背中越しの恋人
雨宮 瑞樹
変化
第1話 出発
「約束、絶対破っちゃダメだからね」
「わかってるよ」
キャリーバッグを引きながら目的地へ急ぐ足音。どこかの国から帰ってきた人を迎え、喜ぶ明るい声。そして、別れを惜しむ惜別の声。そんな空港の真ん中で幼少の頃からずっと一緒に過ごしてきた宮川亮と水島唯は高校卒業の一週間前、向かい合い立ち止まっていた。
幼馴染みの二人が互いの思いを打ち明けたのは今から数か月前の夏のことだった。
幼馴染みという壁を打ち破ることができずにいた二人はやっと新たな道を二人で歩もうと進みだしていた。その数か月後。亮はアメリカの映画界の登竜門である難関校『トップムービーアカデミー』に特待生として合格したと唯は聞かされた。
映画監督の息子である亮は、父親の影響からか映画に携わりたいと密かに思っていたことを唯はずっと昔から知っていた。だから、本場のアメリカでその技術を学びに行くと宣言したことに驚きはなかった。むしろ、やっと決意を固めたかと唯はどこか安堵したのを覚えている。
当然そうなれば子供の頃からずっと一緒だった亮と初めて離れ離れになることに気付いたけれど、それには気付かぬふりをして蓋をした。けれど、こうやって別れの寸前を迎えてしまえば誤魔化していた思いが止めどなく溢れて制御不能に陥りそうになる。それを何とか押し止めるために唯は昨晩の出来事を無理矢理引っ張り出していた。
「特に一、二番の約束は、厳守」
びしっと人差し指を頭一つ分高い亮の顔面に立る。長い睫毛をきゅっとあげて、大きな瞳を三角にして睨んでくる唯を柔らかく笑いながら、真っ直ぐ見つめる亮はゆらりと昨晩を思い出す。
第一に浮気禁止。第二に、嘘はつかないこと。第三に亮が帰ってきてたら、一番に会う人は唯であること。第四に、なるべく連絡はこまめにとること……など。昨晩時間をかけて作った約束。ごくありふれた薄っぺらいもので、いちいちノートに書かなくたって、とるに足らない内容だ。正直、内容なんてどうでもよかったのだ。少しでも長く二人でいられる時間さえあればそれで。そんな二人は、意地でも「寂しい」なんて言葉は口にはしなかった。
どうでもいい話に脱線し盛り上がり、本線に戻り、そして、脱線する……それを繰り返す。そんな風に、惜しむように無理やり作った約束。その寂しさの隙間を埋めるように増えていった約束ごとは三十を超えていたが、それは未完成のまま亮の鞄に収めてある。
「この続きは、また亮が帰ってきたらね」
唯はそういって、いつものように少しウェーブのかかっている肩くらいまで伸びた毛先を楽しげに揺らして笑い、昨晩は終わりを告げていた。
――――
「まぁ二番の『嘘はつかない』っていうのは、亮の場合すぐにバレるでしょうけどね」
亮は、嘘が超がつくほど下手くそだ。たとえ、付き合いが長くなくとも大概の人は、亮が嘘をついていれば一瞬で見抜くことができるほどわかりやすく目が泳ぎ挙動不審になる。それは亮自身も自覚しているのか、小学校の頃すでに嘘をつくこと自体やめたようだ。だから、亮はすぐに言い直る。
「俺は嘘はつかない」
「なら、一番の約束が重要『浮気禁止』」
「俺、そんなに信用ない?」
「信用はしてる。だけど、亮は調子乗るところあるからねぇ」
「唯だって、抜けてるし、すぐ人を信用するところがあるから心配だ」
「え? 私すごいしっかりしてるじゃない。今まで私のどこを見てきたの?」
「……自覚がないから余計面倒なんだよな……」
ぼそりと呟いた亮の声。唯は自分のことを過小評価しすぎだと常々亮は思っている。唯の柔らかい雰囲気は、人を惹き付けるつける力があることをわかっているのか? 同級生だけでなく、卒業していった先輩たちも、密かに思いを寄せていた人たちが何人もいたことを知っているのか? その度に俺がどれだけやきもきさせられていたのか、気付いていたのか?
そんなことをいちいち唯本人に聞かなくとも、即答できる。全部否だ。
そんな亮の心中に気付くこともなく唯は続ける。
「時々ノートを見て約束ちゃんと思い出してよ? 亮は、没頭するとすぐ色んなこと忘れちゃうんだから」
亮は端正な顔立ちな上に、スポーツ万能、頭脳明晰だけど、そこが唯一の欠点だ。唯の反撃を受けて、亮はあははと肯定する苦笑いを浮かべて、直毛すぎてピンと立っている黒髪を撫で付けていた。
そんな熱中している姿にこれまで何人もの女の子が亮に惹き付けられていること、ちゃんとわかってるのしら?と唯は思う。鈍感な亮は気付かないうちに、色んな人に囲まれて身動き取れなくなっていた……なんて。今までだって、たくさんあって。その光景を私は何度も目の当たりにしてきているんだから。肝心の亮自身は気付いていないみたいだけど。その度に私の心は悴んで、自己嫌悪に何度も陥っていったのよ。そんな私を引き上げてくれたのも亮ではあるのだけれど。
「まぁ、確かに色々視界は狭まるかもしれないけどさ……」
急に照れ臭そうな顔をし始める亮に、唯は大きめの目をぱちくりさせて首をかしげる。と、そっぽを向いて少し顔を赤らめてぼそりと呟いた。
「……唯のことは嫌でも絶対思い出すさ。その度に会いたいって思いが……どうしようもなくなりそうだけど」
急に素直な言葉を紡いできた亮に不意打ちを食らった唯は耳まで真っ赤にさせ
「……急にそんなこと言うなんて、卑怯よ。……私だって、そうなるに決まってる」
俯きながら苦し紛れに唯はそういった。
亮はただ照れて下を向いているだけだろうと思いながら唯に目を向けてみる。と、そこには伏目がちの瞳にうっすらと涙をたまっていて、亮は驚き胸が痛んだ。
いつだって、唯は何かにつけて我慢しがちだ。人前で泣くことを良しとしない。辛いことも平気だという。絶対に助けてくれと言わない。唯の方が背が高かった幼い朧げな記憶にある頃から、ずっとそうだった。
だけど、最近は少しずつではあるがそんな頑なな壁が少しずつ薄くなってきているような気がしていた。そのきっかけは、互いの思いを打ち明けてから暫く経った最近のことだ。そして、その変化が素直に亮は嬉しかった。
そんな矢先に離れ離れになってしまうことに、自分の夢を叶えるためとはいえ心苦しく思う。
ずっと抜け出せなかった幼馴染みという数センチの距離。
互いの体温が感じられるほど、すぐ傍にいたのに触れられなかった距離。それが、やっと縮まったというのに。また元に戻ってしまうのではないか。せっかく取り払われそうだった壁がまた、ぶ厚い壁に戻ってしまうのではないか。やっと互いの姿を真っ直ぐ見据えることができるようになったのに、また背中を向け合うのではないか。一抹の不安が過るが、自分達はそんなことで崩れはしないと、二人はそう密かに信じるように決意していた。
そんな思いを込めて、亮は唯の手を引いて自分の胸の中に閉じ込めた。しばらく離れ離れなっても、この温もりを忘れないために。
遠慮がちに亮の背中に回される小さい手のぬくもりを感じて、また亮は唯の頭に手をおいて、ぎゅっと引き寄せた。
唯は涙を流れそうなのを「苦しい」という抗議の言葉に変えて紛らわそうとしているのかもしれない。けれど、嘘をつけない背中は小さく震えていた。
背中の震えが止まる頃に、唯はゆっくりと身を離して亮の胸を優しく押し返していた。伏せられていた目を真っ直ぐに亮に向ける。その瞳にはもう光るものはなかった。
「いってらっしゃい」
まだどこか子供の頃の面影を残しながら美しく微笑む唯の顔を目に焼き付けるように亮は見つめた。
「行ってきます」
見慣れてきた太陽のような自信満々の亮の笑顔を唯は心に刻みつけていた。
そうやって、高校卒業式を迎える一週間前。
大きな翼を広げて、亮は空高く遠くへと飛び立ち、唯はそれを見送った。
互いを思う気持ちがあれば、なんでも乗り越えられる。そんな青臭く、それでも確かに強い思いを信じて。
そして、月日は三年経ち、二人は十代から二十代へ。
同時に、理想から現実へと目を向けられるほどに大人になっていった。
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