第6話 So What
電話口で学校の先生が、話し難そうにまた申し訳なさそうに次のような話しを始めた。レントが友達とブランコの周辺で遊んでいた時のこと。レントはブランコの周りに設置されている鉄パイプで出来た低い防護柵の上をバランスを取って歩いていたのだが、そのレントをイタズラで後ろから押した友達がいた。バランスを失ったレントはどうも格好悪く落ちてしまったみたいで、それを見ていた周りの友達が笑ったのだ。当のレントはかなり悔しかったはずで、ひとり教室に戻ると友達が引き止める中、学校が終わっていないにも関わらず帰って行ったそうだ。
そんな話を聞いていると、玄関が開く音がしてレントが帰ってきた。二階にある僕の寝室にまでやって来ると、先生と電話で話をしている僕の横でドサッと突っ伏してヒックヒックと小さく嗚咽し始めた。小さな背中がその度に上下している。僕は先生に連絡を頂いたお礼を手早く述べると電話を切りレントに話しかけた。
「何があったんや」
「先生に聞いたん、ヒック、と、違うん」
「あぁ、簡単には聞いたよ。怪我はないんか」
「ない」
「じゃ、心が怪我したんか」
そう言うと、僕の顔を見て
「なんやねん、ヒック、心が怪我って。なんかな、ヒック、しゃっくりが、ヒック、止まらへん。泣いてるんちゃうで」
泣いているくせに強がっているレントを少し頼もしく思いつつも、少し考えた。こんな時、親である僕はどうしたらいいだろう。監督責任はどうなんだと学校に文句を言うつもりはない。また、レントを後ろから押した友達に責任を取れと言うつもりもない。何故かというと、そうした行動を起こしても当のレントの成長には何も影響しない。影響しないどころか、返ってレントの成長を曲げてしまうような気がするのだ。
レントが三年生に上がった頃、友達のイタズラでレントは掛けていた眼鏡を取り上げられて壊されてしまったことがあった。眼鏡を弁償してもらわないといけないので、学校に連絡をして相手さんの母親と話し合ったことがある。悪いことをしたとはいえ自分の息子を守りたい母親と、腹立たしい思いを抱えている僕。両者が気まずい思いをしながらも眼鏡は弁償してもらったのだが、よくよく考えてみると僕は眼鏡を弁償してもらいたかったのかと考えた。いや、そうじゃない。眼鏡の代金など、どうでもいい問題だ。それよりも、親同士のやり取りを見て息子は何を感じていただろう。自分たちの問題を親たちに取り上げられ、当事者だった子供たちが傍観者になり、何を感じていただろう。
今回の出来事はレントにとっては悔しい出来事には違いないが、生きていればこんなことはいくらでも遭遇する。僕はそうした状況になったとしても負けないレントになって欲しい。
僕は子供たちに、草花が成長する姿の話をよくする。種から双葉が伸びて成長していくように、君は今、成長の途中。成長してどのような花を咲かすのかは、君が決めること。ただ、成長しなければ花を咲かすかことは出来ない。今は成長する時なんやと。
今回の出来事をこの草花の話に照らし合わせたとき、学校の先生も友達も隣に植えられている同じ草花ということになると思う。隣同士の関係性はもちろん大切なことだが、レントの成長ということに絞って考えると直接は関係しない。模範として鏡にするのは良いが、「お前が悪い」といくら隣を責め立てても成長はしない。自分の成長だけは自分で責任を待たなければいけない。辛いことがあっても、それを飲み込んで咀嚼して自分の栄養にするくらいの度量を持ってほしい。冷たいようだが僕はそう考えている。
「今日のレントは、勇気ある撤退やな」
「何それ」
「感情的にならんと、自分が置かれた状況を見つめるのも大事なことや」
「ふーん」
「パパが若い頃、自転車で日本中を旅行してた話をしたことがあったやろ」
「北海道に行ったやつやろ」
「そうそう、レントが好きなキャンプをしながら、パパ、ずっと自転車に乗って旅をしててん」
「俺も行きたい」
「行ったらええやん、レントが大きくなったらな。自転車旅行は面白かったよ。三か月くらいブラブラしてた。北海道ではキツネや鹿に会うたで。気球にも乗った。雪も降ってきたわ」
嗚咽は治まったようだ。何かレントに感じて欲しい。そう思いながら、僕は話を続ける。
「あのパパの自転車旅行は勇気ある撤退やってん。パパは大学生やってんけど、パパのお父さんつまりレントのお祖父ちゃんの会社が潰れてしまって、学校に行くお金が無くなってしまったんや。あの頃はバブルっていう時代で、色んな会社が潰れていったんや。お祖父ちゃんはいっぱい借金が出来てしまったからヤクザにも追いかけられててんで。パパはホテルに隠れているお祖父ちゃんに着替えを持っていったりしてたんや」
「へー」
「お祖父ちゃんの問題は何とか解決したんやけど、パパは大学に行くお金が無くなったから魚屋さんで仕事をするようになってん。それがもう大変で大変で。毎日毎日、一日中仕事をしてた気がするな〜。それでな、パパ、逃げ出してん。仕事からも、家族からも。それがパパの自転車旅行やねん」
「ふーん」
「生きとったら、そりゃ〜、色んなことがあるわ。悔しい思いも恥ずかしい思いもする。でもな、また、立ち上がったらいいねん。立ち上がるための、勇気ある撤退ってことやな。なぁ、レント。聞いて欲しい音楽があるねんけど聞いてくれるか」
「何?」
「マイルス・デイビスって人の、"So What"って曲やねん」
そう言って僕は、マイルス・デイビスのアルバム「カインド オブ ブルー」の一曲目を流した。心の奥底から湧き出るような静かなピアノソロの導入から始まる"So What"は、一度聴くと忘れられないベースとピアノのシンプルなコードの掛け合いを緊張感を持って繰り返えしていく。その繰り返しにマイルス・デイビスのトランペットやドラムが加わった後で、マイルスのトランペットソロに繋げられていき盛り上がりを見せていく。祈りにも似たマイルスが紡ぎだすメロディは全編において「だから何やねん、だから何やねん」と叫んでいるようでとても印象的だ。
「どうや、この音楽」
「俺、好きやと思う」
「この音楽の題名は、"So What"って言うねんけどな、日本語ならどういう意味やと思う」
「分からん」
「意味はな、"だから何やねん"って意味やねん」
「ふーん」
「今日、レントは悔しい思いをしたと思うけど、パパは良かったと思うねん」
「あれやろ、それでも成長しろとか言うんやろ」
「良く分かっているやないか。なぁ、レント。格好良い人ってどんな人やろう。パパはな、何があっても"だから何やねん"って立ち上がれる人が格好良いと思うねん。たぶん、マイルス・デイビスって人もそんな人やったんとちゃうかな」
そう言って、レントの様子を見る。話が長すぎたかもしれない。目を瞑っている。
「色々あったけど、明日は学校に行くことが、パパは格好良いことやと思う。突き飛ばした友達と明日も仲良く遊べることが格好良いことやと思う。今日はな、レント、宿題せんでええわ。好きなマインクラフトでずっと遊んでたらええよ。ただし、明日は学校に行くんやで」
僕がそう言うと、レントはすくっと立ち上がって子供部屋に行きパソコンを触り始めた。今回のレントの件はこれで一応の解決だろう。まだ、明日、学校に行くという難所が残っているが、そこは嫁さんに頑張ってもらおう。
小学四年生になるレントは学校を休むことが多い。遅刻に関しては毎度のことで、朝の九時に僕のスマホに掛かってくる電話は決まって学校からのものだ。「まだレントさんが登校されていないのですが・・・」と言われる。勉強や友人関係など原因は色々とあるのだろうが、直接の原因は夜ふかしだ。僕は朝が早いので夜中の子供達の行動については放任していた。学校を遅刻したり欠席したりすることについても、僕が仕事をしている時間なので嫁さんに任せっぱなしだった。しかし、ありにも目に余るので、ルールを作り子供部屋に貼りだした。
一、理由なく学校を休んだら、一週間はパソコンもスマホも禁止
一、学校を遅刻したら、その日一日はパソコンもスマホも禁止
一、パソコンとスマホは、夜の十時まで
一、学校の成績が平均点以上であれば、ちょっとゆるくなる
かなり効果があったようで、最近のレントは無理をしてでも学校に行っているようだ。ルールの四項目の成績云々は、長男ダイチの為に書き加えた。ダイチも小学校中学校と遅刻や欠席の常習犯だった。小学校の頃はあんまり酷かったので、「出ていけ!」とばかりに京都に住む叔母さんの家に預けたこともあった。そんなダイチも高校一年生になった今は生まれ変わったように勉強をしているし、クラブの剣道も熱心に取り組んでいる。学校の友達とネットゲームで度々夜更しをしているが、学校には必ず行くので特例を設ける必要を感じたのだ。「自分で責任が取れるんなら好きにしたらいい」ということだ。
ダイチの基準でいくのなら成績は平均点以上ではなく、もっと上げてもいいのだが平均点以上としているのは、次男シンゴの為だ。シンゴは素直で可愛い息子なのだが勉強がちょっと苦手。決して頭が悪いわけではないが家ではアニメばっかり観ている。三人の息子たちの中では僕の子供の頃と一番そっくりな気がする。僕もテレビっ子でアニメばっかり観ていたから。そんなシンゴが到達しやすい目標のつもりで平均点以上としたのだ。悔しかったら平均点以上を取ってみろという僕なりの意地悪な設定なのだ。しかし、シンゴはまだ平均点以上は取れていない。それどころか、この間も学校を休んでしまった。あまり厳しくしすぎてもいけないし、僕としてはそのさじ加減に苦慮している。中学二年生という思春期真っ只中のシンゴ君。今は悩みどころかな。パパは応援しているよ。
気がつくと日が暮れてきた。もうそろそろ重い腰を上げないといけない。僕はポケットからスマホを取り出すとラインを開き、嫁さんにコメントを送った。
[今日学校から連絡があった。トラブルあり。レントが早退した。詳細は後ほど。心配はせんでいいで。それと、僕のスーパーカブを修理したい]
嫁さんは家業であるクリーニング店の仕事をしている。社長だった父親はもう亡くなり今は嫁さんの弟が経営者になっている。嫁さんが仕事を終えて帰ってくるのは早くても夜の八時を回る。忙しいと夜中になることもある。嫁さんが子供のころは両親が仕事を終えて帰ってくるのがいつも遅いので、毎日外食に出かけるのが普通だったそうだ。今でも吹田にある信濃庵という蕎麦屋さんの前を通ると「私のおふくろの味や」と自虐的に言っていたりする。
そんなわけで、晩御飯はいつも僕が作る。さて今晩は何を作ろうか。腰を上げると階段を降りて台所に行く。冷蔵庫の中身を確認する前に、昨晩からの大量の洗い物が目に入った。「ふー」と、ため息をつく。かなりの強敵だな。僕のやる気を一気に削がれてしまいそうだ。これは音楽の力を借りないと太刀打ちができない。僕は冷蔵庫の上に置いてあるスマホ用のWi-Fiスピーカーの電源を入れる。スマホを取り出して、どんな音楽を選曲しようか悩む。できれば元気になれる音楽が良い。曲のリスト表示を指でなぞりアニソンだけを集めたプレイリストを開く。化物語の「ambivalent world」もいいし、リゼロの「Redo」も捨てがたい。そんなことを考えながら一曲目は魔法少女まどか☆マギカの「コネクト」にした。アニソンは、息子たちの影響で聴くようになった。いや、今では息子たちよりも僕のほうが聴いているんじゃないだろうか。ジャズもいいけど、アニソンもなかなかどうして面白い。息子たちから教えられていくことが、これからは多くなってくるんだろうな。
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