第27話 コノサカズキヲ受ケテクレ

 日が落ちて谷間の底にいる僕の周りは真っ暗になった。僕の足元だけが七輪のおかげでボーッと明るくなっているが、周りを明るくするほどの力はない。赤くいこっている炭に向かって僕は「フー」と息を吹きかけてみた。少しの間だけ小さな火の妖精が生まれて、炭の上をクルクルと踊る。面白がって、もう一度、吹きかけてみる。命を生み出す神様になったような気分だ。


 僕はその七輪に網を乗せて、昨晩仕込んでおいた鶏のモモ肉を焼き始める。鶏に練り込まれたニンニクが焼けて、香ばしい匂いが僕の鼻孔をくすぐる。美味そうだ。我慢ができない僕は焼けるまでの間が持たなくて、二缶目のビールに手を伸ばしてブルトップをプシュッと押し込みグビグビグビと飲む。「美味い」早く焼き鳥を食べたい。


 焼き鳥を待っている間に、小鍋の用意をする。ガスバーナーに三百円で買った小さな土鍋を乗せてミネラルウォーターを流し込み粉末の出汁と塩コショウで味付けをする。その中に焼き鳥と同じニンニクをまぶした鶏のモモ肉と太ネギ、それに豆もやしを入れて蓋をする。後は沸騰するのを待つだけだ。この土鍋は明日の朝はマルタイラーメンを調理するのにも使う。


 アルミホイルを被せていた焼き鳥の様子を見る。焼き加減は良さそうだ。僕は箸を伸ばして一口かじってみる。ニンニクの香りと一緒に鶏の肉汁が、僕の口の中に広がる。


「うまい」


 誰もいない山の中で、僕はつい感嘆の声をあげてしまう。二缶目だったビールを全て喉の奥に流し込むと、残りの焼き鳥を次々に口の中に放り込み、新しい鶏肉を網の上に並べる。三缶目のビールも続けて開ける。


 焼き鳥を食べきり、小鍋で身体を温めた頃には、ビールは五缶目がなくなっていた。残りの一本は明日に残しておこう。スピーカーからはサラ・ボーンの歌声が聴こえる。山奥の静寂を震わせる彼女の歌声は、黄泉の国から僕と親しかった人達を呼び寄せてくれる。もっと近くにおいでよ。一緒に飲まないか。酔ってしまいたい僕は、ワイルドターキーのボトルを開けて、ロックグラスに注ぎ込む。突き刺さるような甘い香りが辺りに漂う。僕は鼻を近づけて、その香気をゆっくりと吸い込み、口をつける。「うまい」凝縮された時間が僕の口の中で広がっていくのを感じる。


コノサカズキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトエモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ


 僕は大好きな井伏鱒二の「勧酒」の歌を思い出す。会いたくても、もう会うことができない親しかった人の顔を思い出す。あの人も、あの人も。


 駄目だな、酔うと感傷的になる。振り返れば、これまでに色んな人に出会ってきて、色んな人と別れてきた。若かった自分もいつの間にやら五十を目の前にしている。小さかった長男のダイチは、小学六年生の終わりに僕の身長を抜いて、今では見上げるほどに大きくなった。


 二年前、中央卸売市場の新年互例会に出席した時、僕は前後不覚になるほどに飲んだ。いや、飲まされたんだけど、この時は多くの人に迷惑をかけた。宴会場で皆の前で戻してしまい、僕は意識が無くなってしまった。そんな僕を社長が必死になって対応をしてくれたことを後で聞いた。


 社長は、グデングデンに横たわる僕のポケットからまずスマホを取り出した。力のない僕の手をつかむとスマホの指紋認証にかざしてロックを解除して、僕の嫁さんと連絡をとった。慌てたのは僕の嫁さんで、旦那からの連絡だと思ったら会社の社長からで、僕がホテルでひっくり返っている事を聞かされた。長男のダイチを連れて車で宴会場のホテルまでやってきたら、吐瀉物で臭い旦那を社長が介抱している。嫁さんは社長に恥ずかしい思いをして頭を下げたことだろう。その後、僕は長男のダイチに背負われて車まで運ばれたそうだ。


 翌日、目を覚まして嫁さんから僕の失態の話を聞かされた。皆に迷惑をかけてしまったことを理解して申し訳なかったが、一番心に残ったのは、ダイチに背負われた話だ。記憶にはないけれど、これは恥ずかしいという感情ではなかった。俺も息子に背負われるようになったんだという、嬉しい気持ちに近い感慨だった。小さな息子たちは、みんな僕が風呂に入れて身体を洗ってきた。鼻が詰まっていたら、その鼻を口でふさぎ鼻水を吸い取ったりもした。そんなヨチヨチ歩きだった息子に、今では親である僕が背負われる。


 まだ未成年だけれど、大人になったら、父親の盃を受けてほしい。その時は、君の未来の話を僕に聞かせてくれないだろうか。楽しみにしている。

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