第24話 五月の晴れた日のように

  透き通る青さとはこの青空のことを言うのだろう。長野県の白馬村にやって来た僕は車から降りると、アルプスの山々を見上げた。大阪で北摂の山々を見上げるのとはわけが違う。三千メートルに届こうかという山々が天を覆い隠すかのように並び立ち、その白い雪が積もった稜線とのコントラストが空の青さをより一層引き立てていた。


「綺麗だ」


 僕はそうとしか表現することが出来なかった。


 中央卸売市場の朝は早い。大量の農作物が毎日売買されていくが終わるのも早い。二〇一五年五月二十六日の火曜日、僕は寄り道もせずにスーパーカブに乗り家に帰ってきた。特に用事があったわけでもなく家でゴロゴロしていたと思う。夕方の四時頃、電話が鳴ったので僕は出た。


「ヒロ君か」


 山科の叔父さんからの電話だった。叔父さんからの電話なんて滅多にあることではない、しかもこんな夕方に電話を掛けてくるなんて普通じゃない。叔父さんは電話の向こうで言いにくそうに、息子の浩ちゃんが長野県の白馬で亡くなった事を僕に告げた。僕は耳を疑った。よく、内容が飲み込めない。亡くなった?


 有給休暇を使って週末に四連休を作った浩ちゃんは、単身、長野県の白馬岳に向かい登山を行った。予定したスケジュールで下山しなかった浩ちゃんは、地元の協力で捜索され行方不明から二日後に発見された。溶け始めた積雪を踏み外し滑落してしまったとの事だった。


 何も言葉が出ない。お悔やみの言葉を述べる機転も利かない。僕は、これからの実務的な話について、叔父さんに問いかけた。つまり、葬式もそうだけれど、そもそも浩ちゃんの遺体をどのように運ぶのかということを。本来であれば、葬儀場にお願いすることなんだと思う。しかし、距離がある事、手配に時間がかかる事等の話を聞くと、どうしてもこの件に関してだけは、僕が関わりたいと思った。叔父さんにお願いをして僕が浩ちゃんを運ぶということで、話をまとめさせてもらった。僕はこれから車を運転して現地に向かう。叔父さんと叔母さんと、北海道で生活をしている妹は、明日、白馬の駅で僕と合流するすることになった。


 僕は職場の社長に電話をかけて状況を説明する。その上で明日の仕事はお休みさせてほしいことをお願いした。嫁さんから多少まとまったお金を受け取ると、僕は駐車場に停めてあるワンボックスに乗って、まずは京都の葬儀屋に向かうことにした。


 国道を走り叔父さんから教えられた葬儀屋に到着する。制服を着たガードマンのような格好の人に要件を伝えると、裏の倉庫に案内された。そこで僕は棺桶を預かる。浩ちゃんの遺体を運ぶためだ。僕が乗るワンボックスのシートを倒すとギリギリ収まるほどの大きさだった。運転席から後ろを振り向くと、すぐそこに棺桶の角が見える。時間は夜の十時頃になっていた。長野の白馬まではおよそ四百キロ。ゆっくり走って六時間ぐらいの距離だ。今から出発して走れるだけ走って、疲れたらどこかのパーキングで寝たらいい。


 それにしても、信じられない。ハンドルを握り白馬に向かって走っている今も、浩ちゃんが亡くなったという現実感が感じられない。興奮しているのだろう。頭の中が凄く冴えていて、眠気を感じない。僕は夜の高速道路を黙々と走り続けた。常夜灯が次々と後方に消えていく。走り続けて、走り続けて、日が昇る前に僕は白馬周辺に到着した。手頃なコンビニを見つけると駐車場に車を停める。僕は電池が切れたように寝てしまった。


 十時ごろに目が覚めた。横になれなかったので、体中がギシギシと軋むように痛い。車から降りると僕は両手を上にあげて大きく伸びをした。清浄な空気が僕の肺の中にいっぱい入ってくる。目を開けると透き通るような青い空が見えた。なんて綺麗な所なんだ。亡くなった浩ちゃんを引き取りに来たのに、白馬の美しさに僕は目を奪われてしまう。僕は浩ちゃんが登山をしていることを聞いてはいたけれども、ゆっくりとその話を聞いたことがなかった。亡くなった浩ちゃんが見たかったものが、この美しい景色の先にあったのかなと思う。


 叔父さんたちは、特急を乗り継いで昼前に白馬の駅に到着した。僕は合流すると、浩ちゃんが安置されている町役場まで移動する。白い三階建ての役場は緑に囲まれていて、ゆったりとした雰囲気を醸し出していた。訪れた要件を係の人に伝えると、僕たちは別室に通されて、後から制服を着た警官が入ってきた。大らかな雰囲気を漂わせたその警官は、大きな声でよく喋る人だった。テーブルに広げられた地図をもとに、浩ちゃんがどのようなルートで登山を行っていたかを説明してくれた。


 その警官は、白馬岳から南に位置する五龍岳に向かうルートはかなり体力がいるコースなんだと熱弁した。五龍岳の山頂に到着した浩ちゃんは、下山の途中に滑落したそうだ。道幅が一メートルもない尾根は雪が残っていて風が強い。背中に重い荷物を背負っての下山はただでさえ難しいのに、この五月という時期は雪が溶け始めるので上級者でも危険なんですよと付け加えた。尾根から五〇メートルほど下の方で見つかり、ヘリコプターで引き揚げられたそうだ。「彼は月曜日に出勤するためにかなり無茶をしたのだろう」と、その警官は感想を述べた。


 それらの状況説明を聞かされた僕達は、すぐ隣の、浩ちゃんが安置されている場所に案内された。役所の端にありコンクリートが剥き出しの車庫のような場所の真ん中で、浩ちゃんは寝かされていた。近寄ってみると、顔に傷はなく、眠るように亡くなっていた。叔母さんは浩ちゃんを抱くと激しく泣いた。「親より早く死ぬなんて」と言って泣いた。僕も溢れる涙を止めることができなかった。どこまでも透き通った青い空の下で、浩ちゃんは何を求めて登り続けていたのだろう。僕は、悲しい出来事なのに、それは何かとても美しくて、殉教という言葉を思い出した。


 その後、役所の皆さんに手伝ってもらい、浩ちゃんは僕の車に乗っている棺桶に収められた。今後のことを、叔父さんと相談をする。僕は浩ちゃんと一緒に京都に帰る。叔父さん達は、特急で京都に帰る。通夜式は明日行われ、告別式は明後日になる。叔父さんから「無事故でね」と声をかけられる。「はい。責任を持って帰ります」と、僕は返事をした。

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