第26話 山籠り
「ヨネちゃん、何時頃に出発するの」
事務所の中で、女性事務員のマーちゃんが僕に聞いてくる。
「十二時になったら、タイムカードを押して出ようかなって思ってるよ。仕事もだいたい終わらせたし」
「残品のチェックはどうするの」
「それは、休み明けにする」
「分かった。ところで、どこまで行くの」
僕は作業していたパソコンから目を離すとマーちゃんの方に振り向く。
「亀岡の山奥。渓流をどんどんと登って行った先で山籠りをしょうと思ってるけど」
「原田さんが言ってたけど、茨木の山の上で、気温が一度だったらしいよ」
「へー、それは嬉しいな。もっと寒くなればいいのに」
「えー、寒いよ。本当に一人で行くの」
「一人やで」
「山奥って、なにか気持ち悪くない」
「んー、慣れてるから平気。たぶん、僕はどこでも寝れると思う。それよりも、最近は日が落ちるのが早くなってきたから、テントの設営だけは早めにしたい。だから、早く出発する」
「ふーん。気をつけてね」
「ありがとう」
タイムカードを押すと、駐輪場に停めてある黄色と黒に配色されたスーパーカブのところに行く。鍵穴に鍵を差し込んで、キックを二回踏んづけてエンジンを回す。新しくなったモナカマフラーから、トクトクトクと子犬のおねだりのような排気音が吐き出される。シフトを入れてアクセルを回すと、僕のスーパーカブはなめらかに走り出す。
自宅に戻ると、まずお風呂に湯を張る準備をした。そのあと簡単に昼ごはんを済ませる。風呂に入り体を洗ったあと、防寒対策をした服を身に着けて、時計を見るとまだ十三時になっていない。今から出発しても現地には余裕を持って到着できそうだ。僕は玄関に用意している山籠り用の荷物をスーパーカブにセッティングしていく。今回は少々荷物が多いので安いサイドバッグを購入した。そのサイドバッグをリアキャリアに取り付けると、なかなか格好が良い。準備を完了した僕は、空を見上げた。快晴とはいかないけど上々の青空だ。雨の心配はない。さあ、出発しよう。
摂津市から茨木方面に向かっていく。山手に向かって走っていくと、安威川ダムの工事現場が現れる。周辺は関係するダンプカーが何台も行き来をしていて、小さな僕のスーパーカブはダンプが巻き上げる砂埃の中で白く化粧をされてしまいそうだ。僕は堪らず息を止める。また、ダンプカーはあの大きな巨体で結構なスピードを出しているので、チョコチョコと走っている僕のスーパーカブはそれに押し潰されそうで、結構怖い。特に登り坂となるとなかなかスピードが出ないので、煽ってくるダンプカーに往生した。
茨木から亀岡に入り更に山道を走りながら、僕は思い出したように亀岡カントリークラブ方面に寄り道をすることにした。亀岡を見下ろす山の頂上にあるそのゴルフ場までは細い登り坂を登っていかなければならない。非力な僕のスーパーカブはシフトを一速に落としても、ノロノロとしか登らない。やっとこさっとこ頂上にたどり着くと、そこにはハングライダーの離陸台がある。亀岡盆地を展望できるその離陸台の真下には僕が通っていた大学があり、僕は学生の頃に、よくこの場所に訪れていた。僕が学生の頃は、汚い鉄パイプで組まれただけの寂れた離陸台だったのに、今では小綺麗なテラスが設置されていて「霧のテラス」という素敵な名前を付けられていた。亀岡盆地が霧で沈む時にこのテラスまで登ってくると、雲海が見えるそうだ。僕はスーパーカブを停めて亀岡盆地を展望してみた。学生時代のことを思い出して少し感慨に耽ってみようかなと思ったが、吹き付ける風がかなり冷たい。手袋を取ってスマホの操作をしているだけで指先がかじかむ。僕はたまらず手袋を着けると直ぐにその場を離れることにした。本来の目的の場所に向かおう。
山の上から滑り台で滑り降りるようにして麓にやってくると、僕は母校の大学の前を通って目的地である犬飼川に向かう。古い民家と長閑な田んぼが傾き始めた太陽の光でオレンジ色に染められていくなか、田舎道をどんどんと進んでいく。道は真っすぐに天に伸びた杉に挟まれた真っすぐな一本道に繋がっていて、進行方向に対して左側には杉の狭間から犬飼川が流れているのが見える。その時、僕に吹き付ける空気が変わった。グッと気温が下がり空気の透明度が上がったのだ。それは見えないカーテンを潜り抜けたようで、人のいない森の奥への入り口にたどり着いたことを感じさせた。
犬飼川を沿うようにして山道は続いていく。深い森の中で、僕は生きている獣の気配を全く感じれない。静寂の中に現れたスーパーカブの存在に、獣たちが警戒しているのだろうか。僕はこの世の中で僕だけが生きているような妙な錯覚を感じながら、更に森の奥に分け入っていく。しばらく走ると、コンクリートで作られた大きな砂防ダムが現れた。普段であれば多くの水をためていたと思うのだが、この時はすっかりと枯れていて、水底が見えていた。そういえば、今年は夏から秋にかけて、まとまった雨が降った記憶がない。更によく見ると過去の台風の傷跡だろうか、砂防ダムに大きな木が何本も寄りかかる様にして引っかかっていた。樹皮は剥げてなくなっており真っ白なそれらの木々が、過去の恐竜の白骨のように見えた。僕は、この森の中で自分が独りだけだという状況をことさら強く感じた。
さて、どこで野営をしようか。スーパーカブを走らせながら、適当な場所がないかとキョロキョロと周りを見回す。その気になればどこでも寝ることは出来るのだが、出来ればロケーションの良いところが良い。テントを張るのに十分な平地が欲しい。良さそうなところがあるのだが、ついつい欲張ってしまって僕は奥へ奥へと更にスーパーカブを走らせてしまう。気が付くと山道が次第に泥濘へと変わっていった。湧水が道を侵食していて道なのか川なのか判別がつかない状態になっているのだ。僕は泥にハンドルを取られて、危うく転倒しそうになってしまった。僕はスーパーカブを停めて、どこまで登って来たのか確認をするためにスマホを取り出して地図を開いてみた。GPSで現在地は確認できたが、電波が届かない場所まで来ていたことが分かった。周りを見回わしてみる。ついつい、こんなところまで登ってきてしまったが、辺りは高い木々に囲まれて見晴らしが悪い場所だ。思い直して僕は少し下ることにした。
暫く下っていくと、幾つかの候補地の一つに到着した。山道から少し外れて奥に進むと木々に囲まれた小さな空き地がある。そこは足元の渓流からは少し高台になっていて、背の低い草が絨毯のように敷き詰められている。この上にテントを張ったら寝るときに良いクッションになりそうだ。それに、水の流れが傍にありながら高台に位置しているのが良い。昔、友達と渓流釣りに行った時に、川の横にテントを張ったら、夜中の大雨でテントが流されたことがあった。今、思い返すとロケーション優先で馬鹿な所にテントを張ったもんだと笑いあったが、今回の場所ならその心配もない。早速、僕はテントを設営することにした。
テントの入り口の前に、背もたれの付いた少し大きめの赤いパイプ椅子を置いた。今回の山籠もりに使うには少し立派すぎる気もしたが、落ち着いてしまうと、寝る以外の行動は、ほぼこのパイプ椅子に座っていることになる。結果的にはかなり重宝した。パイプ椅子の前には、お気に入りの四角い七輪と、二十歳の時の自転車旅行で使っていた古いガスバーナーを置いた。七輪は家で仕込んできた大蒜まみれの焼き鳥を焼くために、ガスバーナーは体を温める鍋をつつく為に用意した。
使わない荷物はテントの中にしまって、僕はパイプ椅子に座り一息つく。時間はまだ早い。耳を澄ますと川のせせらぎの音がする。サラサラと終わりのない流れの音に乗って、遠くから野鳥の啼く声が聞こえた。パイプ椅子にグッと体重を乗せて座りなおす。この森の中に溶けてしまいそうだ。今回の山籠もりには、僕の思い入りのある物ばかりを持ってきた。二十歳の頃の自転車旅行で使っていたガスバーナー、くだもんやYUKKOで流していたジャズのナンバーが入ったスマホとWi-Fiスピーカー、家で使っている手動式のコーヒーミルとコーヒー豆、ワイルドターキーとそれを飲むためのロックグラス、浩ちゃんが使っていたテントとダウンジャケット、そして黄色と黒のスーパーカブ。
最近は、生きるのに流されすぎて怠惰な毎日を送っていた。色々なことを経験して感じてきたはずなのに、今ではほとんど忘れている自分がいる。忙しいから、いやそんなのは言い訳だ。見ようとしていないだけだ。小賢しくなって何でも分かったようになって、偉そうに生きている。毎日毎日同じことの繰り返し。自動化されたロボットのように生きるのは効率的で考えなくていい。それでいいのか。僕の中の何かをもっと引っ張り出す必要があるんじゃないのか。今回の山登りは、流れに掉さす行為にしたい。いや、今、僕は格好いいことを言っている。そんなに大層なものじゃない。たかだか山登りごときで何を勿体を付けているんだ。これは、ただ、遊んでいるだけだろう。一人になると、つい考えすぎてしまう。
僕は炭に火をつけて、ビールを開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます