第13話 経営者の仕事

 目覚まし時計のベルがけたたましく鳴り響く。朝の六時だ。寝たのか寝ていないのかよく分からない頭の中で、今日すべきことに思いを巡らせる。中央卸売市場での買い物はバナナとパイナップルは確実に必要だ。後は、買い出しに行った先で考えよう。それと、昨日のことを嫁さんに報告しなければいけない。そんなことをぼんやりと考えながら、布団から抜け出す。嫁さんも子供たちもまだ寝ている。


 顔を洗って、出掛ける準備を始める。必ず必要な準備が、釣り銭の用意だ。十円玉、百円玉、五百円玉、千円札。特に、百円玉が重要で、銀行で両替をするとお金を取られるので、自分で用意をする。畳の上に十枚づつ積み上げた百円玉を並べていき、まず一万円分を用意する。残りは硬貨と千円札を合わせて合計三万円分の釣り銭にして封筒に入れる。このお金とは別に仕入れ用のお金が必要だが、昨晩、用意してウエストポーチに入っている。そのことを思い出して胸がツンと痛む。


「パパ、おはよう。昨日は遅かったね」


 嫁さんが布団の中から、僕に呼びかける。


「おはよう。うーん、そうやねん。仕込みの後、ブログの更新とかしてたら遅くなった。それとな、」


 僕は少し言い淀む。


「警察に捕まった」


「えっ、何したん」


「いや、スピード違反や。夜中に走っていたら捕まった」


 僕は嫁さんの方を振り向くこともなく、そう述べて口を噤む。


「良かった。何事かと思った。気をつけてね」


「うん」


 嫁さんの優しい言葉に、スピード違反をした事の心のシコリが消えていく。お金を借りたことを話したほうがいいかなと思い嫁さんの方に振り向くと、嫁さんは、生まれて九ヶ月になるシンゴを胸に抱えて母乳をあげようとしていた。シンゴはおっぱいに顔を押し付けられると、さも当然といったように吸い付いた。


「痛い、噛むなシンゴ」


 にぎやかな嫁さんの様子をじっと見つめながら、僕は言うのをやめた。また、今度にしよう。僕は立ち上がり、布団を蹴っ飛ばしている三歳になるダイチに布団を掛けなおしておでこにキスをした。


「じゃ、行ってくるわ。いつも、ありがとう。昨日は岩崎君に給料を払えてホッとしてる」


「いってらっしゃい。バイクは気をつけてね」


 玄関を出ると、朝の冷たさが体に襲いかかる。僕はギュッと体を縮こまらせる。寒い一日になりそうだ。スーパーカブのエンジンを掛けると、茨木市にある中央卸売市場に向かった。


 中央卸売市場には、荷受けと仲卸がある。荷受けは、日本中の農家から野菜や果実といった農作物を預かって競りに掛ける会社だ。仲卸は、競りに参加してそれら農作物を買う。そこには、需要と供給の原理が働いていて、供給量よりも需要が高まれば相場は高くなるし、需要がなくなれば安くなる。僕ら買い出し人と呼ばれる小売業者は、それらの商品を仲卸から購入することになる。


「おはようございます」


 いつもお世話になっている仲卸に顔を出す。十二月はお歳暮の需要期だがクリスマスが近づく頃には、お歳暮の出荷は一段落して、今度はクリスマス用に苺の相場が高騰してくる。僕は貿易果実を担当している松田さんにバナナとパイナップルを注文すると、苺について話しかける。


「苺はどんなんがありますか」


「苺か、滅茶苦茶やで。ケーキ用の苺は千二百円もする。いらんやろ」


「いや、そんなに高い苺はいらんけど、カレーセットに付ける苺があればいいなと思って」


「ぎょうさんいらんやろ、ヨネやんやったら、これいっとき。もう三パックしかないから、まけとく」


 松田さんはそう言って、さちのかの3Lサイズを僕に見せる。


「おおきに。ところで、社長は何処にいますか」


「社長は、競り場ちゃうか。林檎を見てると思うわ」


 松田さんに会釈すると、僕は競り場に向かう。競り場では、九時から始まる昼市に向けて色とりどりの林檎が並べ始められていた。サンふじ、王林、ジョナゴールド。よく見ると、真っ赤に染め上げられた林檎もあれば、マダラ模様の林檎もある。それぞれの林檎に等階級とそれぞれの入荷数量を示したクダリと呼ばれるメモが添付されている。腕を組みながら、それらの林檎を見て回っている社長を見つけた。昼市に向けて、購入したい林檎を吟味しているのだ。


「社長、おはようございます」


「おっ、ヨネやん。頑張ってるな。どうや、あれから落ち着いたか」


 社長には、くだもんやYUKKOの現状について相談をしていた。先月の十一月、店のスタッフ全員がくだもんやYUKKOを辞めてしまったのだ。事の発端は八月に起こった。スタッフの一人が当日の朝、僕に電話を掛けてきた。「出勤をするのが怖い。明日は必ず出勤をするので今日は休ませて欲しい」との事だった。


 当時のくだもんやYUKKOは夏休みということもあり、多くのお客様で賑わっていた。席数が十六席しかないのに忙しい時は一日の客数が百人近くになる。営業時間は十一時から十八時までなので、一時間当たり十五人のお客様が利用されている計算になる。つまり、一日中満員御礼。外には入店待ちのお客様が行列を作っている。この状況の中でのスタッフの仕事は過酷で、オープンから夕方のクローズまで休憩することも出来ないのだ。お客様が入店されると、まずお水の提供、注文を受ける、調理、料理の提供、皿をさげる、皿洗い、お会計。お客様の動きに合わせて瞬時瞬時に仕事を進めていく。七時間ぶっとうしで走り回った後、十八時になり店を閉めると、皆、グッタリと崩れ落ちてしまうような有様だった。


 僕はそのスタッフの要求を受けた。その上で想像した、人員が欠けた状態での営業の様子を。とてもじゃないが店は回らない。まともに対応することが出来なくて、お客様を次々と怒らせていくだろう。僕は臨時休業を決断した。携帯電話を開けると他のスタッフに連絡をして、臨時休業の旨を伝えた。店頭には手書きで臨時休業の旨を説明した張り紙を用意し、お店のブログにも臨時休業の旨をアップした。そうした作業をしている間に、入り口のガラス越しにお客様がやってくる様子が見て取れて、「臨時休業やって」という声も聞こえてくる。僕は居たたまれなくなって帰ることにした。その日のブログには、お客様から臨時休業に対するクレームのコメントが殺到した。


 次の日、通常通り仕事をした後、休んだそのスタッフと二人で話した。僕は感情的にならずにそのスタッフを励まし、これからも力になって欲しい、一緒に頑張ろうと伝えた。事は解決したかに思えたが、話はそんなに簡単には終わらなかった。後日、別のスタッフに僕は呼び出された。


「マスター、どうしてあの子を辞めさせないんですか。あの日、あの子のお陰で私たち仕事が出来なかったんですよ。私にも生活があるんです。許せません」


 僕は、甘かった。「色々と困難があっても、皆と励ましあいながら前に進もうよ」みたいなお友達感覚があった。周りのスタッフが今回の出来事をそのように捉えているとは思いもしなかったのだ。その時の僕は、「まーまー」となだめるしかなく、結局、問題を先送りにした。夏休みが終わり、あの忙しさが嘘のように消え、暇な平日が現れ始めるた。すると今度は、売り上げの低迷に頭を悩ませることになった。出勤したスタッフに早退を促したり出勤を制限するなどして売り上げと人件費のバランスを取り、同時に、フルーツキーマカレーに代わる新しいメニューの考案をスタッフと話し合った。ところが、そうした話し合いの場は、回を重ねるごとにお店の不満を、いや、マスターである僕の優柔不断さリーダーシップの無さを糾弾する場へと変化していった。


 世の経営者というのは、誰もが経験する事柄なのだろう。しかし、僕は、この困難を解決することが出来なかった。最終的には全員が店を辞めるという事態になってしまった。僕はスタッフの皆に頭を下げて三週間ほどの猶予をお願いした。その間に、新規スタッフの手続きをすすめ、岩崎君を迎えることになったのだ。


 そうした状況に置かれている僕を見て、社長は自分のことを語り始めた。


「社長をやっているとな、色んなことに遭遇する。大体、本業とは違うところから次々と問題が起こってくるや。人間の集まりやからな。俺も、色んな事に遭遇したよ。ヨネやんも知ってるけど、植山が辞めていったときは、本当に辛かったわ」


 そう言って社長は僕を見ると、更に続けた。


「従業員は俺だけを見ているけど、俺は皆を見なあかんからな。全員を納得させることは出来ん。社長はな、憎まれても決めなアカン。何を選択して決めるのか。社長の仕事はそれしかないで」


 僕は社長に謝辞を述べると競り場から離れ、買い物をした商品の精算を済ませた。それらの商品はすでにスーパーカブの横に運ばれており、僕はリアキャリアにそれらを積み上げるとゴムバンドで固定した。時計を見ると七時半を回っている。今から出発すれば、九時には余裕をもって到着するだろう。

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