第5話 もみじ

 中央卸売市場の朝は早いが、帰るのも早い。よっぽどの用事がない限り昼の二時になると僕はタイムカードを押して退社する。駐輪場に停めてあるスーパーカブに鍵をさしてキックペダルを勢いよく踏みつけると、トゥルルンと音がする。人間でいうところの「よっこらしょ」みたいな吐息をもらして、ガガガガガとエンジンが回り始める。


 大阪府中央卸売市場の南側に流れている安威川沿いの道を使って僕は自宅に帰るのだが、時々気分を変えて、安威川の土手に上りスーパーカブを走らせる。中央卸売市場周辺の安威川の下流域は川までのアクセスが限られていて人があまり訪れない。鯉を狙っているのだろうか、釣り人がぽつりぽつりと川辺でゆっくりしているのが見える。土手の上は舗装されておらず雨が降るとぬかるんだりする。土手から見える安威川の景色は結構ワイルドで、大きな立木が川の中から生えていたり、人の背丈をはるかに超えた雑草が密集していたりして人の侵入を防いでいる。辛うじて残された自然の中では、水面に鴨が何羽も浮かんでいて都会の中の小さなオアシスといった感じだ。そんな様子を眺めながら、土手の上の砂利道をガタガタとスーパーカブを走らせて家に帰る。


 自宅に帰ると寝室にあるパソコンの前に座る。座椅子を使用する低いパソコンラックに24インチのディスプレイが置いてあり、周辺には知り合いから譲り受けた自作のパソコンと若い頃にローンを掛けて購入したケンウッドのミニコンポが並べられている。パソコンにしてもミニコンポにしても、型が古いので最近までは少しばかり不具合があった。パソコンは古いSSDを新しいものに交換して新たにウィンドウズ10を入れ直した。ミニコンポはアンプもCDプレイヤーも一度分解をして必要な部品と交換をしている。更にはヤフオクで安くサブウーファーも購入できたので、僕的にはかなり納得の環境が構築されている。


 そんなパソコンで最近お気に入りのユーチューブを開く。上原ひろみとハープ奏者のエドマール・カスタネーダが演奏するジャズだ。非常に激しくて、そして繊細。曲名は"The Elements : Fire"。炎の精霊が踊りまくる様子が目に見えるようなその表現力に「こんな天才がいるんだー」と、ただただ感嘆してしまう。


 ジャズという音楽は少し難しい。今でこそ「マイルスっていいな〜」と感じたりはするけれど、はじめの頃は、全くその良さが分からなかった。そもそも僕にジャズを教えたのは太田だ。


 僕がまだ二十代だった頃、太田が「今度、ジャズライブに行こうぜ」と言い出した。太田が教室に通いテナーサックスを練習していたのは知っていた。毎晩毎晩、仕事が終わると誰もいない職場の事務所でサックスの練習をしている姿も見ていた。そんな太田が言うには、教室のサックスの師匠がホテルのバーでジャズライブをするそうで、師匠の応援も兼ねて勉強に行きたいようだった。二つ返事でOKして当日の土曜日の晩がやってきた。


 ホテルのバーと聞いていたのでかなり気を引き締めて赴いたのだが、それほど大きくはないバーだった。お客さんもまばらで姿勢を正さないといけないような空気感はなかった。太田の師匠らしき人に出迎えられ、太田は楽しそうに挨拶を交わしている。僕ともう一人の友人は一緒に頭を下げて挨拶を済ますと空いているテーブルに近づき着席した。先ずは生ビールを頼んだ。結構お高い価格だったわりには提供されたジョッキグラスの小ささにショックを感じたけれども、そんなことを気にしている自分の器の小ささも格好が悪いので、何事もなかったようにグビグビと飲む。やっぱり美味い。


 時間になり、ライブが始まった。サックス、ピアノ、ベース、ドラムの四人編成で、リーダーのベーシストがけっこう渋い雰囲気を醸し出している。演奏は素晴らしいものだったと思うが、正直言うと、いまいち分からない。何となく良い雰囲気にはなれるのだけれど、頭の中で音楽が形となってまとまらない。だいたい、僕の音楽の原点はルパン三世に代表されるようなアニメソングだ。メロディがはっきりしていて、且つ簡潔。鼻歌で歌えるフレーズの分かりやすさこそが僕にとっての音楽だった。そんなことを考えながら、如何にも音楽を楽しんでいるような様子を見せながら、今度はウィスキーのロックを注文した。聴くよりも飲む、花より団子。僕にはこの方が似合っている。


 一時間ほどのライブが段々と終わりに近づいてきた。僕の頭も段々と酔っぱらってきた。そんな時に演奏の合間でリーダーのベーシストが語り始めた。


「今日は、私たちのライブ演奏にお越しいただきましてありがとうございました。演奏はお楽しみ頂けましたでしょうか。ジャズというのはとても自由な音楽スタイルでして、どのようなメロディでも即興でアレンジして音を作っていきます。そこで今日は、皆さんから何かお題を頂戴したいと思います。どうですか、何か演奏して欲しい曲はありませんか」


 リーダーのベーシストは余裕のある口振りでそう述べると、観客である僕達をゆっくりと見廻した。酔った頭の中で何か音楽を思い出そうとしていると、リーダーは両親と一緒にやって来た小さな女の子に視線を向けた。


「今日は可愛らしいお客様が来られていますね。まだ、幼稚園くらいかな」


 そう呼びかけると、その女の子は父親の腕をギュッと握った。リーダーはニッコリと微笑むと、更に声を掛けた。


「幼稚園ではどんなお歌を歌っているのかな。良かったらおじさんに教えてほしいな」


 すると女の子はよく通る声で、


「もみじ」


と言った。リーダーは「もみじか、それにしよう」と言ったものの、その次の言葉が続かない。少し間をおいて、


「あれ、もみじってどんなメロディだったかな」


と言って、サックスを持つ太田の師匠に顔を向けた。太田の師匠もメロディが直ぐに思い出せないらしく頭を少し傾げている。リーダーはもう一度女の子に視線を向けると、


「お嬢ちゃん、良かったら少し歌ってくれないかな」


と、優しい笑顔でお願いをした。バーにいる皆の視線がその女の子に集まる。ちょっと意外な展開に僕も固唾を飲む。(こんな環境で歌わせるなんて、ちょっと無理とちゃう?)と心配をしてしまう。すると、女の子は周りの緊張を他所に軽やかに歌い出した。


 秋の夕日に、照る山もみじ

 濃いも薄いも 数ある中に


 女の子のワンフレーズの歌い出しが終わると、太田の師匠がタイミングよくそのフレーズを受け取りサックスでトレースしていく。その音はまるで女の子の頭を撫でるように優しくはじまり、次第に熱を帯びて吹き上げられていく。そんなドラマチックな展開に僕の胸の中もはち切れんばかりにテンションが上がっていく。


 サックスの演奏がひと段落すると、次にピアノがそのフレーズを受け取りメインで演奏を続けていく。他の奏者はサポートに徹している。それがジャズのルールみたいだ。もみじのメロディは、捏ねられた粘土のようにどんどんと原型が失われていく。でも、その変化を聴き続けている僕には、その変化の中に微かにもみじが残っているのを感じることができる。


「これがジャズなんだ」


 ふいに、僕はそう感じた。食材をどのように調理するのか。同じ食材、同じ調理方法であっても作り手によって美味しさに違いがあるように、ジャズっていうのはその演奏者の調理を楽しむんだと感じた時、ジャズの面白さをやっと感じることが出来た気がした。もみじのフレーズはピアノからベースに手渡され、ベースからドラムへと手渡され、それぞれのソロプレイが奏でられていく。最後は四人が熱く熱くもみじを演奏したあと、まさにもみじが散っていくように今まで紡がれてきた音が消えていった。暫しの静寂のあと、僕たちはもろ手を挙げて拍車をした。奇声をあげてその演奏を祝福した。


 そんな昔のジャズの思い出に浸りながら、スピーカーから流れる音楽に包まれて目を瞑っていると、電話のベルが鳴った。


(こんな時間に誰からや)


 不機嫌な気持ちを抱えながら受話器を耳に当てると、三男のレントが通う小学校からの電話だった。


「レント君、もう帰られていますか」


 僕は体を起こして座りなおすと「どういうことですか?」と聞き直してしまった。

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