第7話 肉じゃが
台所の流し台に山のように積み上げられていた洗い物を洗っていく。まず大きめのコップを先に洗う。そのコップの中に箸やスプーンといった細長いものを、たわしで洗い次々と突っ込んでいく。小さいお皿、中くらいのお皿、大きなお皿とグループに分けて洗っていき水切りラックに並べていく。僕の場合は、並べていく順番も決まっていて、出来る限り整然と並んでいないと気が済まない。皿洗いはとても嫌いなんだけれども、洗い始めてしまうと僕の凝り性な面が表に出てきてしまう。
冷蔵庫を開けると、次のような食材が出てきた。ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、もも肉、たまご。冷蔵庫の横の棚を見るとクリームシチューのルーもある。これはシチューで決まりかなと考えたけれども、レントに何か食べたいものがないか聞いてみることにする。台所から二階にいるレントに呼びかけた。
「なー、レント。晩御飯、何が食べたい」
返事がない。レントは夢中になると全く周りが見えなくなる。仕方がないので階段を上っていく。
「レント、聞こえてる」
「なに」
「晩御飯、何か食べたいもんあるか」
「何でもいい」
マインクラフトに夢中のレントは生返事。
「何でもいいって・・・、シチューとか肉じゃがとか、親子丼もできるけど」
「それやったら、肉じゃが」
「肉じゃがか、よしそれでいこう」
僕はすぐに階段を下りて台所に向かう。僕の肉じゃがは生姜をすりおろしたものを必ず入れる。これまで作ってきた料理の中で、ご飯を炊くことに次いで多いのが肉じゃがではないだろうかと思うくらいに作ってきたと思う。そもそも、僕が初めて本格的に作った料理も肉じゃがだった。この肉じゃがという料理には懐かしい思い出がある。
若い頃、それまで会社の寮で生活をしていた僕は、二年間という入寮期限が終わったので寮を出て生活をしなければならなくなった。お世話になった寮母さんが近所の安い木造アパートを紹介してくれたので、何の迷いもなくそこに決めた。そのアパートはかなり昭和を感じさせる造りで、一階と二階にそれぞれ独立した住居が四戸づつ並んでいる。僕の部屋は二階の北側にありカンカンと音のする鉄製の階段を上った先にある。日当たりが悪くてちょっとジメジメとしている。間取りは三畳と四畳半の部屋に小さな台所が付いていて、僕一人が使用するには充分な広さだ。お風呂はない。トイレはくみ取り式で、用を足すと僕から切り離されたものが加速をともなって深い闇の中に消えていく。家賃は二万円。寮で生活してきたことを考えるとちょっとお高いが地域相場で考えるとかなり安い。寮を出て本当の意味での一人暮らしに、新しい世界に向けて出発するような興奮を僕は感じていた。
一人の生活は寮での生活とさほど変わらないと思っていたが、晩御飯が付いていないことと風呂がないということは、生活に大きな変化ができた。まず、体を洗うためには銭湯に行かなければいけない。当時、千里丘という地域は風呂のない木造アパートが至る所に建っていた。その為、銭湯を利用する人が多く、僕の住むアパートから自転車で行ける範囲で七軒もの銭湯があった。普段は一番近い銭湯で体を温めるのだが、気分転換に自転車を走らせて他の銭湯も楽しんだりした。
気分もゆったりして銭湯から出てくると次は食事だ。それまでの僕の人生の中で、外食というのはほとんどがイベントだった。居酒屋に飲みに行くとか、人気のラーメン屋の噂を確認に行くとか、バス釣りの帰りに道路脇の食堂を利用するとかだ。ところが、これからは生活をするために外食をすることになる。もう、母親も寮母さんも僕のためには用意をしてくれない。さながらダンジョンに挑む冒険者のように、僕は夜の街に繰り出していった、、、というのは初めだけで、外食は給料内でのやり繰りが大変だった。結局のところ安く食べる事ができる飯屋に絞られて、うどん屋、ラーメン屋、お好み焼き屋などを利用した。それでも、月末になると金欠になるのでインスタントラーメンにはよくお世話になった。
アパートで生活するようになって三か月ほどが過ぎたある日のこと。仕事が終わりタイムカードを押すと、いつものように帰宅前に銭湯に向かった。熱い湯で気分が良くなった僕は給料日ということもありうどん屋で小さな贅沢を楽しむ。帰り道にビールを買うためにコンビニに立ち寄った時に事件は起こった。いつもなら一本づつしか買わないビールなのに、給料日なのでスリーブに巻かれた六缶セットを手にしてレジに向かう。右側の後ろポケットに財布を、左側の後ろポケットに給料袋を無造作に突っ込んでいた僕は、うどん屋で財布の中の有り金をほぼ使い切っていたので、給料袋を開けることにした。左手をポケットに差し込んだがその封筒がない。眉間にシワを寄せて、再度ポケットをまさぐるがやっぱりない。慌てた僕は着ていた作業着のポケットも調べてみたがやっぱりない。顔を真っ赤にしてレジの女の子に「財布を忘れました」と伝えると、一目散にうどん屋に向かった。
うどん屋にも銭湯にも、僕の給料袋はなかった。その日の行動を思い出して自転車で来た道を逆戻りをしながらウロウロとしてみたが、どこにもなかった。銭湯で盗まれたんだと思ってみたりもしたけれど、銀行に寄らず浮かれていた自分が一番悪い。現実を受け入れた僕は、これからの一ヶ月間をどのように過ごしたらいいのか思案した。何かトラブルがあると何時も頼ってしまう太田に、僕は電話をした。
「どうしたんやヨネ、こんな時間に」
「実はな、」
僕は給料が無くなった経緯を説明した。太田はそんな僕の話を笑って聞いている。
「何してんねん。アホやなー」
「それでな、お願いがあるんやけどお金を貸してほしいねん」
友人の太田に僕は無理なお願いをした。いや、友人だからこそ、そんなお願いはしてはいけない。お金を借りるというのは、これまでの友人関係を壊してしまう覚悟が必要だ。でも、当時の僕は、そんな覚悟もなくただ太田に甘えた。そんな僕の姿を当時の太田はどんな風に見ていただろう。
「分かった」
太田は僕に十万円も貸してくれた。本当にありがたかった。一生恩に着るという言葉があるが、僕はこの時の恩を忘れていない。この間、そんな思い出話を太田に振ったら「ホンマに返してくれたんか」と眉毛をいびつに傾けて僕を睨んだ。いやいや、本当に返していますとも。二重取りは勘弁してよ。恩は感じているけれど。
ともかく、一ヶ月はこの十万円で生活をしなければいけない。いや、来月には借りたお金を返さなければいけないから、都合二ヶ月はジリ貧生活を覚悟しなければいけない。銭湯は二日に一遍でも何とかなるが、晩御飯も同じような分けにはいかない。ウジウジと考えているうちに閃いた。そうだ、自炊だ。
次の日、帰りにスーパーに行ってみた。野菜や肉や様々な調味料が並べられているが、何を買ったらいいのか分からない。携帯電話を取り出すと実家に電話をかけて、母親に教えを乞うた。
「自炊をするの?」
「うん、ちょっと興味が湧いて」
母親には心配を掛けたくないので、本当のことは言わない。
「何が食べたいの」
「うーん、そうやな。肉じゃがにするかな」
母親は嬉しそうに僕からの電話を受けてくれた。言われるままに、ジャガイモ、人参、砂糖や醤油を買い物カゴに入れていく。それらの商品が高いのか安いのかも僕には分からない。
「お肉は、鶏でも豚でも出来るから好きなものを選んだらいいよ。お料理は自由だから。それと、無くてもいいけれど生姜を入れると美味しくなるわよ」
「分かった。生姜も買う。帰ったら、また電話する」
買い物した食材を自転車カゴに積み込んで、そそくさとアパートに帰る。何か妙にテンションが上がっている自分を感じていた。台所に立つと電話を片手に逐一料理の手順を聞きながら格闘して、待望の肉じゃがが出来た。何か美味しそうな香りがする。それまでただの材料でしかなかった物たちが、湯気を揺らめかせながらキラキラと輝いている。
コタツの上に皿によそった肉じゃがを並べて、手を合わせて食べてみた。美味い。いま、僕が作ったとは思えない美味しさだ。何か創造神になったような感動を憶えた僕は次の日に本屋に寄った。借りたお金の中から六百円を支払いカラフルな写真で解説された基本の和食という本を買った。その日から紹介されている料理を一品一品作っていった。料理のあまりの面白さに、また本屋に行って別の料理の本を買い一品一品作っていった。友達を呼んでは僕の料理を振舞うこともよくやった。それらの料理本はボロボロになりながらも今も残っている。
不思議なもので、給料袋を無くしてから六年くらい経った頃には、大阪市内の四ツ橋の周辺でフルーツカフェのお店を出店していた。当時、結構話題にはなったお店だったんだけど、給料袋を無くしていなかったら、お店を持つなんてことはなかったと思う。
そんなことを考えながら、肉じゃがが出来上がった。次男のシンゴは帰ってきたが、長男のダイチはまだ帰ってきていない。最近は帰るのが本当に遅くて夜の八時半を回ることが多い。嫁さんも多分その頃に帰ってくるだろう。僕は、テーブルを綺麗に拭いて、真ん中に肉じゃがのお鍋をドドンと置く。取り皿とお箸をその周りに並べる。毎日かき回している糠漬けから胡瓜となすびを取り出して、これもテーブルに並べる。僕と嫁さんのビールグラスも二つ並べて、家族の帰りを待つ。早く帰ってこないかな。
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