第19話 結婚指輪

 一月二十九日、閉店まであと三日。本来であればくだもんやYUKKOの厨房に立ち注文された料理を作りつつ、お客様と最後の挨拶を交わしているはずだったのに、今、僕は布団の中で寝ている。脇の下から体温計を抜き取ると四十度を超えていた。


 くだもんやYUKKOの閉店を告知してから、多くのお客様が入れ替わり立ち代わり来店された。まだテレビに紹介されていなかった頃、店に来られてはフルーツの美味しさについて語り合ったお婆ちゃん。近所のタワーマンションに住む人懐っこいマダム。住まいは東京だが定期的に大阪に来る用事がありその度に来店されるフルーツが大好きな紳士。食べ歩きが大好きで当店のことをほめてくれた人気ブロガー女子。近所の伊藤忠商事のOL三人組。有難いことに皆さまがくだもんやYUKKOの閉店を残念がってくれた。店内は毎日が満員で千客万来状態。今まではテレビやラジオで紹介された後は一月ほどその効果が続き多くのお客様が来店されていたのだが、今回は閉店の告知をしたことでこんなにも多くのお客様が来店された。こんなに忙しいのならやめなくてもいいのかなと考えてみたりもしたが、嫁さんと約束したのでその思いはグッと飲み込む。


 ところが、二十五日に長男のダイチがインフルエンザに罹ってしまった。病院でタミフルを処方されたのだが、その日の晩は大変だった。虚ろな目をしているダイチが天に腕を伸ばし何かを掴もうとした途端、痙攣を始めた。何か声を発しているが、何と言っているのか全く分からない。嫁さんは、驚いてダイチを抱きしめるけれど、目の焦点が合っておらずバタバタと暴れる。タミフルの副作用については説明を受けていたけれど、何せ初めてのことなので嫁さんと二人でオロオロとしていた。「救急車を呼ばないといけない」そう思ったけれど、発作は長くは続かなかった。ダイチは次第に落ち着いていき眠ってしまった。しかし、次の日に嫁さんが発症してしまい、続いて僕も発症した。


 インフルエンザなのに営業してもいいのか。そんな指摘を受けそうだが、高熱を押して僕は二十八日までは何とか仕事を続けたが、二十九日はついにお店を休業してしまった。来店されたお客様には本当に申し訳なかった。くだもんやYUKKOの閉店を知って駆けつけていただいたお客様が多数おられ、お店のブログには、せっかく来たのに閉店で残念だったとのコメントが次々と残されていった。


 体調は万全ではなかったが最後の二日間は何とか営業を行った。しかし、調理するための材料が次々と切れていき、特に当店のスイーツにとっては重要な地位を占めるソフトクリームの原料がなくなってしまい、YUKKOパフェをはじめとするデザート系の提供が全く出来なくなってしまった。くだもんやYUKKOの入り口の左には正方形の巨大な黒板を張り付けていて、僕はフルーツの豆知識や僕の日記、時事ニュース、今日のおすすめフルーツなど、色々なことを白いチョークで毎日書いていたのだが、その黒板に書かれてある閉店の告知の内容の横に「スイーツの提供が出来ません」と書き足した。


 三十一日の昼過ぎには、全てのメニューを売りつくし来店されるお客様に頭を下げ続け、そして営業が終わった。最後まで僕に付き合ってくれた岩崎君、本当にありがとうございました。最後は綺麗に終われたかというと中途半端な幕切れになってしまった気もするが、やり切ったなという満足感はあった。とにかく、もう、フラフラ。


 僕は一人になり、これまで戦ってきた僕の戦場を見回した。四角いこの店内で、本当に色々なことを学ばせて頂いた。高い授業料やったなと僕に言う人もいるけれど、一千万円でこれだけの体験が出来たのなら、全然惜しくはない。迷惑を掛けた人もいるけれど、あんなこともあったなと笑って話せる日が来ればいいなと思う。


 店の裏口から表に出ると、セメントで固められた石畳の路地裏に出る。店の表に停めてある黄色いスーパーカブに近づくと、僕はズボンのポケットに手を突っ込み鍵の束を取り出す。この鍵束にはこのスーパーカブの鍵と、自宅の鍵と、くだもんやYUKKOの鍵と、両親が住む実家の鍵と、カラナビが付いている。このカラナビに僕は結婚指輪を引っかけている。くだもんやYUKKOで調理をするので、およそ二年近くこの結婚指輪をはめていなかった。カラナビから指輪を外すと、僕はそれを左手の薬指にはめた。ブカブカだ。手を下に向けると落ちてしまいそうなくらいにブカブカだ。くだもんやYUKKOをオープンした時、身長百八十センチメートルの僕の体重は七十五キロもあったのに、閉店した今はかなり痩せて六十三キロになっていた。どうりで、ブカブカになるはずだ。長い旅路だった。嫁さんのもとに帰ろう。

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