しい。
例え避けられない死だとしても、その日が来るのを早めたくない。けれど、今別れ話を告げれば余計に悠真の心臓は鼓動を打つかもしれない。約束と違うと怒って、悲しいと嘆いて。
ならどうすればいいだろう。そう考えた結果、莉子にできるのは少しでも悠真と過ごす時間を減らすことだった。きっと寂しいことはわかっている。本当はそばにいて悠真と一緒に笑い合って、思い出を作りたい。けれど、莉子のそんな勝手な願いよりも、悠真が生きていてくれることの方が何倍も大事だ。
だから、ちょっとぐらい寂しいのなんてなんでもない。なんでも、ないのだ。
いつもと同じ道のりのはずなのに、今日は随分と学校までの距離が長く感じた。
教室に着くと、まだ誰もいなかった。斜め前の悠真の席にももちろん誰も座ってはいない。これがいつか日常になってしまう。それも、そんなに遠くないうちに。
こんな状況でも、涙の一滴も流れない自分はやはり欠陥なのだろう。こんなにも心が痛いのに、辛く苦しいのに、どうして泣けないのだろう。
「あれ? りこちん?」
「え?」
俯いていた莉子の耳に美春の声が聞こえた気がして慌てて顔を上げた。そこには教室の入り口からこちらを不思議そうに見る美春の姿があった。
「おはよう」と声をかけようとして、思わず時計を見上げる。人のことは言えないけれど、登校するにはあまりにも早すぎる時間だ。しかも。
「今日は、一人なの?」
「……うん」
いつもは木内と一緒に登校しているはずの美春の隣には誰の姿もなかった。けれど、美春も同じことを思ったようで、莉子の前の席に座りながら首をかしげた。
「りこちんこそ、一人なの?」
「……うん」
「そっか」
美春はそれ以上、何かを聞いてくることはなかった。逆に莉子も尋ねることはしない。友人であったとしても踏み込んではいけないラインがある。
けれど。
一つ前の席に座ったままため息を吐く美春を見ていると、本当にそれが正解なのかわからなくなってきていた。
しばらくするとポツポツと登校してくる人が増えた。その中には悠真の姿もあった。教室のドアから入ってくる悠真を見つけた瞬間、莉子は俯き悠真から顔を背けた。
悠真の顔を見るのが、怖い。
何も言わずに先に行ったことを怒っているだろうか。傷ついているだろうか。それとも――。
「よかった」
右斜め前の席に座ると、悠真が莉子の方を向いたのがわかった。その声には安堵が込められていた。
「何かあったのかと思った。ホントよかったよ」
「あ……」
怒っても傷ついてもいない。悠真はただただ莉子のことを心配していた。思わず顔を上げそうになって、必死に堪える。離れることを、決めたんだ。これ以上、悠真の余命を削らないために。
「うん、大丈夫だよ」
「……そっか」
素っ気ない莉子の態度に、悠真は優しく言うとガタンと音を立てて席を前に向けた。こっそり視線をそちらに向けると、悠真の背中がだけが見えた。
そこに悠真の姿があるというだけでこんなにも嬉しい。
莉子のことを嫌いになってもいい。呆れて愛想を尽かしてもいい。だから、悠真の鼓動を早めないで。その背中に、ただそれだけを願い続けた。
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