第8話 句点

 家族の皆が嫌がるほどに熱く設定した風呂から上がった僕は、シャツとパンツを身に着けるとダイニングテーブルの僕専用の椅子に胡坐をかいて座る。このダイニングテーブルは昨年の引っ越しの際に、嫁さんが望んで購入したものだ。椅子が四脚ついた比較的大きなダイニングテーブルで家族五人が囲んでも余裕がある。ただ、椅子は四脚。違うものを用意することは出来たのだが、僕は座る面積を大きくした僕専用のベンチを日曜大工で作った。用途の一番の目的は、胡坐がかけること。


 結婚というのは、生活文化の違う二人が一緒に生活を始める。当然そこには、文化の違いからくる衝突というものが生まれがちだ。俺はこうしたい私はこうしたいというやつだ。僕は小さい頃は正座をして食事をしていた。今は胡坐をかいているが、お酒を飲むときはこの胡坐が一番落ち着くのだ。対して、嫁さんは、小さな頃からダイニングテーブルの椅子に座って食事をしてきた。ダイニングテーブルはとても使いやすく異論はないのだが、この背もたれが付いた椅子というやつが、僕には合わなかった。外で食事をしているときは特にそこまで気にしたことはないのだが、自宅だとどうもリラックスが出来ない。そこで、胡坐がかけるベンチを製作することにしたのだ。見た目のバランス的にどうかという問題は残るが、このベンチ、非常に気に入っている。胡坐をかきながらのお酒は非常に美味しい。


 お酒と言えば、僕は毎日お酒を飲む。これは父親の影響が大きい。父親も毎日晩酌をする人で、僕は大学生になった頃には、もう父親と晩酌を楽しんでいた。様々な地酒を飲んでみては、美味いや不味いや批評して飲むのだが、父親もそんな僕との晩酌をとても楽しんでいた。ただ、本来、お酒というものは初めは飲みにくいものだ。僕が毎日お酒を飲むようになった原因はお酒が好きだったからではない。父親の一言が原因だった。


 今ではそんな文化はなりを潜めたが、バブル期の学生の間では「イッキ」という飲み方が、当たり前のように酒場で行われていた。大学に入ったばかりの一回生というのは、正にそのイッキの標的で、ビールジョッキになみなみと注がれたビールを手渡され「イッキ、イッキ」という周りの囃子に合わせて強制的に一気に飲むことを強要される。時には、ビールジョッキを持った複数の男子が立ち上がり、どちらが早く飲み切ることが出来るか勝負をしたりもする。お酒というのは体質から受け付けない方もいるので、これは非常に危険な飲み方なので今は厳に慎むべきである。


 当時の僕は、ビールが美味しいかどうかよりも、このお祭り騒ぎの飲み方に飲まれていった。お祭りが終わった後は、トイレであろうが帰りの道路であろうが、至る所に飲んだお酒を吐いて二日酔いになった。ベロンベロンになりすぎて、体の震えを感じたこともあった。学生であるのにそんな状態で帰ってくる僕を母親はかなり心配をしていたと思う。ある時、父親と晩酌をしている時に、父親は僕に言った。


「お酒の強さは、ヒロ(僕のこと)よりもトチ(弟です)の方が強いやろうな」


 酔っぱらって潰れて帰ってくる僕を見て言ったのかは分からないが、僕は父親から否定されたような気持になった。その一言が、弱いくせに更にお酒を飲もうとする僕のモチベーションになってしまった。


 そんな父親は晩年、白血病で亡くなったのだが、最後までお酒を飲もうとする人だった。体はもう受け付けないはずなのに看病をする母親に焼酎が欲しいと哀願するのだ。母親は体に悪いからと言って焼酎を水割りにして渡すのだが父親は喜んでそれを飲む。後から聞いた話だと、最後はほとんど水しか入れていなかったそうだが、父親は焼酎だと疑わずに飲んでいたそうだ。


 梅雨が明けた六月の下旬。母親と妹弟に見守られて父親は亡くなった。僕は父親の死に目に会えなかった。今はその事を後悔している。仕事は確かに忙しかった。当時、僕は大阪から遠く離れた山口に出張していた。仕事の状況から考えると、とても僕が抜け出せるような空気ではなく、悶々としながら仕事をしていた。仕事が終わりホテルに帰ると疲れた体をベットに投げ出した。程なくして携帯電話が鳴った。母親からだった。お父さんがもう危ないという内容だった。父親が闘病生活をしている間、僕は仕事の忙しさからほとんど見舞いすら出来ていなかった。今も、危篤の連絡を山口で聞いている。今からでは大阪に向かうことは出来ない。「分かった」とだけ返事をした。次の日の朝、再度母親から電話があり、父親が亡くなったことを知らされた。僕は長男だ。やっと、意を決して、社長に事の次第を説明して大阪に帰った。


 今、思い返せば、何とでも出来たはずなのに、何もしなかった僕がいた。申し訳ないと思っている。僕の毎日の晩酌は父親への慰霊の気持ちがあったりする。いや、ただ単に、お酒が好きなんですけれども。格好いいことを言ってすみません。


 そんな僕にもお酒に対しては一定の哲学がある。何かしらの理由がない限り、朝や昼にお酒を飲むことはない。僕がお酒を美味しく飲むためには順序がある。まず、一日しっかりと生きる。思い残すことがないほどのやり切った感があれば、それはもう最高。飲む前に、風呂に入る。しかも熱い湯ならなお良し。髭を剃り、歯を磨く。全身きれいに清めて下着を身に着けると、ダイニングテーブルに向かい胡坐をかいて座る。最初の一杯はビール。最近はプレミアムモルツのおまけで「神泡」という超音波で泡を作る秘密兵器を手に入れたので、きめ細かな泡に包まれたビールを僕と嫁さんの分を用意する。そしてグイと飲む。白ごはんは食べない。アテだけを口にする。ビールの後は日本酒なり焼酎を程よく飲む。良い気分になったら寝室に向かい死んだように寝る。僕にとって、お酒は「。」この句点みたいなもので、一日の終わりをお酒を飲むことで締めくくっている。


 肉じゃがを食べた子供たちがダイニングテーブルから離れていき、僕と嫁さんの二人だけになる。嫁さんは今日の仕事でのハプニングの話を僕にする。僕は、今日のレントの出来事を丁寧に話す。それと、僕が乗っているスーパーカブの調子の悪さを過大に説明して修理の必要性を訴える。あまり修理代は高くなさそうな点も力説する。そんな僕の主張を、酔っぱらったのかウンウンと嫁さんは聞いている。どうやら修理をしても良さそうだ。嫁さんは、「もう酔っぱらった、上に連れて行って」と赤い顔をして僕にお願いをする。僕は、ここは仕事をする時だと機微を察して、立ち上がらせた嫁さんの体を支えて寝室へと上がっていく。


 布団は僕の分と嫁さんの分を二つ並べて引いてある。普段ならこのまま寝てしまうのだが、今晩はもうひと仕事した方がいいような気がする。耳を澄ます。子供たちはスマホなりパソコンに夢中のようだ。僕は嫁さんの布団に潜り込むと、嫁さんがその気になるように努力をする。気持ち良さそうなので、嫁さんの服を脱がし、ついでに僕も脱ぐ。さてこれからというときに、ドンドンドンという階段を上ってくる音がした。僕は危険を察知して、慌てて布団から飛び出すと僕たちの寝室の引き戸を押さえた。間一髪、引き戸が開かれるのを阻止した。レントだった。


「パパ、開かへん」


「レント、今はアカンねん」


 暫しの沈黙。上の息子たちはともかく、レントは大人の事情をよく知らない。しばらくすると、トントントンと降りて行った。隣で嫁さんがゲラゲラ笑いだした。


「子供が起きている時はアカンよ。おやすみ」


 いつもなら、死んだように眠るのに。この日は悶々として寝れなかった。句点も、何もあったもんじゃない。

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