スーパーカブに乗って出かけよう

第20話 プラズマイエロー

 僕がスーパーカブのパーツを買うよと嫁さんに言ったら、


「来月にして。今月はダイチとシンゴの定期代の出費が凄いことになったから」


と、言われた。全世界に蔓延したコロナの影響で、子供たちは春からずっと家に居た。夏休みが終わり、九月からコロナに怯えつつも平常通りの授業が始まったので学校に行かないといけない。高校生のダイチと中学生のシンゴは万葉の舞台の一つ大阪は交野にある私立の学校に通っている。摂津市からだと、JRを乗り継いで行くのだが、結構な距離がある。学生とはいえ二人分の定期代は結構なもので、嫁さんは急な出費に頭を悩ましていた。僕はと言えば、暢気なものでお金に関する悩みはすべて嫁さんに任せている。くだもんやYUKKOで作った借金は、お義父さんから借りたお金はまだ返せていないが、国金から借りた三百万円は全額滞りなく返済をすることができた。そのやり繰りはすべて嫁さんに任せてしまった。


 さて、来月の十月までは、まだ五日もある。この五日が待ちきれない。早くスーパーカブを修理をしたくてウズウズしている僕は、近所にある車のパーツの専門店オートバックスに出向いてみた。僕は、車の修理関係のコーナーでスーパーカブの黄色を表現するスプレー缶を探しに来たのだ。ネット上には黄色いスーパーカブ専用のスプレー缶は売っていた。正式な色の名前はプラズマイエローというそうで、何か光がスパークしそうな名前だ。ところがこのスプレー缶は一本二千円以上もするのだ。ホームセンターでスプレー缶を買ったとしたら六百円くらいでいくらでもあるのに、専用スプレーはその三倍も高い。僕はなるべく安く仕上げたい。


 オートバックスの店内の一角に修理用のスプレー缶がズラリズラリと並んでいた。黄色だけでも幾種類もある。価格は千円ちょっと。六百円とはいかないが専用スプレーの半額くらいだ。スプレー缶が並んだ棚には様々な車種とスプレーとの対応表が綴られた冊子が吊り下げられていている。僕はペラペラとめくりHONDAのページを開いた。上から下まで探してみたが、スーパーカブが載っていない。少し考える。車しか載っていない、そういうものなのかもしれない。残念だ。それでも、同じHONDAの流れで、ホンダビートに使われているカーニバルイエローを見つけた。何か楽しそうな黄色だ。実際に商品を手に取ってみた。それっぽいような気がする。対応表に参考の色が印刷されていた。似ているような気がする。プラズマとカーニバル。どちらも楽しそうに飛び跳ねている様子が目に浮かぶ。僕は何の迷いもなくレジに向かい、その商品を買った。


 僕の心はウキウキとしていた。スーパーカブを運転しながら早く家に帰りたくて仕方がない。まず、このスーパーカブの前輪の泥除けであるフロントフェンダーを再度黄色く塗装したい。同じように前面のエンブレムも周りが紫外線の為にボロボロになっているので綺麗にやすり掛けをして再塗装したい。そうすることで、見た目だけでなく強度も増すだろう。そんなことを考えながら家に到着した。僕は、早速、作業に取り掛かることにした。


 まず、綺麗に塗装するための手順だが、装着したままでは色むらが心配なので、スーパーカブからフロントフェンダーとエンブレムを取り外さないといけない。取るためは専用の工具が必要なのだが、家には従兄弟の浩ちゃんから譲り受けた工具箱がある。この工具箱には、車やバイクを整備するための道具が一杯詰まっている。大きな道具箱で持ち上げるのに一苦労する代物だ。


 僕の中の浩ちゃんに関する最初の記憶は、京都の山科の家に遊びに行った時のことだ。浩ちゃんが生活する団地には何本かの桜の木が植えられていた。当時、五歳くらいだった僕はその桜の木に登りたいのになかなか登ることが出来なかった。見上げると大きな目をキラキラと輝かせた浩ちゃんが、さも自慢げに上から僕を見ていた。僕も木の上に登りたくて必死になっていると、隣にお婆ちゃんがやって来て、僕にこう言った。


「ヒロちゃんは、登ったら駄目よ。小さいんだから」


 なんで、僕だけ駄目なんだ。僕は必死に登ろうとする。浩ちゃんは四月生まれ、僕は三月生まれ、同学年ではあるけれどほぼ誕生が一年違う。僕と浩ちゃんは確かに体格に差があった。浩ちゃんは上から手を指し伸ばしてくれた。僕はその手を掴み、やっと桜の木の上に登ることが出来た。浩ちゃんはやんちゃで元気な男の子だ。僕が木の上に登ることが出来て満足しているそのそばで、今度はその木から飛び降りて向こうの桜の木の方に走っていく。僕は一人では、この木から下りることが出来ない。


「浩ちゃん」


 情けない声で僕は浩ちゃんを呼ぶけれど、浩ちゃんの耳には僕の声は届かない。浩ちゃんは耳が聞こえないのだ。耳に補聴器をつけている浩ちゃんは、向こうの桜の木に登るとその上から、目をキラキラと輝かせながら僕を見ていた。


 浩ちゃんと僕は、とても仲が良かった。僕たち家族が京都の山梨に遊びに行くと両親は先に帰り僕たち兄弟だけが山科に一泊した。同じように浩ちゃんたちが高槻にやって来ると浩ちゃんと妹が僕の家に一泊した。家族間でそのような交流は何度も繰り返された。


 当時の僕の家は二階建ての木造住宅で、浩ちゃんたちが遊びに来ると家の中は大運動会になる。二階にある子供部屋の押し入れに入っている布団を全部外に放り出して二段になっている押し入れの上の段からジャンプして布団に飛び込むのだ。そんなんことをすると母親が怒るのだが夢中になっている僕たちは気にも留めない。ある時、その押し入れの上の板が動くことを発見した。僕と浩ちゃんはその板を押しのけて天井裏に登ってみた。三角の屋根に合わせたその暗い空間は、太い丸太の上だけは歩くことが出来た。埃っぽいその暗がりの中で僕と浩ちゃんは慎重に丸太にしがみ付く。隙間からは太陽の光が漏れていて、舞い上がった埃と交差して光の筋を走らせている。この秘密の場所は親に知られてはいけない。言葉を交わさなくても二人の認識は共通で、僕と浩ちゃんは暗い屋根裏の中でじっと息を潜めていた。


 工具を使って取り外したフロントフェンダーとエンブレムを紙やすりで磨いていく。削られた黄色い粉が手にもズボンにもいたる所に纏わりつく。腐食の程度は案外と深くちょっとくらいのやすり掛けではツルツルにはならない。早くスプレーを吹き付けてみたい僕は、磨くのをやめてスプレーを吹き付けることにした。下地にサーフェーサーを吹き付け、カーニバルイエローを全体に丁寧に吹き付けた。美しい黄色だ。とても心が浮足立つ。ところがよく見ると、表面がデコボコとしている。やすり掛けが中途半端だったので、全体が蛇の鱗のように細かく立体的な模様になっているのだ。僕は、じっと見つめる。少し後ろに下がって見つめる。


「いいんじゃない」


 意図したことではなかったが、何だか僕にはピッタリなような気がする。新品のような美しさよりも、生きてきた年輪、もしくは証のような、僕にしか分からない美しさがある。ただ、カーニバルイエローはプラズマイエローよりも明るい色合いだった。全体のバランスで考えるとちょっと、フロントフェンダーだけ妙に浮いている。このことが凄く気になった。


 次の日、僕は仕事の帰りにスーパーカブを走らせてホームセンターに行き、六〇〇円のオレンジイエローというスプレー缶を買った。家に帰ると、もう一度パーツを取り外して、同じように上から薄く吹いてみた。かなり、原色の色に近づいた。これはいい。納得の色だ。ただ、よくよく考えてみると初めから純正の色を購入していたら、このような二度手間にはならなかったことに気が付いた。計画的に事を進めているようで、どこか抜けている。何度も何度も同じことを繰り返している。成長がない。僕らしいといえば僕らしいが、実はこの一連の不手際を僕は客観的に楽しいでいるところがある。「こいつ、またやっているぞ」と自分のことを笑って楽しんでいる。

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